咲ききらぬ中で・前編カギヤッコ作
 その夜、俺は一人近くの公園を訪れていた。理由はと言われてもさすがに表立って言うのは難しい。 強いて言えば……そう、色々あるからだ。
 悩んだって只頭が痛くなるだけ、でも悩まずにはいられない。そんな相反する感情を抱えたまま俺は夜の帳の中をさまよう。夜の公園は只静かで暗いというだけでなく、どこか不可思議な空気を漂わせて いる。
 もともとこの公園自体が古い池を整備した際、回りのちょっとした丘などを整備したもので擬似的な森林公園と言う要素も交えている。実際ベンチに腰掛けて見上げれば常夜灯にうっすらと照らされた咲きかけの桜が見える。他にも見渡せば様々な木々や花も見える。
 前を向けばちょっとした広場越しに道路や家々も見え、池も用水池として人工的に整備されている空間なのだが、こうして暗がりの中ベンチに腰掛けて木々を見ているとどこか異世界にいるような錯覚を覚える。これで悩みも何も消しさる事ができれば幸いなのだろうが、あいにく俺の場合はそうではないようだ。
 「現実はそんなに甘くない」と言うのがこの場合の定番フレーズなのだろうが、気安く言うのもやはり抵抗はある。
 せめてこの一時の間だけでも悩みを忘れたい…そう思いながらも消えない悩みを抱えたまま俺は空と桜を見上げ、大きくため息をついた。
 そして顔を下ろした時―。

 そう言う存在がいると言う事は知識としては知っているし、自分の中の性的嗜好の範疇にそれがあるのも自覚している。
 だが、それはあくまでも想像と妄想の産物であり実際に目にかかる事などない、そう思っていた。だから俺はそれを一瞬疑った。実際―自分の目の前に突然全裸の女性が立っているなどと言う事などありえるはずがないからだ。
 目の前と言ってもベンチと小道の先にある広場に立っている上暗がりでよくは見えないが、常夜灯に照らし出されているその姿は確かに全裸の女性だった。唖然とした顔、と言うより俺と言う存在をまるで意に介さぬように女性は静かにこちらに歩き出した。
 じわじわと、それでいてひたひたと。まるで獣が静かに獲物を狙う算段をするように。
 俺はそこで逃げるべきだったのかも知れなかった。
 よくあるネタだとこのあと俺は彼女に誘惑されたのち文字通り「食われる」展開なのだろうが、俺はまさにその犠牲者のごとく逃げる事ができず彼女が近づくのを只黙って見守っていた。
 少しずつ迫ってくる全裸の女性、そしてもうすぐ露になるであろうその素顔を見定める為……。一瞬とも永遠とも取れる間の後、遂に彼女は広場を抜け小道の上―そう、俺のすぐ目の前に立った。
「……」
 俺はさらに息を呑む事になった。
 背丈や体つき、しなやかな四肢や肌からすれば年の頃は十代後半か二十代前半。胸はまあ、そこそこのサイズだろう。形のいい乳房にちょこんと生える乳首はどこか初々しさを感じる。一瞬の迷いのあと密かに視線を向けた足の間にはやはり聖域を守るささやかな茂みが見える。
 まさに美女・美少女と言えるであろう存在が生まれたままの姿で俺の目の前にいる。
 だが、俺の驚きはそれだけはなかった。
 まさか、「そう言う存在」に本当に出会おうとは……。

 確かに彼女は人間である。それは先ほども述べたとおりだ。少なくともその体は。
 問題なのは首から上。
 髪はショートどころかほとんど頭からわずかに生えているだけ。その上に耳は異様に広く立ち、唇は鼻もろともピンと伸びている。
 不意に横を向くと三角形の印象になるその先には複対のひげが伸びている。額からその先にかけては黄色く染まり、口元から喉は白く染まっている。いや、染まっているよりは毛に覆われているのだ。
「き、狐……」
 そう、その象徴である尾こそないもののその顔はまさに狐そのもの。人間の女性の肢体と狐の顔を持つ文字通りの狐女がそこにいたのだ。
 その姿と瞳に射抜かれたように俺は身動きができなくなっていた。
「……お兄さん、どうしたの?」
 不意に狐女が声をかける。かすかに開いている口元は動いていない、と言う事はそれは面なのか。
 くごもってはいるがかわいらしい声にそう言われ、俺は不意に体を崩して倒れかける。
「い、いや、これは……」
 何とか取り繕うとするが、どうにも言葉が出ない。と言うよりそう言う耐性のない人間が目の前に突然全裸に狐マスクだけの女性が現れて平静を保つ事自体難しい話だ。
 と言うよりよくそこで彼女を押し倒せなかったと妙な所で自賛している。
「まあ、こんな時間に大の男がこんな場所で座り込んでるなんて訳あり以外のなんでもないわよね」
 そんな俺の葛藤ともつかない心中を他所に狐女はそれを見透かすようにそう言った。
 俺は少しおののきながらも、
「ま、まあそう言う所だ」
 と返した。
「ふぅ〜ん」
 狐女は少しそっけない感じでそう答えると、ふっと俺の隣に座り込み、俺の方に顔を向ける。面越しに見える瞳―暗がりと薄い明かりの中うまくは見えないが、それは人の目か狐の目か。それさえもわからないが、その目は間違いなく俺を、俺の心を見ている。そう思えてしまうと俺はなおさらそこを動く事ができなかった。
 先に目をそらしたのは意外にも狐女だった。
 狐女はふとさっきの俺と同じ様に両手をベンチに着きながら大きく延びをして桜を見上げる。
「う〜ん、良い気持ち……咲ききっていない桜も結構綺麗よね」
 彼女はそう言って首を回し、桜や他の木々を見回す。
「……そうだな……夜だと満開の桜もだけどそうでない桜や他の木々もどこか違って見える。昼間は昼間で良いが夜は夜と言う所かな」
 俺はふと感慨に浸りながらそうつぶやく。
 さすがに昼間では全裸に狐マスクの女性に出くわすなどないだろうし。
「でも、こうやって夜空を眺めているとちょっとの間でもいやな事忘れちゃうと思わない?」
 狐女が突然そう言った。
 さっき俺が思っていたのと同じ事だ。
「い、いやあ、そう言いたいけど中々そうは行かないものだよな」
 俺はそう答えて改めてベンチの背にもたれかかる。
「わたしも本当はそうなんだけど……」
 狐女のその一言に俺は一瞬不思議なものを感じた。
 まさしく狐に化かされていた幻が消えた瞬間。
 ご馳走が木の葉だったり風呂が沼だったり、美女が狐だったとか言うのにも似た瞬間。
 まさに正気に返った俺はそれを機に少しずつ話を始めた。直接の内容は伏せてはいるものの俺が抱えている色々な思いを。
 それに対して狐女は時に冷徹にかわすかと思えば慈母の様に優しい素振りで相槌を打つ。
 そして狐女も少しずつ話し始めた。決して悲惨ではないが、だからこそ感じてしまうささやかな、それでいて深い悩みを。
 彼女もまた詳しい事は語らなかったが、俺は根掘り葉掘り聞く事を封じ、聞き役に徹した。
 そこにいたのは俺と同じ様に心に何かを持っている本来の自分を狐のマスクに封じ、その流れを生れたままの肢体を通じて解放しようとしている一人の人間の女性だった。
 それともそんな思いを持つ女性をヨリシロに現世に現れた狐の精なのだろうか。
 そんなやり取りや思いを重ねる内に俺の中で激しい想いが沸き立つ。
 この面を外してみたい。その中にある素顔を見てみたい。
 そればかりではない。俺か彼女かどちらかが火蓋を切って文字通り「獣の交わり」を行なう光景が脳裏に浮かんだ。
 しかし、それはできなかった。
 もしそれを行なったら最後、すべては断ち切られる。
 下手すれば俺は二度と日の当たる道は歩けないだろうし、彼女もまた然りかも知れない。
 何より今の彼女は人ではなく狐なのだ。狐の姿に自分を封じ、自分の姿を狐に宿して歩んでいた「不可思議な世界」からふと「こちらの世界」に来てしまっただけなのだ。
 猛る欲望をあえて封じ、俺は彼女と言葉を通わせた。
 まさに一瞬とも永遠とも取れる時間。
「……ふぅ、一通り話したらすっきりした……ありがと」
 彼女はそう言って立ち上がる。
「ああ、俺も少しだけどつかえが取れた気がする」
 俺は座ったまま彼女を見上げて答える。
「また会いたいな」
 そう言った彼女に俺は少し複雑な顔をしながらも、
「ああ、縁があったらな」
 と答えた。
 その瞬間、口に妙な感覚を覚える。
 そう言う環境にある人間は時々こう言う行為をすると言う。親交の証として。
 しかし、まさか狐女が俺にキスをするとは。
 人工のマズル越しのキス。でもそれはどこか魂がこもっていた。それはマズルの奥から漏れる「本来の」彼女の吐息のかも知れない。
 突然の行為に目を開く俺を他所に彼女は広場まで走ると、突然踊りだす。
 体操選手のように軽やかに飛び回ると思えば舞い手の様に優雅な動きを見せる。
 暗がりのステージと咲きかけの桜をはじめとする木々の背景の中、常夜灯のスポットライトに照らされながら彼女は舞う。それはまさに人と獣が一つとなり、それを越えた存在が見せるものであった。
 何時しか俺の目の前で彼女の背中が黄色に、腹は白く染まる。
 そしてその尻からはふさふさに覆われた尾が見える。
 それは俺だけが見た幻なのだろうか。
 彼女はまさに「狐の姿をした人間」「人間の体つきを持つ狐」となって舞っていた。俺は只魅入られるだけであった。
 そして、本当の狐のような姿になった彼女はそのまま暗がりの中に消えて行った。
 目を凝らそうとした先で何かが立ち上がったように見えたが、そこまでだった。
 俺はしばらく狐につままれたような感じで広場を見ていた。少なくともその間、おれの中にあった悩みや思いは消えていた。今回何度目かの一瞬とも永遠とも取れる時間のあと、俺は静かに腰を上げ、帰 路に着いた。
 今夜はゆっくり眠れそうだ。いや、それとも興奮して眠れないか。
 どちらの効き目をあの狐女はくれたのだろうか……。

 結局あの出会いがあったとて俺が今も悩み続けている事に変わりはないが、俺はそれでも歩いている。あれから何度か夜の公園を訪れたが、あの狐女に出会う事はなかった。時間が合わないのか、それとも……。
 ただ人間としての「彼女」はまた決して解き切れない悩みを持ちながらも前に進もうとしている一人なのかも知れない。それに区切りがつけば狐女は現れないのか、それともやはり現れるのか。と言うより本当に彼女は「狐の面を被った全裸の女性」だったのか、それともそう言う姿に化けた異界の存在だったのか。
 その答えはわからない。と言うよりわかってはいけないような気がする。
 もし俺が彼女の様な姿であの地に立てば何かがわかるかも知れない。いや、いっそ俺も同じ年頃の女性だったら……。
 俺はそんな思いを頭を振りかぶって振り落とす。それが必ずしも彼女に通じる道ではないはずだ。
 時折何度も「彼女」に近そうな年頃の女性達とすれ違う度ふと声をかけたくなるのを堪えてしまう自分がどこかもどかしい。
 そして俺は昼下がりの公園で満開の桜を見つめる。「彼女」がどこかでそれを見ている事に思いをはせつつ……。



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