月夜の誘惑 Act.3―生きとし、生けるものへ―暁 紅龍作
『グルルルゥゥ…。さぁって…オレはこれからどうするか…。』
 翔は湖の畔で座りながら考えていた。それはこの森で生活をする上での拠点となる自身の住処のことであった。この広大な森であるならきっとあるに違いない。翔は立ち上がると直ぐさま住処を探しに出たのであった。
 地に手をつき、鼻を使い他の獣や人間の気配が感じられないところを探していく。森は鬱蒼と木々やそれに付随する植物が生い茂っている。その環境の中で如何に自分のいるべき場所を探すかが、この森で暮らす上で重要になり得るのだろう。
 湖から離れること数時間。彼は慎重に探していると、ごつごつとした岩肌の地面が露わになっている箇所を見つける。その先には、小さな自身が通るぐらいには最適な岩の洞穴があった。翔は匂いを確かめる。他の獣が居ないか。それより、人間が立ち入ってないか。恐る恐る洞穴に顔を突き出し、中を確認するとそこは入り口とは対照的な広い空間があった。
 大きい身体ですり抜けるように入り口から入ると、そこは今の翔の身体にとっては過ごしやすい空間であった。暗く、外敵も無く、少し湿った空気。
『…決めた。オレは此処で住む。ヘヘ…、最高な居場所だぜ。』
 上機嫌な翔は、今晩は此処で寝ることにした。ごつごつとした岩肌が若干眠りに入るのを阻害したが、翔の身体にはさほど影響はなかった。むしろこの環境で初めて寝るという事に翔は少し不安であったが、人狼としての彼の意識はさほど無関係かのように翔を諭すと、そっと眠りに入っていった。

 翌日、目を覚ました翔は眠たそうな目を擦りながら起きた。
『くわぁぁ…。眠い…。だが何も無い住処の状態をどうにかしないとな…。』
 翔は住処から出ると、必要な物資の調達と共に森の散策を行うことにした。寝床に敷く藁。これは簡単に手に入った。成長時期を過ぎ、カラカラに乾燥した植物の束を鋭い爪で刈り取って、寝床に敷き詰める。そして再び森へと出ると、彼は空腹感を覚えた。飛び出す前に食べた生肉だけしか口にしていなかった彼は不思議と「獲物」を探していた。
 するとどうだろうか。感覚の鋭くなった翔の耳に何かの動物の群れが移動する音が聞こえてくる。
『2頭…、いやもっと居るな…。こっちに来るようだ…。』
 そして高い木の頑丈で太い枝に上ると、動物の群れが現れるのを待ち受ける。現れた動物の群れは鹿の群れ…。数頭が確認できた。
『…ウガァァァァォォォオオオ!!』
 翔は唸り声を出しながら木の枝から飛び降りると、自身の鋭い爪を豪腕で繰り出し、獲物の急所に繰り出す。獲物の急所に致命傷を与えることに成功した翔は、獲物の首を豪腕で絞めるとボキッっと言う首の骨の折れた音と共に鹿の息の根を止めた。鹿の群れはちりぢりになって離散していく。まさか狼に襲われるとは思っても居なかったであろう。
『へへ…。オレの獲物…、獲物…。』
 翔は獲物からにじみ出る血の香りに興奮していた。そして翔は「獲物」に食らいつく。鋭い牙は鹿の腹部をいとも簡単に噛みちぎり、中からは更に濃密な血の香りが鼻腔を貫く。
『美味そうだぜ…。』
 舌を出し、息を荒くしながらむしゃぶりつく。その姿は野生の狼そのものであった。

 しばらくして翔は食事を終える。鹿のあらゆる箇所の肉という部分を食らいついた彼はそっと獲物から離れる。翔の口や首のふさふさした毛、両手には獲物の血が少し黒ずんでこびりついていた。
『ふぅ…すげぇ美味かった…。』
 今の翔にとってこの食事はどんなものよりも美味であった。そして食事を終えた翔は「自分の家」へと戻る。住処へ戻った翔は自然と普段からしているかのように自身の毛の毛繕いをしていた。こびり付いた獲物の血。移動中に身体についた土などを長い舌で舐めて行く。
『またあの獲物…食いてぇなぁ…。』
 獲物の極上の血の味を覚えた翔はまた食欲がわきあがって来る衝動を覚えた。そうして毛繕いをしている時に、ふと下半身にあるものを眺めていた。それは「人間」であった頃に着ていたジーンズ。
『…これは…いらねぇな…。』
 そうして翔はジーンズを切り裂くと、自身の下半身を初めて見る。逞しい筋肉。鋭い爪。そしてきれいにグラデーションされた己の身体を守る獣毛。人間としての最後の面影であったジーンズが無くなった彼は真に人狼となった。
 それからの翔は、森の中で生き生きと過ごしていた。あの窮屈な部屋の中で夢見ていた自分のように。森を駆け抜け、獲物を狩り、そして夜は湖で月に向かい祈る。その課程の中で、彼の意識はより狼に近い意識に変わっていく。ワイルドで、どう猛で、自身の欲望の赴くままに。
『…あぁ…オレのお月様…。』
 彼の中で月は己を導いてくれる神様のような存在であった。そうしていつものように湖の水を舐め取るように飲んでいく。
『…お月様…オレに何を言っているんだ…?』
 彼は月から何かを感じ取ると、月を眺める。その月は新月に入る直前の欠けた月。その月を紅い瞳が見つめ、月の意思をくみ取る…。
『…オレのあるべき姿に…戻る…?』
 そう月から感じ取れた。
『オレは…戻れるのか…ニンゲンに…。』
 月に問いかける。すると、欠けた月の光を全身に受け、彼は月の意思に従い、森を離れる。元居たあの部屋に戻るのは翔自信は不安であった。森の生活に慣れた身体では、街の移動は少し苦労した。民家が徐々に現れ、それが住宅地になり、段々と高層マンションやビルが見える。
 数時間後ようやく彼はニンゲンであった時の自身の部屋の建物についた。窓は開いており、白いレースのカーテンが風になびいている。その窓から部屋に入る。
『ふぅ…、はぁ…はぁ…。』
 移動に疲れたのだろうか、口を半開きにして舌を出しながら呼吸する翔であったが、そのまま深呼吸すると呼吸を元に戻し、窓から欠けた月を眺める。
『…お月様…。オレ…戻ったぞ…。』
 窓の前で月に向かい祈る。するとどうだろうか。彼の身体は変化したときのように興奮し、さらに発熱する。
『うぐっ…!!ゥワォン…!!』
 その発熱は、徐々に身体の至る部位を変えていく。全身の筋肉は段々と衰え、骨も太さが変わり、尻尾が身体に吸収されるかのように小さくなっていき、消えていく。脚は踵がつくようになり、手も指同士が近くなるような形になる。
 突き出たマズルは引っ込むと、頭上にあった三角形の耳は丸みを得ながら元の部位に戻っていく。最後に全身を覆っていた蒼と銀の獣毛が月明かりに照らされ、光り輝くと光の粒となって消えていった。

 そこにいるのは、紛れもなく人間の姿の翔であった。そして月の光に包まれたとき、自分の中の狼が静かに眠りにつく感覚を覚えると、そっと瞳を開く。
「…僕は…。戻れたんだ…。戻れたんだ。」
 人狼として過ごしたこの数週間。翔にとってはかけがえのないものになっていた。懐かしく、自身の肉体が全てものを言う世界。それはいままでの彼には体験できなかった世界。
「…え…?お月様…?」
 すると月が翔に伝える。
「…わかったよ…。ふふ。また狼になれるんだね…。」
 翔は月に一礼すると、窓をそっと閉めた。
 それからの翔は、満月の夜から、新月の夜までを人狼としてあの森で過ごすと、それ以外の期間を人間の姿で過ごすという生活サイクルになっていった。
「ありがとう、僕のお月様。」


 続
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