ふさもふの法則・後編 冬風 狐作
 リンと玄関の呼び鈴が鳴る。今行きます、と返したら厚手のパーカーを被る形で金髪ロングヘアとなった頭を隠しつつ、配達されてきた荷物を受け取る。荷札に記されていたのはあのミネラルウォーター販売主のものだった。
 最初に受け取り、髪の毛に始まり全身の毛が金髪に変わってしまって、そしてまた数日。在宅勤務故に家に閉じこもっていられるのが幸いであったが、来週には顔出しに職場に行かなくてはいけない、どうしたものか、と考えていた矢先に届いたそれに同封された封書を開く。
 実のところ、それが届くのは予期していた事だった。クレームと言うべきか、いやとにかく相談してみないとどうにもならない。こうも割り切れるとか、納得するとかとは別次元の話に至っているが故に、特段怒るでも何でもなく販売主に一か八かで電話をして事情を話そうとすんなりと思い至ったら後はするしかなかった。
 その内容を一通り、極めて落ち着いた口調で受け止めてくれた電話口の相手は急ぎ然るべき対応をすると述べ、届いたのがこの荷物。最初のミネラルウォーターが入った段ボールより幾分小さいそれは、中に矢張り瓶詰の容器が入っており、封書に記された内容はそれをどう扱うべきか、との説明書きだった。
 正直、その内容をそのまま鵜吞みにするのはどうか、だろう。何せ自らの体毛を全て金髪に変えた代物を送り付けてきた相手からの、なのだから。ただそこには確かにそうであると、即ち原因は購入したミネラルウォーターにあるとしつつ、それに伴う「救済策」がまた手書き―見事な墨書でスラスラと認められている。
 もう破れかぶれ、とにかくここまで不可解な事が続いていたら乗るしかない、そんな気分で彼は従うにした。容器の中には明らかに丸薬と思しきものが含まれていた、それも色が違うモノが3種類ほどあり、それぞれ順番通りに煮沸した水と共に飲む様に、とだけあった。
「そうすれば当面の問題は解決できます、ってねぇ。恒久的じゃないのか、と突っ込みたいけど、まぁ飲むか」
 水、つまりそれは先に届いていた一升瓶のミネラルウォーター。指示通りに煮沸し、幾らか冷ましたところで丸薬をコップ別に入れる。溶けたそれはそれぞれに濁った色をしていて、正に煎じた、との具合。
 口に含めばそれは苦く、またしょっぱく、そして甘かった。お湯の熱さと共にその味がそのままに喉から胃の腑へと下っていくのを感じ、吐く息にもその残り香が混ざるかの様。とにかくハァと漏らすだけ漏らして椅子に背中を預けてぼんやりとし始めてから、一体どれだけ経過した頃だろう。口元を顰め出したのは。
「うう、ん、はあ咳き込むにしてはなんか、違う、な」
 呼吸の苦しさを伴うものだった、お腹の中から首に足に向けて歪んでいく。そんな感覚に肺や気道が蹂躙されていたのだろう、段々と荒くなる呼気に汗ばみながら目を閉じて少しでも楽にしようと口を窄めては開き、とする内に身に纏っている部屋着が何とも鬱陶しいものになっていった。

 手が次第に部屋着から下着に至るまでを脱ぎ捨てさせていく、これに至るのもまた幾許もなかった。それと比例して全身に汗ばみが広がって行き、とても息が荒くなっていくのが皮肉なものであったが、目を閉じている事で幾らか楽な心地になれたのが幸いだろう。
 だから彼に何が起きていたのか、それを見るには第三者的に見る必要がある。先に触れた通り、全身に及ぶ汗ばみは体温の上昇を伴うもの。冬場の暖房が効いた部屋の中、それでも漂う幾らかの冷たさを見事に打ち消すほどの熱を帯びた彼がうめくのと合わせて、その体はもう一回りほど大きいものになっていく。それは見ての通りに体格自体の変化だった、そしてそのまま肌色を腋や陰部から無数の毛があふれ出しては覆い行き、そして髪の毛の質も幾らか変わっていく様だった。
 いやそれは髪の毛自体の変容、と言うべきかもしれない。その頃には苦しさの余りだろうか、幾らか衝動的に彼は椅子から腰を動かせばそのまま床へと這いつくばっていた。そうして髪の毛は背中全体を包み込む、金髪のロングヘアのままであったのは幾らかしかなく、明らかに背中に溶け込んで嗚咽と共にその身がのけ反るなり、尾骶骨の辺りから一気に生えいづる長く太く幾重、落ち着いて見れば三尾の尾がゆらゆらと存在感を放っている。
 それが合図だった、途端に全身が大きく痙攣したら顔は突き出し胸は膨らみ、それもただ膨らむだけではなく複数の膨らみを得ていく。何より腕と足はそれぞれが地に生える四つん這いの脚へと変わり行くのだから。ただそれを彼はあくまでもはっきりと認識出来ていなかった、ただ強い衝動と熱の中でもみくちゃにされている様でしかなかった、と後々思い返して口にするのだから、それ以外の何物でもないのだろう。
 ようやく落ち着いた時、しばらく言葉を発する事は出来なかった。ただ自らが四つん這いで歩く存在となった事は理解していた、そして一旦ここから然るべき場所に向かわねばならない事もまた分かっていたから器用に長くなった口、マズルを開いて牙と舌を巧みに操って窓を開けたら後ろ足で閉めた後、静まり返った真冬の新月の空へと一思いにベランダより跳ねる。
 幸いかは分からぬがそれを目撃した者はいなかった。ただ仮にいたならば、そして幾らかそうした知識を持ち得たならば浮かべただろう、空へと向かいゆくアマツキツネか、と。

「はぁ、意外と上手く行くものだ、いや、ね、かな、我ながら」
 1週間ほどした頃、その部屋の中に響く声はやや高めの声だった。ベッドの上には脱ぎ捨てられたスーツが転がり、ビジネスバックが床にある。そして明るい洗面所の鏡には自らの頬に手を当てつつ、確かめる様に、合わせて安堵の息を漏らしている「彼」の顔をした女性の姿があった。
「化けるってのも、分かった様な分からない様だけど、まぁ職場の面々にはバレなかったかな」
 そう漏らしつつ、すっと「彼」の顔は溶けていき一瞬だけは女の顔、そして次には長いマズルを有した獣の顔となる。赤銅色の金毛に顎下の白毛、そしてピンと立つ三角耳、そして全身をそのまま獣毛に包んだ存在となった「彼」だった。
「効果は抜群って本当だねー、ふふ、まぁ少しずれていたけど、さ」
 低めの声はいずこへやら、喉仏はあるのかないのかは豊かな毛並みの内に隠れて分からぬ姿。ただし人の胸の位置、また腹部に幾らかの膨らみが続いているのを見ればそれはなくなっていると見た方がしっくりくるだろう。
「まぁしばらくこのままで、と主様は言っていたけどなんか前より自信が持てている気がするなぁ、鳴くのも楽しいし」
 そう語る背中からお尻を見れば三尾の、そう豊かな尻尾がゆらりゆらりと存在するのを主張してくる。それはもうヒトでも単なる獣でもない存在になっている事を示すもの以外の何物でもない。
「アマツキツネは夜空を駆けて山へ落ち、そこで得られし法に則りヒトに化け…かぁ」
 その幾らか獣臭い口がつぶやく通り、それがここしばらくで山から手に入れた水を口に含んだ「彼」に起こった出来事。
 とても意図していた範疇、それを遥かに超えていたのは言うまでもないが、髪がふさふさどころか全身に毛並みを纏う、ヒトと獣の両取りとなる肉体。それを得た結果として、いわゆる「獣人」態を基本とする妖。その中でも特に狐の流れに組み込まれ、これからは人の世に潜んで山に住む主の呼び出しを待つヒトならざる存在となった彼はもう、ひとりの雌妖でしかなかった。


 完
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