咲ききらぬ中で・後編冬風 狐作
 「人を馬鹿にしたような展開」と言うものにはどの様なものがあるのだろうか。
 それは人によって異なるのだろうが、俺も先日そう言う体験をしたばかりなのだ。
 桜も満開なある昼下がりの事、少し暑い位の陽気に誘われて俺は散歩に出ていた。近くのコンビニで助六寿司とペットボトルのお茶を買い、ちょっとした花見に繰り出そうと思ったのは只の気まぐれである。
 鼻歌交じりに歩きながら俺はわずかながら人でにぎわう公園を横目にさらに少し人里離れた場所に足を向ける。
 俺が住んでいる町はちょっと裏道に出ればそこには田んぼやちょっとした森林、池などがあり手付かずとは行かないまでも森林浴まがいの散歩はできる。
 そんな中俺の足は道路を離れて人のめったに入らない木々の奥に向かう。
 その奥にもまた桜の木があった。
 樹齢はそこそこの桜の木は他の桜同様満開の時を向かえ、静かに咲き誇っていた。周りを木々に覆われ、人目につかないその姿は雑踏に染まらぬ風流を味わいたい者ならまさにうってつけの場所であるが、今こうして見る分にはそんな手合いもいないようだ。
 もっとも、今の俺にはちょうど好都合でもある。
 しばし見上げて咲き誇る桜を見ていた俺はそのまま根元まで近づくと静かに腰を下ろし、幹に背中を預けた。
 暖かい空気の中静かに風が吹き、枝がそよぐたびに軽く花びらが舞う。
 俗世に戻れば、いや、こうしていても悩みは尽きず、せっかくの花見も俺の心を癒しきる特効薬にはならない。
 悲しきかなこれもまた凡夫の宿命ではあるが、それでもこの一時だけは心穏やかに過ごしたい。
 そう思いながら俺は買ってきた茶を飲み、助六寿司を口に運んだ。
 そして俺はしばし幹に背を預け、目を閉じる。そこまでならごくなんでもない普通の一人花見だったのだ。そう、そこまでは。しばしまどろんでいたおれは誰かの気配を感じて目を開ける。
 その前に1本の木が立っていた。それだけならごくなんでもない風景だろう。
 しかし、目を閉じる前にはこんな距離に木はなかったはずだ。さらに良く見ると木にしてはさらっとした表面を持ち、枝も伸びていない。さらに上には一対の丸いこぶがあり、下に目を置けばコケの様なものが…。
 そこまで来て俺はそれが木ではない事に気づいた。
「おい、冗談だろ……」
 俺は思った。実際悪い冗談としか思えない。
 桜の根元で眠っていて目が覚めたら目の前に―全裸の女性が立っているのだから。
 以前もこう言う事はあった。だがそれは夜中、まだ理性を少しだけ休ませて行動すれば夜の帳の中での幻ですむだろう。それがいかに人目をつかぬとは言え昼日中でなのだ。これを悪い冗談といわずなんと言おう。
 そして俺は静かに目を上に向ける。こんな冗談をやらかす変わり者の顔を見る為に……見なければ良かった。その体は確かに全裸の女性のものだ。大人の女性のような、少女のような肢体。だがその顔は……人間ではない。動物―狐の顔をしている。
「お久しぶり、お兄さん?」
 その女性―狐女は始めて会った時同様動かぬ口元からそう声をかけた。
「おいおい……」
 おれは半分呆れながらもそれに答える。
「お兄さんも花見?」
「まあな、そっちも花見……だよな?」
 昼日中の日差しに映し出される彼女の肢体に目をそらしながら俺は尋ねる。
 夜中ならともかく、その姿は昼間では犯罪である。
 しかし、元の性格なのかそれともその姿がそうさせるのか、彼女は照れている様子もなく、
「じゃなきゃこんな所に来ないわよ」
 と返す。
 確かに、いくらそう言う趣味があろうとわざわざ昼日中にこんな所までそんな姿で来る訳はないだろう。
 そう思っていると変な音が聞こえる。腹の虫だ。言うまでも鳴くそれは狐女から聞こえた。
「……さすがにそんなカッコじゃ食事は持ってきてないだろうな……食いかけだけど食べるか?」
 そう言ってまだ開けていなかった助六のパックとペットボトルの茶を差し出す。
 狐面の女に稲荷寿司を勧める……なんとも因果な話である。
「あ、ありがと」
 そう言いながら彼女はそれを受け取ると、幹を挟んで俺の真後ろに腰を下ろす。
 そのあと、バサッと何か音がしたと思うと、静かに飲み食いの音が聞こえ始める。今俺の真後ろで間違いなく狐女は狐のマスクを外し、稲荷寿司と茶を口に入れている。今振り向けばあの変わり者の素顔を見る事ができるだろう。少なくとも彼女は俺の顔をイヤと言うほど見ている。俺にも彼女の顔を知る権利はあるはずだ。
 いっそあの時は封印してしまった感情―俺も「獣」になって目の前の「雌」と……と言う感情さえ湧いてしまう。だがふと思う。もしそれをしてしまったらこの異様な関係も壊れてしまうのではないだろうか。
 彼女がただの露出趣味のマスク女であろうと、本当に異界から来た狐の顔をした女性であろうと今顔を見られる事は臨まないだろう。それに、悲しきかな今の俺には顔を見る勇気はあれどその先に進む度胸も感情もない。それが幸か不幸かはわからない。
 そう思ううちに、俺の足元にそっと空になった寿司のパックとペットボトルが差し出される。
「ごちそうさま、もちろんきちんと持ち帰るよね?」
 振り向く間を与えないかのように狐女の声がかかる。俺は静かにそれを袋に入れる。
「……でも、こうやって桜の木を見上げていると、ちょっとでもいやな事忘れない?」
 狐女のそんな問いに俺はしばらく言葉を考えていたが……。
「まあ、な……」
 と答える。
 さっきも言った通り、今こうしていても悩みは尽きず、今の一時も気休めになるか否かはわからない。おそらく狐女もまたあの時抱えていたであろう悩みから必ずしも抜け出してはいないのだろう。そんな思いを少しでも発散させる為この昼日中の中、あんな姿で桜を見に来たのかも知れない。
「……いっそ少しの間でも桜の木と合体できないかな……」
 少し甘くすがるような声で狐女がそう言った。
 俺とは違い素肌の全てをさらしている彼女ならより強くそう感じるのは無理もないかも知れない。暖かな日差しの中、狐に身をやつした女性が今度は温かな肢体の全てで桜の幹を抱きしめ例え擬似的にでも桜の木と一つになろうとしている……どこか絵になる。
 見てみたい。その姿を見てみたい。彼女もそのつもりで俺の前で姿をさらしているはずなのだから。そして一緒に桜と一つになろう……そう思いながらも俺は動けなかった。
 とんだ臆病者だ。
 そんな俺をなぐさめるのか、それともあざ笑うのか。桜の花は静かに揺れている。一瞬とも永遠ともつかない時間が過ぎた時、俺は視界をさえぎられた。
 感触からすると持っていたビニール袋を束めて目隠しにしたのだろうか。あわてて取り外そうとした俺の口に何かが触れる。柔らかくて暖かい感触。そしてそこから静かに俺の口の中に注がれる吐息……。
 唇が離れてしばし余韻にひたりながら俺が目隠しを外した時、そこにはさっきと同じ様に狐の面を被った裸の女性の姿があった。
「ありがと、お兄さん」
 彼女はやさしい声―マスク越しなのでくごもってはいるが―でそう言った。俺はまたため息をつくと、
「おい、さすがにまた会おうなんて言うなよ?今度会った時は俺だって何をするかわからないぞ」
 そう言った。これは本音である。実際一度ならずも二度までもこう言う体験をして良くぞ本能に身をゆだねていないと自分をほめるべきか呆れるべきか悩んでいる。もっとも、彼女が仕掛けたのはあくまでも口付けだけなのも不思議な話なのだが。
 そんな俺の悩みを知ってか知らずか、狐女は、
「その時はその時かもね」
 そう言うとそのまま駆け出し、桜吹雪の中で舞う様に走り回る。
 あの時の夜の闇の中と同じ様に、おれの眼の中でその姿は本物の狐に変わって行く。尻からふさっとした尾が生え、全身を狐の毛が覆い、その姿を桜色の狐に変えてゆきながら彼女は舞う。そして、その姿が桜吹雪と共に散り、中から桜色の肌をした狐面の裸の女の姿を見せた後、彼女の姿は木々の中に消えて行った。
 俺はしばらくその先を見つめていた。後を追うべきだったのだろうが、追えなかった。つくづく自分の臆病さに呆れるが、同時に追わなくて良かったと思う自分もいたのは確かである。
 つくづく「馬鹿にしたような、されたような」春の一時は終わりを告げ、俺は静かに立ち上がるともと来た道をたどり、町に、「人の世界」に戻っていった。今では桜も既に緑に覆われて久しく、幸いにしてあの狐女には昼も夜も会う事はない。
 しかし、あの夜の闇の中で、そして光差す桜吹雪の中での彼女とのやり取りは俺の記憶に強く残っている。悲しきかな俺の悩みはまだ消えない。この悩みが尽きなければまた彼女に合えるかも知れない。その時、俺は、彼女はどうなるのか。それはその時にならないとわからないだろう。
 その時が来る事を願いながらも拒みつつ、「彼女」を思わせるような女性達と時々すれ違いながらも俺は今日も歩き続ける……。

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