それは小さな振動だった、一瞬地震か?と部屋の中を見渡したが特に揺れている様子はない。しかし小刻みな横揺れは相変わらず感じている、眩暈にしてはおかしい、何せその振動は手元から感じているのだから。そう手元、そこには今読んでいる本しかない、そして、と巡らせる内に僕はすでに気付いていた事を今更ながら受け入れざるを得ないとも気づけた。即ちその振動の元は本であり、かつ今開いているページにある挿絵の中からもたらされている事に。
その挿絵は活版印刷的な風味を色濃くしたものであり、一番下には注釈が刻まれている代物。ただ厄介な事にその部分は外国語で、その注釈自体が本文に日本語であると仕様。故にそちらを見ようとした折、今度は空気の流れを揺れと共に感じ始める。もうこれはおかしい、とにかく、と思った時はもう遅かった。
何かが見ている、そしてそれはこちらに迫ってきて、幾らか遅れて状況を把握している間にもうそこには、そう全てを一致させて認識させた時にはもう目の前にいて向き合っていた。とにかくそれは、椅子に腰を下ろしたまま可能な限りのけ反った姿勢の僕の前で本の中より出て来ていたのだから。
この時ほど僕は信じられないとの気持ちを抱いた事が生涯であったろうか、と思えた事はなかっただろう。合わせて背もたれ付きの椅子がこれほどまで咄嗟に逃げようとする動きを邪魔するものか、と認識した事もなかったろう。肩幅も広く開いて可能な限り距離を置こうと無意識のままにしたもの、首と共に頭も同様にそうしていた。しかし盲点だったのは胸や腹、つまり胴が相対的に書籍側に近くなってしまう結果を招いていた事だろうか。
しかしそれはその時に認識出来ていなかったのは言わずもがな、となる訳でその時はただ息を飲みつつ、合わせて寝起きから間もない故に実は夢の中にいるのではないか、との認識に逃げようとばかりしていた。それは多分に本能的とも咄嗟の、とも言える当然の反応だっただろうし、仮に僕でない誰かがそうなってもきっとそうであったに違いないと信じてしまいたい。
ただ目を通じて流れ込んでくる情報は違っていた、挿絵に過ぎなかったはずの書籍の一頁にはぽっかりとした穴が今やはっきりと生じていて、振動こそ止んだがそこからは絶え間ない風が、それこそ微風程度ではあるが内から外、つまり部屋の中へと吹き上がっており僕もろにそれを浴びる格好になっていた。それはどこか饐えた香りに湿気、そして適度な冷気を伴うもので季節柄、どうしても暑さを感じてしまう頃だからこそ皮肉にもその終いの部分には心地良さを感じてしまったのは否定出来ない。
だがそれと共に姿を現し、今、目の前にある黒とも白とも解釈出来る何かは一体何なのか分からなかった。気体、つまり濃い煙霧の様にも見えるだけにとはなるがモヤっとした不定形さだけはあるそれは、次第に本に開いた穴から引き続き吹き上がってくる風に乗る形で僕に接近してくる。
もう距離は余り無い、それが分かってるのに椅子に貼りついてしまったかの様で逃げられない、となるのを己が事であるのに他人事の様に見てしまえる不可思議さ。そしてその先端が前述の通り、後ろに頭や肩が逃れたが故に前にあった胸と接触した瞬間、電撃の様な刺激がそこを頂点として全身に走ったのだった。