「へぇ、君が私にそんなこと聞いてくるなんて珍しいね」
それでも、と私は「ゆずりん」にもその事を問い合わせてみた。すると取締官が聞いてくるなんて、と笑いながら民間退魔師たる彼もそれを肯定した―その特権は今でも合法的であり、かつ時として現代でも行使される事もある。そうと知れたら私の中で渦巻いていた考えはすっかり晴れて、ただ一つ条件としてある相手方の同意さえ得られたら、彼の願望を叶えられるとの事実に拍子抜けすらしてしまってならなかった。
故に私は折を見てその準備に取り掛かっていた。何時しか、私自身の方がその特権の行使に対する魔術師的欲求を抱いていて、だからこそ彼の願望を叶えてあげよう、と目的と手段の入れ替わりが起きていたのは知れたがもう止まらなかった。
だから彼から同意を取り付けるのは実のところは最後になっていた、そしてこれはグレーであるのだが私は様々な確認の上に下準備として彼に術を色々と施して行った。それは幾重にもよるもので、一言で言えば彼を精神的に私に対して束縛するのを目的としていた。その事自体は対して苦ではなかった、皮肉にも妖務取締官としての実務の応用でしかなかったし、ただ着実に効果を発揮しているのを会う度に確認できるのが楽しくて仕方なかったほどだった。
特にそれが実感出来るのは彼の行動の変化だろう、まず彼は仕事以外の時間は次第に家にこもる様になり、そして私の元で過ごす事が増して行った。仕事にこそ行っていたものの、例えば急な応援要請だとかにも応じる事は無くなり、何時しか単なる外出すら私の許可を求める様になって行った。
繰り返す書く通り、そうした妖術師による術の行使からの人間の束縛―言い換えれば魅了は合法的な行為なのだ。そしてそれは彼の精神的な変容を伴うもの、即ち次第に彼の性質が男性性から中世性を強めていき何事も丸くなって行く。それは時として職業柄取り締まる「妖術行使による強制あるいは強要」と大差なかったが、金銭だとかそうした媒介が無い場合は問題がない、そんな抜け穴により合法的であるのを取締官として知った時は驚きでしかなかった。
そうあくまでも妖術により、彼の内面的な願望を具現化させているに過ぎない、それも金銭的な意図や媒介だとかはないのなら問題はない。その事実は次第に私の行為を深化させ、その日を迎えたのである。
その日、それは総仕上げの日だった。彼の願望を具現化する為の条件である彼自身の中性化をすっかり整えた上で、当人からの同意を得る、そして、との日であるのをきっと彼は認識していなかっただろう。
「ねぇ、お兄ちゃん?」
その頃には私は彼を兄として扱っていた。それは年齢的な反映もあれば、彼の心の中にある最も彼が最も欲している立場を反映させたものであって、疑似的な兄弟と今や関係はなっていたと言えるだろう。だから言葉遣いもすっかり変わっていた、兄弟と言うよりも男女のカップルにすら近いものだったろう。
「んぅ、何だい…?」
「私、お兄ちゃんに聞きたい事があるの」
その言葉を放つ瞬間、私の気持ちが多いに震えたのは言うまでもない。ようやく言える、そして思っていた通りの答えが得られるだろうか?との不安が混ざりつつ、一拍置いて私は言葉を続けた。
「私のモノになりたい?欲しているんでしょう、仕える立場、をね?あるいは彼女にかな、前になりたいって言ってたよね?」
こう言って正解だったかしら、と浮かべつつ私は返事を待つ。しばらくの静寂が暖かい部屋の中に漂い、そして彼は首を縦に振った。
「本当に?」
返ってくるのはまたも肯定の首の動き、もう一度の問いにもそれがされたのを見て私は多く息を吸い、一息に命じる。
「…よろしい、肯定の意、しかと受け取りあるのみ。妖術師の特権を以って命じる、汝、我が一部となれ、汝、我に隷し属したる使いとなれ、急急に命じる、ヒトの身を捨てよ、そして内なるに眠らせるその相応しき身を以って現れよ、汝が律は我が律なり―!」
途中からは正直なところ覚えていない、少なくとも妖術師の特権行使、それは今の世において中々に難しい、何より機会がない。だから前述した通りの過程をたどった次第であるが、それを言い切った途端に彼の身が大きく痙攣したのが見えた。
「う、え、あは…なる、彼女になるっ」
痙攣と共に彼が漏らしたのはその言葉だった。私は何も返さずにただ静かに見つめ、私がとどめとしてかけた呪文、そしてその以前に出来ていた疑似的な関係が中性化した器でしかなくなりつつあった彼に大きな影響を及ぼしているのは明白であるのを観察していた。
「えう、あ、あがっ」
痙攣と共に彼は呻く、立っていた体は後ろにあるベッドに倒れかかり、そのまま座る形となったところで変化は続く。口から洩れた大量の涎が身に纏っている衣服を汚し、同時にその骨格がただ揺れているのではなく、膨張し始めているのが見えてくる―極め付きは衣服の破れだろう、体格は一回りか二回り大きくなっていくのが分かる。そしてヒトではない特徴が体の随所に生じ始める。
息は荒かった、痙攣は少し落ち着いてきたがその頃には服は大半が布きれと化していて、あらわになった人肌を小さな無数の産毛が覆ったかと思えば、それらを一気に黒色へと変わり、更に大きく丸みを帯びた塊となって覆っていく。擬音にすればモコモコ、との具合だろう、そう全身がブロッコリーの様に包まれて行って、全てが黒色に染まる。
唯一覆われていないのは顔だった、それも顔の表の部分。そこに待っていたのは顎の前方への発達だった、上下の顎がやや鋭角的に突き出て盛り上がり、それに引っ張られる様に瞳や鼻腔の位置も変わればもう「彼」の顔はない。
「彼」はひとつの変化の度に失われていく、繰り返される度に失われていく。モコモコとした黒い毛に覆われた胴体もには膨らみが生じているのが分かる、それは乳房だった。二か所に分かれた乳房、ヒトであるなら文字通り胸にしかない膨らみが腹部にも生じている様は、ヒト以外の存在に変わっているのをはっきりと示すだろう。
「ふふ、良いねぇ、本当、卵の殻を割るみたい…だ」
思わず変化を見ながら私は言葉を漏らしてしまった、まだまだそれは続いている、変貌し切って獣の顔となった口からはだらんと舌が時折垂れては、それ以上の涎が生じたばかりの体を汚していく。体に残っていた服の名残の布は今やすっかり辺りに散らばっていて、大きく開かれた太腿の間の股間の下のシーツにはシミが見える―恐らく失禁しているのだろう、独特な臭気も感じられる中で今やそこには「彼」は見い出せない。いるのはヒトと獣の混ぜ合わさった存在「獣人」でしかない。
「あ゛…ヴ、あんっ!」
そしてもたらされた一際大きな喘ぎ声と共に、その顔にはこめかみの辺りより太く丸い角が生じていく。それは装飾品にも近いバランスの良さをもたらしていた、顔だけではなく全身に、足の指が変わった大きな蹄と合わせて部屋の照明の明かりに対して独特な質感を示すのは正に人外の、私の「彼女」となった証であった。
「おやおや、だからあんな事を聞いてきたのか…まぁ合法だから仕方ないよな」
それから数か月後、冬の寒さが極まる頃合の月の午後に私が彼女を伴って訪れたのは「ゆずりん」の自宅であった。彼は驚きこそすれ、どことなく退魔師らしい微笑みを浮かべては私と彼女の姿を見て大きくうなずいた。
「今は彼女は何をしているんだい?」
「はい、旦那様の使いとしてお仕事のサポートをしています」
獣の口から放たれる彼女の言葉は明瞭であった、ただ瞳孔が横になった瞳を輝かせる姿に彼は改めて小さく息を漏らすのが見える。
「そうか、そうなると高等妖院公認の使い魔さんってとこか…やるねぇ、君」
そう、今の彼女は高等妖院にも認められた私、即ち妖務取締官のサポートをする使い魔となっている。
「羊の素質を持っていたのが効果的だったのかもね、矢張り山羊や羊、あるいは狐や狸、この辺りの素質を持っている一般人間と言うのを使い魔とするケースは昔からよくある、ただ引き当てるのは実は難しい、本当にご縁だと思うね」
「ゆずりん」の反応は総じて好意的だった、知人であった男が今や私の使い魔たる羊獣人の雌に変えられたのは全く問題視していない。むしろ引き合いに、と言わんばかりに自らの使い魔を呼び出しては並べてみる始末だった。
「私の使い魔も実はそうなんだ、なんだ、君が彼をそうしたいと言うならもっとサポートしてあげたんだか…いやいや流石は妖務取締官、官職に値する力だ、下手したら勿体ない位だよ、見事だ、完璧だ」
彼の使い魔は山羊だった、それも牡山羊と言う一般人間が最も畏怖する「悪魔」に似通った姿をしている。ただしその姿は白い毛並みに覆われていて、黒羊である私の使い魔とは正に対照的な具合だろう。
「ま、よろしく頼むよ、取締官殿。使い魔を有する妖術師は今は少ないからね、今後ともよろしく願いたい」
「こちらこそ、まだ日が浅いからね、彼女とは」
私が漏らした彼女、との言葉に黒羊の角がふと揺れたのは確かなものだろう。それを見つめている白山羊の視線に彼がふと気づいて抱き寄せる、そんな眺めに黒羊が私の手を握る、そんな午後のひと時であった。