鉄の橋行く・第2話冬風 狐作
 深夜の寝台特急の中とは不思議な世界である、と彼は所用で乗り込む度に思っていた。
「…管内での人身事故の影響により遅れておりました、寝台特急…は間もなく到着致します」
 大体は定刻通りに来る寝台特急も、今日は時たまある、ずっと離れた地域で人身事故の影響で20分ほど遅れての到着であった。
 最もそうした情報に特に気を揉むとか、そうした事はなかった。
 こんな遅い、日付が変わる前か、あるいは後かの頃合で、そもそも長距離列車である。その長く走る先に何があるのか分かったものではない、と感じていたからだろう。
 時刻表には幾時に、とは明示されていてもあくまでもそれは予定に過ぎない。
 実際に走らなくては分からないのは常の事。そして大体はその通りに行くとの、ただそれだけであって、そうとならなくても実のところは大して問題ではないのである。決して約束され、また保証されたものではない、のならもうそうと見た方が気が楽、それとは各地を行き交う内に自然と見に着いた感覚だった。
 それにこの程度の遅れなら、目的地に着く頃には遅れは回復しているか、残っていたとしても十分に無視できる程度になっているのが大抵の事。それを承知しているからこそ、終電も行った後のホームのベンチにて、まだ少し残る暑さへの不快感を除けば、至極穏やかな気持ちで待っていたものだし、それは目の前に滑り込んできた列車が停車し間もなくドアが開く、との直前まで続いたものだった。
 開いたドアの中に入り込んで、デッキから通路へと移るが早いか、ドアが閉まるが早いか。何時もよりも早めにドアは閉じられてしまえば、もう周囲から隔絶された世界となって寝台特急は走り出す。
 この時間、乗り込んできた新たな利用者に対する放送は省略されている。だからブレーキが緩んで軽い衝動と共に動き出す音と衝動は、一種の合図として余計に身に響くもの。次第に加速していく勢いを、どうにもしかと感じつつ、静まり返った車内を切符に示された一時の個室に向かって彼は歩んでは、消えて行った。
「こんばんは、夜分遅くですが乗車券と寝台券を…」
 最も放送が無いからと言って全く無視されている訳ではない。宛がわれた個室に入り、手にしていた荷物の類を隅にまとめたところでのノックに扉を開ければ、車掌が検札へと姿を現したところ。月に数回は乗り込んでいるのもあり、幾人かの車掌とは馴染みの、とまでは行かないにしてもああこの人か、と思える程度には顔を覚えるまでにはなっていた。
 生憎、今日の車掌は初めて見る顔で、しかしその手つきは手慣れた具合であったから、偶然、これまで遭遇したことの無い人であろうか、とふと思ってしまえる。ただ色々と思えたところで決して口にする事はない、ただ自らの内の中で消化して終わりなのだが、ある事だけは忘れずに申し出ると、車掌はうなずき、こちらの手から渡される代金と引き換えにある物をこちらへと手渡してくる。
「ご利用になった事は…ございますね?」
「ええ、乗る度に何時も使わせてもらってますから」
「そうですか、なら大丈夫ですね。今晩はそんなに混んでいませんから、この時間なら待たずに使えるかとは思いますのでどうぞご利用下さい。ではごゆっくりお過ごし下さい」
 車掌の去り際の挨拶に、こちらこそ、と言いつつ閉められた扉を途中で受け止めては一旦鍵をかける。自宅に比べたら薄い扉ではあるが、鍵がかかれば外界との境目として機能するには十分なもの。
 途端に緩んでしまう気持ちのままに、上着を脱いで軽く体を伸ばす。その折にふと嗅げてしまえる体の匂いは、職場からの足のままに乗り込んだのもあって、汗のやや強めなもの。こんな状況で寝てしまったら、体臭がそこまでキツイ体質ではない、としても矢張り不快さを纏ってしまうであろうし、だからこそ、所用の際の足に寝台特急をなるべく選ぶのもそこから来る選択なのだから。
(さぁて、暗証番号は何時もの通りで、よしっ…と)
 外に出ても問題ない程度に軽装になって、鍵を確認しては幾両か離れた車両へと足を運ぶ。
 車掌も去ってしまった以上、その間、全く誰とも会う事はないままにたどりついたのは人気のないロビーカー。そして、その片隅に置かれているシャワー室にて身を清める事こそ、寝る前に必要な、どうしてもしなくてはどうにも気が済まないのだから。

 シャワー室の表示は緑、空室の表示をしていた。最も、先ほどに車掌も口にした通り、こんな深夜の時間帯に別の誰かが入っているなぞ、まずあったものではない。利用がピークになる時期であればある時はあるが、大抵はもう一夜限りの寝床に身を横たえている、そんな次第である。
 彼はそれ故に無心だった、特に思う事もなく、何時も乗る時と変わらぬ具合でロビーカーに置かれている自販機を眺めてから、さて入ろうとしたその瞬間、ふっと気付く。何時の間にやら、ロビーカーの中に別の誰かがいる事に。まず過ったのは車掌の巡回だろうか、との事だった。
 珍しい、との思いが過りつつ、彼が視線を向けるとそこにいたのは車掌ではなかった。まず車掌か、と見たのはこの時間帯に車内を歩く人間なぞ、それ以外にまず、考え難いからである。しかし、この度遭遇した相手はこちらをしばらく見つめてから、すっと前を横切るとロビーカーのソファへと腰を下ろす。視線を逸らした方が恐らくは良かったのだろうが、それが出来ない、そうした雰囲気が印象的であった。
「…こんばんは」
「ああ、こんばんは」
 どういう訳だか、彼はその相手にかけねば、との予感と共にふっと声を、挨拶との形でかけてしまう。返ってきたのは、やや高めの声、女性の声。耳に入って染みる様な、独特な響きを有するものだった。
「シャワー室とやらがあると聞いたのだが、ここで良いのか?」
「えっええ、そうですね。そこの、その小部屋がシャワー室ですよ」
「ほう、ここであったか…使うのは入ればそのまま使えるのか?」
 響きは女性、しかし言葉遣いはどことなく男性調でもあり、それはより言うなら古風であった。まるで自らが、そうした歴史とかの中に紛れ込んでしまったかの様な錯覚すら抱ける具合に、思わず彼はその隣に座りこんでしまう。
「ふん、お前は使うのか?どう使うのか知らなくてねぇ、教えてもらえないかしら」
 お前、と呼びかけてくるのは彼自身に対してであろう。初対面の相手にお前、と言われるのに、ふっと沸くモノを気持ちの内に感じつつも抑えては彼は返す―ええ、そうです。使い方ですか?シャワーカードはお持ちです?知らない?なら、それがないと―と抑えつつも、いきなりどうして言われなくては、との想いがどうしても強めの口調を生み出す。
 だが相手はそれ以上に上手だった、いや、むしろそう仕向けさせていたのかも知れない。参考までにと見せたシャワーカードはさっと奪われ、しげしげと見られる。
 返して、と抗議の声を上げようとした瞬間に、何かこう全てが「ぶれた」のを彼は思い出せる。
 ただどうしてかは分からない、ただ、そうと思い出せるだけで、視野はおろか意識もぶれて途切れた、とだけ。そしてもうひとつ言えるのは、次に認識出来た空間はシャワー室の中であった、とも添えられようか。


 続
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