繋がる世界と想う気持ち・後編冬風 狐作
「ん、アああっ、あ…っ」
 途端に堅く閉じていた唇が綻んで、悲鳴ではなく喘ぎ声、これまで内に堪えていた気持ちや力だとかが途端に弾けるのを示すかの様に捉えられる響きをもらしてしまう。合わせてそれは実に息を強くを吐けるもので、それはその煙霧状の何かが胸を覆えば覆うほど深く、長く、深呼吸の内の吐く側を延々と繰り返していて仕方なかった。
 正に止めどなくと言った具合。これほどの肺活量を有していただろうか、とどこかで思えてしまえるほど、気持ちに余裕はあったから苦痛さをそれほど伴うものではなかった。その様にすっかり気を取られている間に、実は煙霧の一部が鼻を介して侵入していた事実には、何故か問題と思う気持ちはすっかり浮かんですらいなかった。そもそも気付いてすらいなかったのかもしれない。
 冷静に考えたら出すと言う事は空になる事、そして代わりに何か別の物がそこに入ってくる余地がそれだけ生じていると言える訳であって、単にその後者に当たるのが煙霧であったに過ぎない。よって気付いていなかったのではなく、その至極当然な仕組みにすっかり順応して違和感を抱く余地がなかった、またそれほどの不快感を抱くに至らなかった。と出来るだろう。
 その理屈が正しいかはともかくとして、苦痛さとは真逆の麻酔的な心地良さが僕へと多分にもたらされていたのは違いなく、それゆえに不快感をますます感じなくなっていたのは違いなかった。
 相変わらずその正体は不明なまま吸えば吸うほど、呼吸器から循環器を経て全身へと広がって行く。そして先の仕組みの通りに体事由の何かが外から来て何かと置き換えられていく、そんな実感だけは実に強くなっていく。先に結果へと触れるならば、それは自らに抱いているイメージの発露とも具現化とも言葉を当てられるだろう。とにかくこの、今の肉体が別のモノになっていく、それだけは秒毎に蕩けていく脳がもたらす認識だった。
 一体僕は自らに対して何を抱いているのか、それは普段から意識していた訳ではないがその時ばかりはもやっとした、正にあの煙霧の様な不定形さのある内なる認識、それ等が次第に形を整えていくのを理解してしまえる。
 色すら歪ではっきりしなかったモノがまず明度を上げていき、白に限りなく近くなった次には輪郭が整っていく。こういう場合どうしたのが相応しいだろうと一瞬だけ、それこそ細部を確認する様に走る思考。その繰り返しの重なりにもう忘れていたハズの記憶がそこにはある。

 それは昔に浮かべていた姿だった。いわゆるネットスラングにて中二病だとか言われる、そうした色々な思いや衝動が交錯する思春期に第二の存在として浮かべていた姿が引き出されて、そこに上書きされたら、もうそれで完了だった。正に蘇るとの言葉が相応しい上書きだった。
「ん、あ、まさか、なっちゃう、あんっ」
 背もたれにすっかり食い込むのではないかと言う風に力をかけつつ、僕はもう滝の様な汗をかいていた。今や先ほどまでの煙霧はどこにも見当たらない。
 吸いきってしまったのか、それすらも定かではない中で僕は涎をも垂らしつつ半開きになった口からうわ言の様な響きを漏らしては、時折痙攣して実際に姿を変えだしていた。
 それは正に前述した流れから続く終始一貫こそしていたものの、全てが常識的にはあり得ない事ばかり。しかし今、こうして僕は変わり出している事実の中にいる、こめかみにふとした鈍痛が走ったかと思えば皮膚が裂けて大きな骨ではない、表面に凹凸のある角がグイっと姿を現しては先端が幾らか弧を描いてそれは大きな巻角と化す。
「ぐ、んめ、め、めええっ」
 もうそれが結果だった、大きな、直径で示すならば40センチほどはあろう立派な巻角に似合うべく全てが変わっていく。髪の毛自体がさらっとしたストレートからモコモコとした文字通り毛の塊と言った具合になって首筋から背筋に胸へと広がり、合わせて薄着であった服が裂けていく、即ち体格自体が骨と筋肉の発達する音と共に発達してヒトの体で言うMサイズにはとても留まらなくなっていく。
 顔はより一層強く吐き出される息、これに引っ張られる様に唇から尖がっていき大きな円錐状と化す。その表面はモコモコと全身に広がって行く白い毛並みとは対照的な黒の地肌を覆うような短く濃密な毛に覆われていて、もう鼻腔と顎は一体化したマズルとなる。
 その内にふと開いた口の中から漏れた舌は長く、いやに赤さが際立っていて白と黒で構成されていく体の中で異様に目立っていた。そしてそこにあふれ出でる涎が彩を添えてくれる。

 こんなに涎を垂らすなんて、と思ったかは定かではないが改めて大きく息を吐き、全身に満ちる熱の幾らかを涎と共に放出しつつ僕は立ち上がった。これまで体を任せていた椅子はその途端に部屋の後方へと倒れてしまい、今やひと回りもふた回りもしっかりとした巨躯から吐き出される息は荒さを増しており、幾らか体を捩ったら途端に意識がストンと落ちる。
 最もそれは眠りに落ちるとかではなく、熱に刺激されての興奮から醒めて冷静さを取り戻したと言えよう。そして五指のまま、第一関節から先が蹄と化した肘から先は顔と同じく黒い毛に包まれた手にて全身を確かめる様に弄る。
 それは実にモコモコな体だった、顔と肘に膝から先を除いて全てが白い豊かな厚みある白毛に包まれている。最もそれはどこか粗雑な形を伴っていて、ヒトの体と比較したらモコモコである、とだけは加えておきたい。とにかくもう僕はヒトではないのを僕自身が認識する為のひと時であった、それは絶対に違いない事だった。
 それらを一通り終えた時、僕は喪失感ではなく高揚感に包まれていたのは言うまでもない。とにかくこれは先にも触れた通り、もう幾年以上も前に「第二の存在」ないし「あるべき姿」として浮かべ、強く信じていたヒトではない自らの姿そのものだったのだから。
 どうして手に入ったのか、いや、なれたのか?そこを深く突っ込むのは必要ないとも合わせて浮かべつつ、改めて僕は机の上に開いたままになっていた書籍の挿絵へと手を這わせ、まだそこに穴は開いたままになっているのを確認し、また口元を歪める事に夢中でしかなかったのだから。
 それが確かなもの、と認識するなり僕はその中へと躊躇する事なく腕自体を突っ込ませていく。本のサイズに比べたらそのおよそ2メートル近くはあろうか、との人ならざる人外の巨躯は明らかに不釣り合いであったが、何もおかしな事はない。そう次第にその穴のサイズは広がって行くのだから、そしてその内に部屋の一角全体を占める様になるのを理解しているのだから。
 準備万端、とは正にここで使うべきものだろう。僕はその顔、すっかり慣れた、ようやく自らに上書き出来た羊の顔でにんまりと口元を歪ませるなりその穴の中へと勢い良く入り込んでいく。
 そしてそれが全てだった、途端に噴き出す猛烈な吸い込む風は戻る事は許さないとする何者かの意思を感じるかの様で、瞬く間に頭から肩、少し時間をかけて胴体、終いに豊かな臀部が尻尾と共に飲み込まれたら、それこそ本を勢いよく閉じられる。
 正確に言えばその巨大化していた穴が瞬時に消失し風が収まる、となるだろう。後には主を失った部屋と物々だけがそこにあり、表紙を閉じた状態でその書籍も何事も無かったかの様に机の上に静かに姿を見せていた。

「ん…ああ、朝か…」
 もし次元、否、世界線を越えて合わせる時計があったとしたなら、その時を同じくして、別の、異なる世界線に属するとある場所にて目を覚ます、巨躯にして巻角の立派な羊人がいたのを重ねる事が出来るだろう。
 ただ重ねられたところで何かの繋がりが確実にある、と証明出来るものだろうか。そもそもそうする必要はあるのだろうか、そんな事を観察者目線でふと感じつつ、寝起きで口元の毛並みについた涎を拭う姿を見つめてしまえてならなかった。


 完
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