メビウスの環・終わりの始まり レッドへリング作
「先生? 先生…どこですか? 先生!? 先生ぇぇーーーーー!」
 その日、『疲れた』と書き残した一枚の紙だけを遺し、ある医師の存在がこの世から消えた。

メビウスの環 (終わりの始まり)

 獣化薬…あれが世間一般に出回り始めたのは、私が医者になりたての頃だった。少量で1,2時間だけ人間以外の別の動物になれるという薬で、完治不可能とさえ言われた病気でさえも治療が格段に楽になるということで、学会でもかなり注目されていた代物だ。
 それが後に私を自殺に追い込む薬になるとは、この時は微塵にも思っていなかっただろう。天井から吊るした縄を見ながら少々思い出に浸るとしよう。

 30過ぎくらいに小さな診療所を開いてから。それなりに患者も捌き、それなりにやってきた。
 その頃の大きな病院では獣化薬が当然のように使われていて、ついには人間の病院と動物病院とが集まってできた総合動物病院というのがちらほらと見られた。ちなみにその頃は『へぇ、そうなんだ』程度の認識しかなかった。
 30後半…どの病院でも獣化薬が当たり前の世界となり。当然、私の病院でも扱うこととなった。その時、薬に関する説明会に参加し、学んだことは……
「いくら使っても副作用は無いが、一度に投与しすぎると獣(犬猫、哺乳類の類)から戻れなくなる」
 その時にメモしたノートはすぐに取り出せるように、未だに引き出しに入ったままだ。

 40…運命は唐突にやってきた。
「私を殺してください!!」
「はぁ? ここは人を救う場所で貴方みたいなのがこられても迷惑なんですがねぇ。」
 こういう人間は後先省みないので余計に性質が悪い。
「でも・・・「帰れ!!」」
 彼がこれ以上口を開く前に病院から叩き出す。その方が手っ取り早かった。
「先生、今のはなんだったんですか?」
 当然、何も知らない看護婦が聞いてくる。
「性質の悪いただの自殺志願者だ…まったく。」
「へぇ、やっぱあれ、ガセネタか……。」
 近くにいた風邪をひいた高校生がボソッと口を開いた。
「君、それは何の話かな?」
「え? 先生知らなかったんですか? ほら、最近できた匿名掲示板にここの事が書き込まれていて、自殺志願者には薬を出すって。」
「そうかぁ、だからあんな馬鹿が来たのか。」
 この時はまだ笑い話ですんでいた。だが、ネットの力は思っていた以上に強大だった…徐々に患者より自殺志願者の数が増えてしまい、診療所は瞬く間に精神病院と化してしまっていた。
「はい、次の人。」
「先生、聞いてください…学校で、虐められてて。先生も親でさえ力になってくれないんです。居場所が無いんです! もう、楽になりたいんです。お願いします。 楽になりたいんです。」
「本当に無理なのかい?」
「はい。ネットじゃあここが有名だし、ここしかないんです。」
「先生もね、変な噂たてられてねぇ。迷惑してるんだよ。もちろん一般の患者さんにも迷惑がかかってる。だから薬は出せないよ。」

「分かった…変な噂はたてないと約束してくれるね?」
 それが医者としてのプライドを捨てた初めての瞬間だったに違いない。
「本当ですか!? もちろんです。」
 このいたいけな少女の表情に光が差したときはいい事をしたんだと思い込んで…いや、思い込もうとしていたのだろう。
「今日はこの薬を適量、出してあげるから。思いとどめることができなくて、本当にダメだと思ったのなら…今度は親御さんと一緒に来なさい。」
 そのちょっとが始まりだった。この10年、確かに病院は大きくなったが、私はその何十倍の苦悩を背負って生きてきたのだ…先日、有名な病院でさえも自殺者に対して獣化薬を出していたとニュースになっていた。もういいだろう…私がやる事は終わったのだ。楽になろう。
 手に縄の冷たさが伝わる、この感触ももうすぐ終わりだ。首と縄の温度が重なる…足場にしていた椅子を蹴り飛ばした瞬間、私の意識は消えた。
「先生? 先生…どこですか? 先生!? 先生ぇぇぇーーーーー!!」」
 病院内に看護婦の悲鳴が響き渡る。待合室のロビーにあるテレビは淡々とニュースを読み上げていた。

『次に日本の全体人口の約4割が消え、野生動物が各県に大量発生したという話題です……』


 続
メビウスの環・第1話:涙
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