それは愛すべきカップル・第3話オシカサマ冬風 狐作
 チリン、と響く音がノックに対する返事であった。見上げれば扉の枠の外には小さな穴、そして吊るさる小さな鈴が穴の内側、即ち扉の奥の空間から細い鉄線を介した力を加えられて揺れているのが分かる。
「ふふ、オーケーオーケー、よ。その程度で良いから、じゃあ開けるわね?」
 繰り返し鳴り響く鈴の音に対し、カナコはその口元を歪ませて廊下側から鍵を外す。そうすれば自然と扉は横に開いていき音も静まると共に匂い、即ち生物由来の腐敗物だとかの混じり合ったものが廊下へと噴き出して来るのに少しばかり瞳を細めつつも、何か彼女が特に不快と感じている様子は見られなかった。
 むしろその具合を観察している、とも言えるだろう。どうした具合の匂いか、そのヒトとは異なる「鹿」としての嗅覚を以って見極めていると言う具合である。
 扉の雰囲気に反してその先の、大体六畳間程度の空間は真っ暗闇とかそう言う事はなく、適度な照明が灯っていて極端に何か不潔だとかそういう事はなかった。ただ元々あった物置を意図して作られた空間を後から改造したものだから小部屋内に設けられた水回りの造りがいまいちな様で、先に触れた混じり合った匂いなるの主たる割合もそうした配管からもたらされているのをカナコは承知していた。
 故に臭いの内訳を把握する事は大事、と言える。鹿として黒い鼻腔を大きく開いて吸っては感じとり、これは、と見たてを付けつつ、その口をカナコは開くのであった。

「よく寝れたかしら、ここで生活してもう幾日だったかは覚えてる?」
 開け放たれた扉に寄りかかる格好でカナコは中にいる存在に声をかけ続ける。しばらくはまともに返事はなかったが少しばかりしてようやく言葉として返ってきて「うん」と聞き取れるものだった。
「そう、じゃあ良くお薬が効いてるのねぇ、分かったわ…じゃあ幾日か、教えてくれる?」
 カツン、と言う蹄含みの足音が空間、小部屋の中へと響くと中にいる存在が応じて動くのが分かる。その姿はカナコと通じた姿だった、人と同じ体型、しかし体の随所に獣としての特徴があって人語を喋る獣人と言える。
 違いとしたらまだ人の部分が斑模様に残っている事だろう。まだ顔も半分くらいは元のヒトとしての特徴をそのままに残し、首から下も胸や腰を中心に厚い獣毛に覆われていたがお腹周りや爪先だとかはヒトのままとの姿は「なりかけ」との表現をそのままに浮かべさせてくれるものだった。
「えーと…うーん、10日位?わかんないや、もう」
「そうね、大体あってるけど14日、が正解。まぁ仕方ないわ、どうしても認識が鈍ってしまうけど案ずることはないわ。さぁご飯食べようか?」
「うん!」
 ご飯、との言葉に反応するその口はすっかり獣のもの。Yの字をそのまま当てはめたかの様な口と鼻が白と茶色の混ざった毛並みの中で勢い良く動き、そして差し出された皿に載せられた野菜をぼりぼりと飲みこんで噛み砕いていく。その合間にちらりと見える歯は長くヒトのそれとは異なっていた、ただ歯牙とするには鋭さがないのを見れば、食べている物と合わせていわゆる「肉食獣」ではないのは確実に否定出来る。
 最もそれ以上に、今、カナコの前で野菜を皿から貪っている存在がヒトとどう言った獣の混じり合った存在なのか、と容易に分かる部位がある。それは耳、既にその体において耳もヒトのそれでは無くなっていたからこそ、ではあるが今、その付け根を軽くカナコが撫でるなり、野菜をひたすら食べるのに夢中になっていた顔が反射的に持ち上がり、やや不快な顔をまだヒトのままの瞳が特に投げつけてくる。
 しかしその野菜を咥える口が止まる事はなかった。それだけその獣は野菜が好みだった、それも新鮮であればあるほど良い、そうとても良いと言わんばかりの食欲を示す姿にあるのはやや後ろ向きに大きく発達した細長い団扇の様な耳、そうそれだけ大きな耳を持つのはひとつ「兎」に他ならない。
 兎耳、俗にウサ耳と呼ばれるがそちらの言い方こそ、その姿には似合うものであろう。全体として白が優勢、しかし鼻筋だとかを中心に茶色の斑模様、そしてまだヒトのままの肌が混じり合う姿は言うならば兎獣人たるもので、それこそ鹿獣人たるカナコが先日得たばかりの存在なのだった。

 カナコが小部屋の中で皿に載せて差し出した「ご飯」こと野菜は、ものの数分の内に兎の口からその体内へと取り込まれて行った。その食べっぷりたるや豪快、と表せるだろう。ただ肉と違い野菜はいわゆる肉汁だとか匂いに相当するモノが薄い、だからあれだけ食べたのにそうした大食ぶりを感じさせる雰囲気には乏しい内に、その小さな口からゲップを吐くのに同じ草食獣ながら彼女は軽く笑みを浮かべざるを得なかった。
 その微笑みをぼんやりと言った具合で兎は見つめてくる、まだヒトのままである黒い瞳からは先ほどの耳に触れた時に発せられた様な眼光はない。ただ見つめている、何か言われてもいないのなら特に反応する必要もない、との具合であってそれは被捕食獣としての兎の性質がその内面で圧倒的に強まっているのを示しているのかもしれない。
 それを示すのが耳の動きだろう、既に兎と化した耳は時折細かく動いていてカナコがどういう反応を自らに向けてくるのか、と探ろうとしているのは恐らく正しい見立てであった。それだけに彼女は敢えてしばらく無言を貫いた、そう兎が自ら口を開くまで待ってみよう、と言う腹積もりであったのは確かなもので、ただ余りに無反応では困るだろう、と思いやるのもあって時折口元だけは動きを示して壁に寄りかかる形で兎を静かに見つめていた。
 この兎がカナコの手元に入ってきたのは先にも触れた通り2週間ほど前の話。当然ながらその時の姿はヒト、自発的に、そうどこかで聞きつけて来た、この所多く来るヒトのひとりであった。
 ここでカナコが手掛けている事について軽く触れなければならないだろう、彼女の姿は繰り返し触れている通り鹿の獣人である。そしてその姿もまた後天的なもの、即ち彼女も元々はヒトであったとも記さねばならない。彼女としては不本意なきっかけで得た体であり、故にこうした生活を送るになったのだが当時としては先を見通せずに困った、そんな過去も有している。
 どういう経緯であったか?は稿を改めるとしても彼女はこの体を元に、自らの身に起こった出来事を他者に施せる存在になるのを掴んだ、と言える。だからこそ今、目の前に兎の獣人に変わりつつあるヒトがいる、そしてそれ以外にも彼女の手によりヒトではなくなった「獣人」は両手では数えきれないほどにいる。

 故に彼女の事を知る、正確に言えば欲するヒトに対して紹介する仲介役となる存在は総じて「変化使い」と呼ぶのが常であり、もし区別が必要な時は「オシカサマ」と呼んではこれは、とのヒトをカナコの元に誘うのであった。
 最も「変化師」として手掛けるとしても誰に対しても、とはならない。もといそれは手掛けられる量と質を考えたら不可能な話、だから事情を知る幾らかの仲介者を介すのが当然であるし、そこにはこの地下室のあるアパートの大家、また彼氏ですら含まれている。皆して、とはならないにしてもそのふたりは彼女の「ペット」であると共に利害を共有している。
 よってそれぞれの抱える利害は異なるとは言え、ヒトをヒト以外の存在へと変化させると言う彼女の成す行為を理解し協力する仲間であるからこそ、こうした小部屋の確保すら可能となったのである。よってカナコはその協力に報いるべく、これは、と認めたヒトを獣人へと変えるのに日夜勤しんでいる。
 つまりここは彼女の仕事場である。よってこの場の全てが目の前にいる鹿に握られている事をヒトから変わりかけている兎は理解していたからこそ、先に書いた反応を示したと出来るだろう。
 即ち、瞳ではぼんやりとした読めない気配を示しつつ、その兎耳を通じて反応や意図を読み取ろうとしている。裏を返せば兎の抱ける全ての緊張感がカナコに対して向けている証であるからこそ、そうした態度を今なお貫いているのであった。


 続

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