ふさもふの法則・前編 冬風 狐作
 「これは絶対効く!効果抜群!」と書いてあるレビューを幾らか読み返すなり、それはもう深いため息が辺りに響く。レースカーテン越しに外の明るい日差しが差し込む室内、ふたつほど並んだモニターを前にして腕組みをしながら部屋の天井の片隅を見つめているこの部屋の主がそこには腰かけていた。
「ふさふさともふもふの違いって一体何かしらね、うん」
 腕組みをしたまま、軽く首を動かしつつの一言。上を向いていた頭はやや左斜めに傾ぐ形に落ち込んで、そして組まれたままの片指がその先にある髪の毛をふと巻き取る。ひと巻き、ふた巻きと繰り返している内にその指先は髪の毛にすっかり包まれて指サックの様な具合に落ち着いていく。
 その色は明るいものだった。部屋の電灯こそ落とされているとは言えモニターに、何より窓からの日差しの下に見えるのはやや赤みを帯びた金色。要は金髪であるが染色されたそれにあるどこかしらの薄さやパサつきとは無縁な深みとしっとり感を伴ったもの、正に見事な生来の、と称したくなるがそれだからこそ部屋の主、彼は浮かない顔をしてしまっていると言えるだろう。
「あ、部長。朝起きたら髪の毛が金髪になっていて、これだと会社行けないので休みまーす、なんてとても言えないぞ、コレ」
 加えてその金髪はとても長かった、机の背もたれからすっかり下にあふれる、と書くが相応しいまでに垂れているそれは後ろ姿だけを見ればとても彼、つまり男とは思えない。しかし声は低く、喉元を見れば喉ぼとけの動きが見える、つまりまごう事なき男との組み合わせとの点でとにかくは尋常ならざる事が起きているのは確かなのだった。

 とにかく彼は浮かない表情のまま、マウスを手にすると先ほど見ていたウェブサイトへと再び視線を戻す。そこにあるのは「ご注文ありがとうございました」「発送済み」「到着済み」との注文詳細が表示されたもので、モニターの傍らには空になったボトルの姿。それこそモニターの一角に示されている写真と同じもの。
「薄毛に悩んでいるあなた!ふっさふさを取り戻すには日々の飲み水から変えましょう、山の緑よろしくアナタの頭もふっさふさ間違いなしな深山のミネラルウォーター(鉱水)を是非!うん、是非だね、確かに間違いない、飲んでしばらくしたら生えて来たけど、これは何なんだ、なんで金髪ロングヘアなんだ」
 ポップ体で表示されている売り込み文句を唱えつつ、彼はまた愚痴る。確かにその通りなのだ、そろそろ四十路も見えてくる頃。数年前に比べて幾らか後退しているのが気になっていた所で見かけたこの商品、そんなの誇大広告だろう、と思いつつでも、と何だか気持ちに引っかかって購入してしまったのはほんの幾日前の事だった。
 届いたのはほぼ指定した時間通り、いつも配送に来る業者から受け取った段ボールはミネラルウォーターが入っているにしては大分薄く、そこが何だか引っかかったが開封すれば確かに入っているボトル。珍しくそれは瓶だった、合わせて納品書と案内状、いずれも手書きなのが面白いと感じつつ、それらをサッと見たら早速飲むかと封を開ける。
 コップに注いでの飲み口は幾らか甘めだった。鉱水と言うからもう少し締まった味かと思っていた身からすると幾らか拍子抜けではあったが、届いたばかりで冷えてないのもあるのだろうか、等と浮かべつつ一気に飲み干したら大きなあくびと共に寝床へとダイブしてしまう。
 それからしばらくは何も変わり映えはなかった、どうせ冗談だろうと決め込んで買っていたのもあったから家で飲む用としたそれを在宅勤務の絡みもあってなんやかんやで愛飲していた。
 ちなみに封入されている瓶はまさかの一升瓶、だからその都度コップに注がねばならないし、何より外に持っていくのは困難だったからこそ家用とせざるを得なかったのもあるが、量の多さも相俟って途中からカップ麺を湧かす水にも使ったりする等大活躍、となっていたある日、彼はふとした痒みと痛みを頭皮へと覚える。
「うーん痒い、しかし掻いたら髪の毛に悪そうだし、まぁ頭洗えば何とかなるだろ」
 一仕事終えずっと座っていたが故に幾らか体に冷たさを覚えていた、それもあって伸びをしながら風呂場へと行く。さっぱりしたら夕飯でも食べるか、とそんな思いで熱いシャワーを浴びて頭を洗い出した時を思い出せば思い出すほど、彼はまた頭を抱えてしまえる。しかしそれは過ぎた事だからこそ、余計に克明に思い出せてしまうのだ。

 最初は本当、普段通りだった。頭を濡らし、たっぷり髪を湿らせたら、と。ただそこからが違った、指先に感じる柔らかさ、それは一瞬何かと分からなかった。瞬時に頭が正体を突き止めようと回り出すが頭を垂れて、目を閉じているのもあって中々思う様にならない。しかし、その気持ち悪い柔らかさは次第に質量を伴っていく、そう重力に引かれに引かれて得られていくそれに尋常ではないと感じた瞬間、彼はシャワーに頭を預けるのを止めた。
 本来の位置へと首を直しているのと対照的に指先を巻き込んで落下速度を得た柔らかさはそのまま塊となって、全身を這い撫でる様に浴室の床へと落下していった。途端に大きく息を飲みつつシャワーを止め、浴室の外に置いた眼鏡をかけるも湯気が邪魔して良く分からず、ただしばらくして晴れた時にようやく彼は悲鳴を上げた。そして驚きの声も合わせたら手は頭へと回る、しかしそこにあったのはあっさりとした髪の毛の感触。
「な、え、なにこれ、はい?」
 湯気が晴れたとは言え湿り気に満ちた浴室、その中で彼はとにかく繰り返し疑問の声を上げては確認を繰り返していた。視線の先はふたつ、まずは床の上には黒と灰交じりの塊がでんと排水溝に幾らか引き込まれた形で居座っている。今や水の流れがあればそれに従うしかないと言った態のそれをより細かく評するなら、灰色の部分が土台で黒は無数に分かれた線状の物が複雑に絡み合っている、と出来る 。その見てくれは非常に悪い、ただ心を決めて突いてみればそれはすぐに何か思い当たるものであるとわかってしまえる。
 しかし少しずらしたふたつ目の視線、つまり鏡に映る自らの姿にはより強い問いを伴えてしまえる。一体どうして、と浮かべられるがままに頭にやった肌色の指はそのまま髪の毛の中へと沈む。それはそう金色、ただ黒い眉毛との対比により、これは本来的なものではないのが察せられるし、何より彼自身がなんでこんな色に、と口を文字通りポカンと焦るを繰り返しながら指先での確認を繰り返していた。
 つまり今、浴室内にはふたつの髪の毛があったと言える。ひとつは黒、ひとつは金、正確に言えば赤銅に近いそれとなって前者は床の上に頭皮であったモノと共に、そして後者は彼の頭から自然と振舞ってある。ただその違いしかないのだが、とてもそれは信じられない眺めであり過ぎて彼が自衛も兼ね、しばし考えるのを放棄するに至るのはそう時間として遠い話ではなかった。

 結局、彼が自体を理解出来るまでに要したのは半日ほどだった。いつの間にやら全裸のままで潜っていた布団の中で目を覚まし、喉の渇きを覚えて手が伸びた先にあったミネラルウォーターの一升瓶に口を着け、量がわずかであったのを幸いとばかりに飲み干す。
 そして巡らせる、どうして全裸なのか、どうして頭がぼんやりしているのか、と幾らかしたらば何かに気付いた顔をして恐る恐る浴室へと向かう。
 閉じられたその扉を前に彼は幾らか逡巡していた、分かっている、確かめないとどうにもいけないのだと。しかし回避したい気持ちが抵抗する中、それを突破させたのは鏡に映る自らの顔に起きた変化を目の当たりにしてしまったからだった。
 それは全裸に眼鏡をかけた己の姿だった、ただモヤっとした気持ちの原因となっていると理解出来る金髪が生えている姿であり、眉毛の黒さが本来の自らの地毛の色であるのを強く主張している。しかしそれはもう束の間の事だった、不意に眉間に小さな雷の様な刺激が走ったか灯った次の瞬間、その黒色が幾らか揺らいで、即ちハラハラと抜け落ちるなり髪に相当する鮮やかな眉毛が途端にその場へと表れていた。また視線を落とせば白い洗面台には確かに無数の黒い眉毛であったものが散らばっていて、更に気になってその下へと続けて行けば、なるほど陰部に至るまで同様の状況に陥っていた。
 もう観念するしかない、受け入れるしかない。途端に大きく湧いていた唾を飲み込めば、意を決して彼は浴室の扉を開ける。そして床に落ちる記憶の中に有る黒と灰、特に後者はより色を悪くした具合となった塊があるのを再認識し、そしてそれはこの金髪となる前に己の頭を覆っていた黒髪とそれを支えていた頭皮の複合体である、と理解したのだった。合わせて、あのミネラルウォーターが何かしら関係しているに違いないとも確信しつつ、またあふれてきた唾で口腔内を満たすしかなかった。


 続
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