それから数時間が経過した頃。ようやく泣くのをやめた翔は、窓を閉め、玄関の鍵も閉め、全ての外界との接触を断った。
『僕は…僕は…。もうお仕舞いだ…。』
翔には絶望という感覚しか残されていなかった。それからの翔の生活はというと、閉め切った部屋の中でただひたすら一人で過ごすという生活になっていった。
ガラスのコップに炭酸飲料をつごうとすると、まずペットボトルの容器を持とうとした途端に鋭い爪が容器を裂いてしまい、コップにつぐことさえもできなかった。喉が渇いた翔は玄関横のキッチンへと向かうと、頑丈な丼の器に水を満たして両手で器を持ち上げて飲み干した。こうすることで喉の渇きは解消された。
しかし、翔の今の身体には満足できない水の質であった。感覚の鋭くなった舌と鼻腔から都会の水らしいカルキや水道水独特の香りを身体が拒む。吐きたくなる衝動を抑えながら、寝ようとすると、今度はベッドが自身の重さに耐えられるか耐えられ無いかぐらいのギシギシとした音を立てる。
『仕方がないか…。』
そうして翔は掛け布団だけ取って寝ようとする。その姿はまるで巨大な狼が寝ているかのように掛け布団を下に丸め、その上に翔が横になって寝ているのであった。
寝ている間に翔は夢を見ていた。それは、湖のある広大な森の中で悠々と、何者にも怯えずに生き生きと生きている自分の姿。翔はその姿に徐々に憧れるようになり、夢の中の自分と今の自分の違いに違和感を覚えるようになっていった。
夢から醒めたのはそれから3日後のことであった。変化した身体が定着するかのようにすっと寝床から起き上がれるようになっていた。そのときの翔が欲したのは食欲。この数日間、全くといって食事を取ってない翔は飢えていた。冷蔵庫を力強く開けると、そこにはパック詰めされた生肉が冷蔵してあった。
『…肉…ニク…。』
そうしてパックを取り出すと、鋭い爪でパッキングされたラップを引き裂き、そのまま肉を食べていく。その姿はまるで狼が獲物を得て臓物を食らっているかのような姿であった。パックの肉を食べ終わると、満足したのか翔らしい意識が戻っていった。
『…僕は…、一体…。』
辺りには散乱した生肉のパッケージ。そして口から鼻腔を通じて香るのは生肉の独特の香り。
『僕は…もう…バケモノ…なんだね…。』
そうして翔は意を決して窓を開ける。翔の目の前に広がったのは群青色の夜空に爛々と輝く金色の満月であった。
『アゥゥ…、つ、月が…僕を…魅了シテ…、グォゥ…。』
翔の意識とは無意識で身体は動いていく。それは月が身体を突き動かしているかのように。翔は窓から隣の家の屋根へ飛び降りる。
『グォゥ…ッ…ワォゥ…ゥワォォォォォォオオオオオオォォンッ!!!』
グッと身体に力を込めて一気にその力を咆吼として解き放つ。辺りには翔の発した狼の遠吠えが響き渡る。
『…グゥ・・、グルルゥゥゥ…!!』
翔はその突き動かされる身体に身を任せ、元居た部屋を捨てて移動を始めた。それは夢で見ていたあの森を目指して。月が案内するかのように、翔の身体はその森へと移動する。重量のあるはずの身体は軽やかに、そしてしなやかに屋根を伝って移動していく。
どれだけの距離を移動したのだろうか。段々と民家や高層ビル、マンションなどの人工物が辺りから無くなっていくとその景色は深い緑に包まれる。道も舗装されていないのだろうか、砂利道になっている。翔は目の前に広がる広大な森の中心へ向かって走る。息が激しくなるが、森の中独特の香りと空気の中ではつらいことではなかった。翔は森の中を走り続け、ようやく辿り着く。満月が導いたその先には満月が映る湖。
そっと顔を水面に近づけ、手も地面につけて低い体勢にすると、長い舌で湖の水を舐め取るように飲んでいく。それは、今まで飲んだどんな水よりも美味であった。
『ハァ…ハァ…。…ゥワォォォォォォオオオオオオォォンッ!!!』
翔はその場でどこか嬉しそうな、遠吠えをあげる。
『…お月様…僕の…お月様…。ハゥッ…グォォ…!!』
満月の光が目に入ると、それは翔の身体を興奮させる。その課程の中で、彼の基礎となる部分が大きく変わっていく。それは人狼として生きていくための術。より狼に近い意識が自身の身体の奥底から起き上がってくるのであった。
『グゥ…ワゥ…。…オレの…お月様…。』
それは新たな己の生活のスタートの礎になるのであった。