カナコにとり今の「彼」との関係は5年程に及ぶ。その年齢は、となると正直なところ彼女自身が良く覚えていない。ただ「彼」以前に幾人もの「彼等」との関係があったのを覚えているのから見れば、相応の年齢にある、とは言えるだろう。
「時間はある様でないのよねぇ、しばらく使わないところには鍵をかけて、と」
適度に豊満な尻、何よりそこにある尻尾を揺らしながら彼女はその「彼」の家の中の随所に鍵をかけていく。それも一見単なる廊下の壁にしか見えない作りの場所を軽く押すと、その壁の一面が手前に向かって動き始めしっかりと柱と柱の間にはまれば、正に「壁」となって隅にある鍵穴から鍵を抜けば元々そうした壁がそこにあったかの様に見える、そんな細工にする様に彼に指示したのもカナコだった。
「流石にプライベートスペースは守ってあげないとね。でもそれ以外は私の好きな通りに出来るの、本当素敵」
手慣れた具合で彼女は家の中にどんどん扉と言う名の壁、そして扉として動いた先に現れた「廊下」に簡単な掃除をしながら整えていく。そしてその手を止めて出来上がり、と呟くまでにかかったのは20分位だろうか。彼が家を出て行った時間から換算すると1時間もしない内に、その家の内部はすっかり組み替えられて別の空間へと変わっていた。
もし彼が今、急に帰ってきたとしたらそれは驚愕するだろう。外からは明けられない防犯錠を解いて中に入れたとしても、見慣れたはずの玄関はいきなり壁になっていて彼女の言うプライベートスペース、そう彼の自室を含んだ全ての空間に立ち入れないのだから。そしてその壁の向こうには廊下が新たに生じている、それも正に玄関を塞ぐ様に横断しているなぞ思いもよらないはずである。
ただそうしたハプニングが起きないのをカナコは確信していた、だからこそ思い切ったこうした行動をとれるもの。万一そうした事態になっても彼女が彼に対して言ってしまえば一喝すれば途端に収まるはず、否、そうなるのだ。それが絶対となる様に彼女は獣人として「ヒト」たる彼を手懐け、そして調教し尽くしたからこそ、こうした構造になる様に家をリフォームさせられたのだから。
そうして見れば彼が知らない、とは実のところ言い切れないと出来るだろう。即ち、彼自身が所有し維持している家、自宅がカナコの思い通りの姿に変えられてしまった事を彼は知っている。そして実のところ、本当の意味で所有しているのはカナコである、とも。よって「そこ」に仕事ではない時に居させてもらっているのが己であると、その主客逆転を理解し、承知し、そして喜んでいる。それが彼の「立場」だった。
それ等は全ての通りに彼女の意図した流れの内の事。よって「彼」との情交の度にその立場を確認し合う、むしろ交わりとはそれを行う場である、とするのはカナコの中で当然の事で、感じる快楽とはその度に服従して求めてくる忠実な「ペット」に対する褒美の一部でしかない。
「本当、今回もちゃんとしてあげないとねぇ、活用してあげなきゃ」
そうして実質的に手に入れてしまっている家の中が必要な扉を壁として、あるいはその逆として整ったのを確認しながら彼女はまた呟く。完璧なまでにしっかりと現れた廊下には一切窓が無い、家自体が大きく変わった訳ではないのを考えれば、彼に指示してさせたリフォームにより家の中に出現する新たな区割りは窓を封じる事をまず意図しているのが分かる。
また照明が最低限でありどこも薄暗い事も特徴的だろう、結果としてそれが窓が存在しない事をますます強調させる効果を果たしているのだが、彼女の「鹿」としての瞳から見たら全くそうではなかった。単純なヒトとは異なる構造をしているその眼からは普通に見通せるものだから、特に支障を感じている様子はないままに点検して歩く。
その一歩が踏み出される度にその鹿足の蹄からは硬い音が床を経て響く。正確には獣人であるからヒトに近く指の第一関節から先が蹄と化しているのみだが、そこから発せられる音がひたすらに曲がり角を曲がる度に響くだけの時間がしばらく続く、それは正にその空間に対する理解を有しているのが彼女のみである、と示しているばかり。そうカナコこそがこの素敵な空間の主人である証たる響きだった。
自らの所有物であれば、如何様にしても良い、とは大なり小なり皆して意識しているものだろう。だから冒頭にも書いた通り、その程度の差こそあれ遠慮は薄くなる、カナコのこの家に対する意識や扱いもそうしたところに発しており、それは「ペット」たる彼を含めた広範を支配するマスターたる姿であった、と改めてまとめられる。
それ故にその家の中での振る舞いは正に彼女の思うがまま、必要とするがままだった。家の改造は正にその下地を整える為に過ぎない、目的はその先、そう「彼」が不在の間にカナコが必要とする用に足る空間としての活用の為でしかない。
彼にさせた家のリフォームは正直なところ、請け負った業者がこんなになさるのですか?と思わず確認してくるほど、変わっていて、かつ大規模だった。そして更にこれは彼には秘密であったが、実はその身を以って隣り合うアパートの大家をもカナコは飼い慣らしていたのだった。
故に彼の家とアパートは一見すると近接している様に見えるだけでなく、実はつながっていた。それも元々存在していたアパートの地下室につながる階段が床下を剥がせば現れるとの具合であるから、家の中を整えたのを確認し終えるなり、もう姿を見せたその階段へと彼女の蹄の音は進んでいく。
「こうもしっかりと開けたのは久々ね、最近は余りこうまとまった時間はなかったから、本当貴重」
階段には矢張り照明は最低限しかない、そして下りきって彼女が角を当てぬ様に前かがみ気味に進む地下通路が途中から広くなり、そして壁のコンクリートがやや古びた具合になるとそこがアパートの地下室だった。
風の流れがあるのはその鹿耳を通じてよく分かる。ぼんやりとした明かりが灯る中には幾らかの扉が並んだ通路がまっすぐ伸びており、同時に生物由来の匂いが充満していて扉の中から漏れているのもまた明らかだった。
「さぁて、どうかしら?色々と具合は、ね」
カナコの独り言がアパートの地下室に当たる空間に響く。良く通るやや甲高い語尾の響きには鹿の鳴き声に通じる強さがあり、そしてその声に反応するかの様に扉の奥で何やら気配が動いたのを彼女は見逃さなかった。それは正に気配に敏感な獣らしさ、と言えようか。
ヒトよりもずっと鋭敏なそれは、まず眼光として飛んでいく。そして見据えたまま無言で近付くなり、扉の上部に取り付けられた小さなつまみの辺りを、その蹄にて軽くノックする。それも一度ではなく数度に渡り、金属と相性の良い硬さの蹄による響きの内にその気配はとても小さなものになって行くのを彼女は感じながら、何故だかとても口元を歪ませ、微笑ませていくのが印象的であった。