妖術師の特権・前編冬風 狐作
「あなたの彼女になりたいって言ったけどさぁ…今だから言えるけど、これは流石に予想していなかったよ?」
 それは急に寒さも強くなった晩だった。窓を閉め切り、カーテンもしっかりしてもどこかから入り込む寒気に対抗する様に動く暖房器具、そんな室内で布団に腰を下ろしながら彼女はそうぼやいた。
「ふぅん、じゃあ止めようか?あなたの彼女になれるなら、何でも良いのって言うから喜んでしてしまったけど、嫌なら、ね」
 私はその言葉に返す、ついつい甘い声になってしまうのを我ながら強く意識して、そしてたっぷりと微笑む。見たところ、それは口だけの様だった。しばらく返事がないと思ったら、次の瞬間にはその首は横に振られて前言は撤回された。そんな事はないから、と。
「じゃあ、その姿で私の彼女確定だね、お兄ちゃん?」
「ああ、うん、いいよ、それで良いから、さ…こっち来てよ、何度も言ってる通り望んでいたのは私、それを叶えてくれたのがあなたでしょう、マスター?」
「分かったよ、姿がこんなになっても私を求めるのは変わらなくて安心したよ、お兄ちゃん」
「またお兄ちゃんなんて呼んで、もう恥ずかしい」
 返事の代わりに来たのは強くても乱暴さとは無縁な抱きしめの力だった。半裸の私の上半身を引き寄せてくる力はやがて柔らかさに変わる、その大半を占めているのはもこもことした丸みを帯びた毛の集合体であり、その毛を介して芯となる体の暖かさが伝わってくる。そう、その毛は彼女の体の一部、ただ局所的ではなく顔を除いた全身を覆う体そのものなのだ。
「ああ、もう角が当たりそう…でも丸いから刺さらないものね」
 立った状態から座っている彼女に引き寄せられる様に持って行かれたので、必然的に顔と顔が互いにぶつかりやすくなる。だから彼女の頭に生じている立派な丸い角と私の頬が接してしまいそうになるが、たとえ触れてしまっても刺さりそうになるとか、そうした懸念はなかった。ただまだその体に慣れていない彼女が角を介して伝わる感覚にびくっとなって、わずかに私を抱きしめる力が強まるだけだった。
「あら、もう一度聞かせてよ?そのきれいなにあった声を、さ」
「いや、もう…め、メェーエェー…メェッ」
 私はその途端に気付く、そう彼女は角を触れられるとその体に似合った、然るべき声を出す事に。それは言うなれば啼き声、その身に相応しい鳴き声がそうは広くない一室に良く響くのに私は満面の笑みを浮かばせずにはいられなかったし、幾度か啼かせたところで横向きになった瞳孔を持つ特徴的な瞳が困惑気味に震えているのに気付いた。
「…ふふ、やっぱり君はその姿が似合うよ?とっても愛してあげたい、良いよね」
 その時には力の関係は私の方が強くなっていた。啼いてしまったせいなのか、彼女の体からは力が抜けていてふとした震えの具合からそれはより明らかだった。だから私は押し倒す、布団の上に、そしてその人ではなくなった体を抱きしめ返すと、つんと突き出たヒトではありえない顎の形、即ち黒い羊のマズルに唇を重ねたのだった。

 私が初めて彼女と出会った時、どちらともそうした関係に陥る事は予期していなかったのだけは確実な事だった。ただネットを通じて知り合って、共通した知り合いを介して実際に顔を合わせて挨拶程度をしただけ、それが全てであったし、何か活発にやり取りする事も長くに渡ってなかったものだった。
 しかしご縁とは不思議なものでおよそ半年位前だろうか、思いがけずに彼女は私の前に現れた。何の予告もなしに、押された呼び鈴によってはい、と外に出ればいたのが彼女だった。
「あら、若しかして…ゆずりんさんのお知り合いの方です?」
「え、あ、そうですね。なんだ、どこかで見た事があると思ったら、大分前のオフ会でご挨拶した事がありましたよね、えーとお名前は…うーんすいません、失念してしまいました」
    先に気付いたのは私だった、見覚えのある眼鏡、何より気配から咄嗟に出た問いかけの言葉に彼女は、当時は彼として肯定し、裏付ける言葉を返してくる。間違いなかった、もう相当前のオフ会で共通するネット上の知り合いである「ゆずりん」を介して挨拶をした同士、そして彼が偶然にも同じマンションに引っ越してきた、と言う下手な宝くじを当たるよりもずっと確率の低い現象が起こった瞬間だった。
 それ以来、私と彼女は事あるごとに会う様になった。勿論、それは様々な形で、エレベータや階段ですれ違った際の挨拶程度から近くのスーパーで買い物がてら会った時には、そのまま喫茶店で雑談をしたり、と言う具合で急速に付き合う関係となって行った。
 ここで肝心なのはその時の私は彼女は、先にも書いた通り私と「彼」なのである。そうその言葉の通り、同性、それぞれ成人した男同士であったのは外せないだろう。即ち、傍から見ても男同士でやり取りしているだけに過ぎなかったし、当の私達ですらそうであるに過ぎなかった。そう、あくまでも昔から面識はあって、それが偶然にも同じマンションに居を構える様になったので、互いに独り身、良い話し相手あるいはお茶のみ相手として接している、ただそれだけでしかなかったのだ。
 しかしそれは実態としてふとした狂いであったのかもしれない。お茶飲み仲間は次第に互いの部屋を行きかう様になり、そもそも共通の知り合いを持っているから分かる通り趣味だとかに共通しあう点があるので、一度関係を深めだすとそれは留まるところを知らなかった。そしてそれはある時に一気に頂点を突き抜ける、それは彼と酒を飲み交わしていたある夜の事だった。
「はあ、それにしてもなぁ…酷く疲れた、今週は」
「お疲れ様、だね。寒くもなって来たし、疲れが中々抜けないんだよねぇ」
「そうそう、でも君は良いじゃないか…高等妖院の一員なんだからさ?私の様な何のそうした妖術の素養もない単なる人間は、我が身を以って働かねばならないからねぇ」
「全く、良く言われるけどそうでもないんだよなぁ…そこはゆずりんも言っていたよ、妖術師は妖術師で精神的な力だとか、そうした面での疲労が蓄積するからね、そうは変わらないさ」
「いやぁ、そうは言っても、さ。世間的なイメージと言うのも強いからね、本当、羨ましいよ」
 高等妖院、妖術師、それは私の方を示すものだった。そう、確かに私の職業はそれだった。この科学技術、機械技術、そしてそれ等が生み出した資本と物質にあふれた世界、それ以前の体制や価値観の要となっていた妖術を操れるが故に就ける妖術師―世間的には妖務取締官と知られている―として私は生計を立てている。
 そしてその役目こそが彼と知り合った最大のきっかけであった、何故なら共通の知り合いたる「ゆずりん」がそもそも、立場こそ違えど私と同業者であり、その出会ったオフ会となるのも妖術師とそうではない一般の人間が交流する場であった。彼は比較的有名な民間退魔業を営む妖術師である「ゆずりん」の知人であり、だからそのオフ会の場にいた次第であって、妖務取締官たる私からしたら単に妖術に興味を持っている一般人間の男性でしか当時は本当になかったのだった。
「妖術師って言ったって、今の時代、昔の様に特権も何もないからねぇ。特に私は妖務取締官と言う官職者だ、基本的にするのは民間の妖術師達の動向監視だし…高等妖院でも妖務行政にもっと携わっていれば面白いだろうけど、そんなに刺激に溢れている訳ではないんだよ、あのオフ会の時に言った通りにね」
 酒の香りを楽しみながら私は改めて彼にそう言って聞かせた、勿論、そこは微笑みながらではある。この様な席で険しい顔をする意味はないとは分かっていたし、改めて言って聞かせてさぁ話題を変えようとしたところで矢張り彼はそこに言及するのだ、いやそれでもさ、と。
 確かに彼の仕事は責任を伴うものだった、多くの人命に関わっているし、それでいながら待遇はそこまでは良くない。それは他業種であるが何かと聞こえてくるし、実際に彼とやりとりしているとその内情を知ると大変だな、と毎度返してしまえる。だからこそ、それはどこかで生じた考えだったのかもしれない、そうかそうか、と返しながら私はふとした思いつきを抱き、酒に酔う瞳の中で彼をじっと観察していたのだった。


 続
妖術師の特権・後編
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