鉄の橋行く・第3話冬風 狐作
 寝台特急が提供する空間はある種の箱である。列車、それを構成する鉄道車両なる存在自体が直方体の箱であるが、その中を更に区切った区画のひとつが今、彼がいるシャワー室であった。
 扉1枚挟んだ通路を誰かが歩いていく音がするが、しっかりとラッチは回されているからそれが開けられる事は無い。勿論、過去に利用した中では使用中との表示を見落とした別の乗客がノブを回してきた事はあったが、鍵がかけられている以上は合鍵がない限りは開かれる心配は無く、何だ間違えか、と軽く心の中で邪魔してくれるな、と合わせて浮かべるだけで済むものだった。
 ただ今回は妙だった、何故なら何時の間にか入っていた、との心地が強く抱けていたからである。特に酩酊している訳でもない、なのにシャワー室の扉を開けて鍵をかけ脱衣して、との一連の動作の記憶がとんと飛んでいる事がとても訝しく思えて仕方なかった。何より、彼がおかしい、と見たのは今いる場所の眺めがどう見ても見慣れたものではなかった事だろう。
 確かに通路との間を隔てている扉にそこにかかっているラッチは見慣れた色合いのもので最初、意識が鮮明になった時そちらを見ていたからその際には不審さをまだ感じてはいなかった。感じていたとしたらそれは自らの認識に対してであり、空間に対してではない、と言える。
 だから耳に届いた水音が空間の違和に気付くきっかけであった、と言えよう。確かにシャワー室は水を用いる、しかしそれは滝の様に流れる音であって、今、耳に届いた様な波音となると中々ご縁が無いもの。ならば水滴が垂れる音と言う可能性もあるだろう、しかしそれは明確に否定出来る音だった。即ち、それは多くの水がたまっている、質量感のあるものなのだから。そう明瞭ではない、単なる水、と言うよりも集合体だからこそ起こせる音、波音に類した物を彼の耳は聞き取っていたのだった。
「これ、何時までボヤと立っておる。お前も早く浸かるが良い、疲れているのだろう?」
「え…は、はい!?」
 シャワー室はそこにはなかった、と結論から言える。代わりにあるのは立派な浴室、人が3人くらいは余裕で入れる湯船がそこには唐突なほどに出来上がっていて、空間に対してもくもくと湧き上がる湯気の中より響く声は、シャワーカードを手にしてロビーカーに入った時に交わした女性の声と全く同じものであった。
 当然ながら思考が軽くショートしてしまうもの、こんな湯船があるなんて聞いた事は無い、車掌も何も言っていなかったし…とぐるぐると疑問符と知識の突合せを何とか行うところで波音が響く。そしてスッと伸びてきた手に腕を掴まれるなり、彼の体は有無を言う暇もなく湯船を満たす、恐らくは40℃程度はあるだろうか、良い具合に熱いお湯の中へと引きずり込まれて浸からされてしまうのだった。

「はは、良い顔して驚きおって…何?嘘か真か、と言わんばかりの顔をしているのう。全く、意外に見た目に比べて疑い深いのじゃな、お前は」
 快活との言葉はこうした際に用いるのだろう、と言われずとも浮かぶほどの声を聞きながら彼は頭までずぶ濡れの海坊主の様な具合になりながら、すっかり肩までお湯に使っては湯船の端に寄りかかっていた。
 お湯を介して伝わってくる振動からここが移動する物体の中、即ち、列車の中であるのは違いなかった。ちょうど寄りかかる先は外と内を分かつ壁であり、時折鋭い警笛の音、また隣の線路を離合していく貨物列車の特有の音も伝わってくるから間違いないからこそ、どうしてこんな湯船がいつも使っているシャワー室の代わりにあって、その中にいるのかが大きな疑問でしかなく、夢とも現とも分からない内にどこか呆然とする身なのだった。
「いや、単に驚いているだけか?まぁ単純なのは良い、変に理屈をこねるよりずっとマシじゃ…お前、名を何と言う?」
「名、私の名前…?」
「なんじゃ、名乗れぬか、良い良いならば権兵衛と呼んでやろう、良いか権兵衛?」
「えっあ、は、はぁ…」
 そんなところで唐突に投げかけられる言ってしまえば優しい質問にも答えられぬほどに彼の気は抜けていた、だからようやく気付いた時には「権兵衛」と名付けられる始末で、よってお前は権兵衛、と強めに言われてしまうと以降、否定しようにもそれをする気もなくなってしまう。
「権兵衛」
 しばらくの沈黙、波音だけが湯気を伴い響く中での呼びかけは溜息を伴っていた。
「はっはい、何でしょう」
「すっかり体も緩んだか?良い湯じゃろう」
「えっええ、そうですね…良いお湯で」
「そうか、ではちょいと改めて身を清めるぞ?お前の身もより解れただろうしの、ちょいとそれを貸すが良い」
 貸す、との響きが妙に意識に響く。すると途端に意識がまた暗転する、正確に言えば見えている全てが歪みだし、それは自らの身も例外ではなかった。ぐにゃりと強くはない、しかし逃れられない力で全てが一緒くたにされていく様は、まるで掻き混ぜられた事でメロンソーダに沈んで溶けていくバニラアイスであった。

 明るくなった中に認識出来たのは湯船ではなく見慣れた脱衣室の中なのはぼんやりと認識出来るが、どうにも自らの脚で動いているはともかく、立っている感覚すら、ない。
 にも関わらず、今、彼の見えている世界は前へ前へ進んでいた。脱衣室の扉が、矢張り押し開けたりした感覚は一切ないのに、すっと開かれて閉じられたら、そこはシャワー室。ぼんやりとした動きの中で見えたボタンを押せば良い、と思った途端に伸びた手は彼のモノではないのをようやくとも、はっきりとも認識出来たものだった。
「ふぅ、気持ちいいのう…湯浴みは矢張りよい」
 同時に得られたのはシャワーの水音、そして狭い空間に響き、くぐもって聞こえる言葉。自らの声では当然ないと言うのに、それが聞けた事にどこかで良かった、と思うのも束の間、光景は変わっていく、また、思えている間に明らかに自らの意思とは別なところで動いていくのが分かってしまえる。
 水音と共に放たれるお湯は彼の全身に、そして彼が共にある肉体を潤していく。備え付けのシャンプーにリンス、そう言った体の汚れを落とす役目を果たす物も加わって、その体は次第に清められていく。そしてそれ等がすっかり流しおとされた時、やや安っぽくはあるも身を清めた、とも言えよう今風の証は、そうた香りとなつて、すっかりその肉体に纏われていたものだった。
「おっと、しまった」
 光景はまた揺れ動き、シャワー室から脱衣室へと戻っていく。そこで響いたのが先の言葉だった、その途端に彼は、ぐっと掴まれた。そう両の手の平の内に「体」を掴まれて宙に浮かされる―ああ、僕は…首飾りだ、と認識したのは鏡に映った「我が姿」を見てのものだった。
「ふん、体が濡れていては流石に我とて参るからのう、ほれ、変われ」
 首飾り、今風に言えばネックレス、とも言えよう姿は全体として長めであり、そしてそのカタカナ表記は似合わない。
 芯となるつなぐ紐は見えない位に、そこには様々な色をした翡翠と思しき装飾が取り付けられている。それ等が全て、己の「体」であるのを彼は認識していた。どこを掴まれても、びくんっと感じられる感触はまるで神経を直接触られているかの如くで、その度にどこかで認識がぼんやりとして行く様にすら思えてしまう。
 特に自らがあるところ、言うなれば心、あるいは脳、またより言うなら魂があるのはその一番真ん中にある、大きな勾玉とも彼は認識出来ていた。
 その勾玉は大きなもので、鏡に映ったのから見ればおよそ手の平大はあるだろう。色は澄んだ緑色、黄緑、そんな色をしていて―その途端、不意に強く掴まれた。
(…アッ!!)
 若し口があったならそこから泡とも涎ともつかない液体を漏らしていたのは覿面であろう、との程に強烈な刺激が走った。自らを首飾りとして纏う者の手の平の内でしばらく揉まれた後、パッと開かれては放り出される様に宙を舞う。
 その途端だった、全ての「我が姿」の変容が始まったのは、そしてその舞う過程こそが変容であった、湿った狭い空間特有の空気の中で、その体はひとつの環として成り立っている物から、平べったくより大きな面へと変わっていく。材質すら硬さから柔らかさへと変わっていく、翡翠で成る様々な飾りと、その内でつなぎ合わせる紐は一旦溶け合って、すぐに面となって広がる。
 それを例えるならば、ピザ職人が生地を慣れた手つきで回して伸ばしていく、であろう。ただ彼は一度放たれた後、勝手に、と表せられるほどに宙を回って、再び投げ出した者に掴まれた時には、それは大きな1枚の布地、バスタオルとなっていたものであり、その黄緑色こそが先ほどの勾玉との関連性を示す証拠であるとのみ言えるだろう。
「やれやれ、ふう、体を拭くのもまた大事な事じゃからなぁ」
 そのタオルは掴まれた流れでその、体を拭いて乾かす、との果たすべき役割へと回っていく。拭かれていくのは女体であった、顔に頭髪、首回りに胸に腕に脚に陰部に、それこそ余すところなく拭かれては、余計な水分等を「自らが」吸い取っていくのは役割をこなしているとの認識と共に快感を伴うもの。
 そう己が「体」の全身が1枚のボディタオルであり、それが女体の清めの仕上げを果たしていく。それは最早、存在意義とも被っての絶頂しか「彼」にもたらしはしなかった。だから彼は僕として、その認識の内にとてもではないが崩壊していく。もう相応しく、使われる事が望んでいる事、またされるべき事とばかりに全ては染まっていった。

「…様、お客様?」
 だから、はっと目が覚めた時のふとしただるさが印象的だった。寝たりないとも違う、寝すぎたとも違う、その感覚は起こされた、との事もあってどうにも身に染みてくる、そんな具合の沼とも言える重さの中から体を起こすと、そこはすっかり明るくなったロビーカーの中であった。
 起こしてくるのは車掌である、列車は進んでいる様子もなく、止まっていて、ふとした雑然さが漂っている。
「ああ、すんません、寝ちゃって…」
 部屋に戻らないと、自然と反応する体と思考に一言制止の声が入る。発したのは、当然車掌で、それはひとつ、もう終点ですよ、との分かりやすく、それ以外に言いようのない内容であった。確かに窓から外を見ればそこにあるのは駅のホーム、駅名表は、なるほど確かに終点の駅で、そこは彼が目的にしていた駅に他ならない。
 そこからがもう大慌てであったのは言うまでもない。何せ、列車は直に車庫へと向かわねばならない、それが分かるからこそ、また告げられたからこそ、すぐに宛がわれていた個室に戻った彼は、対して広げていなかった荷物を改めてまとめると、後からついてきた車掌に一言詫びれば、ホームへと駆け降りる。
 そこにある朝の夏の暑さと、近くの公園から響く蝉の音が妙に濃厚に感じられる中、乗ってきた列車は車庫へ向けて、その背中の後を静かに動き出していく。そして走り去ってしまえば残っているのは彼の身だけ、他の乗客は既に改札口の外へと向かって行ってしまっているし、周りに疎らにいる人はそれぞれの目的地へ行く、その一瞬を共有しているに過ぎない。
 その様な中で彼はしばらくたたずんだ後、傍らに空いているベンチに腰を下ろす。荷物は適当に隣に置いて、すっかり背もたれに体を委ねるような姿勢でいては、またその身に起きた変化を認知していない。変化、そう、その耳に鈴のついた環を取り付けられた事にまだ、気付いていなかった。


 続
鉄の橋行く・第4話
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