「あらぁ、お出かけ?」
夕暮れ時の帝都の片隅。路地を行く人影に投げかけられる声がひとつ、暑い湿気を載せた風に乗って響いてくる。
「お久しぶりですねぇ、八百屋の奥さん。ええ、ちょっと久々に」
声をかけてきたのは"八百屋の奥さん"。この辺りの界隈では自治会の有力者として知られている存在で、肝心の家業としていた八百屋を閉じた今となっても、当時のままで見知っている地域の住民からは呼ばれる、いわゆる顔役と言えよう。
「どちらへ?あら、田舎?良いわねぇ。お気を付けて、今からご出発?」
「そうなのです、夜行で行けば朝に着きますから」
その言葉に八百屋の奥さんは納得との顔をする。そしてすぐに披露してきたのは自らの昔話―私も昔、田舎から出て来た時は夜汽車でしたわ、満員の硬い座席の鈍行。今みたいな真夏で、当時は冷房なんてなかったから窓を開け放って、トンネルに入る前に皆して窓を閉じたり―としばらく紡ぐ。
その声は先ほどの挨拶の時よりもどこか、活き活きとしている感がある。しっかりとした言い方をするのならば、自らの半生を振り返っている、そんな具合すら自然と滲ませていたもの。
最も、実のところはそこまで良い話となる訳でもない。何故なら、この奥さんは誰か出かける人を見かけては話しかけて、決まって田舎へ、だとか帰省の、と言ったフレーズに気付いたが最後、必ずこの話を持ち出しては長く話そうとしてくるものだから、すっかりご近所の間では有名なものだった。
「でも今は夜行列車なんてないものねぇ、高速バスでしょう?良く、テレビでやってる。あれでしょう?」
どうした手段で来たのか、との話から、しばらくの後、今の旦那、即ち、八百屋を経営していた主人と出会った経緯へと話が移るのは何時もの事。これもまた、奥さんの癖だった。特に今回の如く、自らの昔の若い頃の話をすると決まって、との具合でもう幾度と聞いたものか、矢張りわからない。決して悪意がある訳ではないからこそ、断り難さも働いてしまう。
「ああ、それがですねぇ…夜行列車なのですよ」
ほんのわずかに生じた隙にすっと言葉を投げ返す。内心での溜息を軽く漏らしつつの、やんわりとした口調には静かな否定と肯定が入っていた、即ち、奥さんがそうであろうと投げてきた手段ではない、即ち、高速バスの利用ではなく、その懐古の中にあった夜汽車、夜行列車で帰るのです、との返答に奥さんは途端にやや沈ませていた瞼を大きく見開いては、すぐに話をまた奪いにかかって、持って行く。
「あらぁ、夜行列車?今もまだ走ってるの、廃止されたんじゃないの?」
「幸い、まだ走っていましてね。ちょうど良い時間に着きますから、利用するのです」
元々高めの声を更に高めにする奥さんは正に得たり、との顔すら見せる。なるほど、なるほど、との言葉の先に上手く言葉を挟む事で次第に収束へと向かわせる、となるのは受ける側が、引き続きの微笑みと共に継続して出来る対処法でしかない。
それは一見すると話を切るのに失敗したとすら見えるだろう。しかし決してそうではない、もし仮に何かここで全く別の反応を示せば、そちらに新たな関心からの話が波及して止まらなくなるのは大いにあり得る事。かつ、実際にそうなった例を承知している。だからこそ、微笑みに微笑みを重ねて、元からしている話の継続をしつつ、一応はそろそろ話も佳境である、と示すべくやや言葉をオーバー気味にする。それは一種の作法でもあった。
そしてそれは不思議と通じるもの。仮に若し、ストップウォッチだとかで計時していたならば10分余り、駅に向かって歩いていた途中で奥さんに話しかけられて捕まっていた、となるのだが、それが分からないからこそ円満とも出来るところだろう。とにかくはお気をつけて、との奥さんからの区切りの言葉にありがとうございます、と返したならば再び歩き始める。
夕暮れ時の時間は、どうにも増して進むのが早い。ついさっきまでは路地に満ちていた西日の金に近い輝きは、今やすっかり臙脂色とも言う具合になっていて、濃い暑い空気の中に夜の夕闇が次第に優勢になっていた。
「あれ?」
しばらく経ってからの夕暮れの中での疑問の声は、どうしてそんなにも響いたのか?
それは矢張り夕闇によって成し得たものなのかもしれない。猫の鳴き声と比較しては悪いかもしれないが、どうにも等しい具合で"八百屋の奥さん"の声がふっと辺りに響く。
「…いけない、そろそろ夕飯の時間じゃない、買い物済ませなきゃっ」
奥さんはふと、小さな疑問、そして大きな動揺の声を上げると小走りに駆けだす。彼女としては、今、どこかで夢から覚めた様な心地だった。ただひたすらと、誰かとやり取りをしていた、それは比較的見知っていて親しい相手と見えている。
しかし具体的に誰なのか、となるとその名前に顔がおぼえだせない、でも身近な存在とは分かって、の内に何時の間にやら結論が生じる。
「ああ、私も年を取ったかしらねぇ…行けない行けない、まだまだなんだからねぇ」
これも加齢のせいだ、だからそうね、もっとしっかりしなきゃと、小走りに近所のスーパーへと足を向ける奥さんは自らに言い聞かせる様に呟いていた。そして、不意に手を合わせる。その途中にある小さな朱の鳥居の似合う祠に立ち寄っては、ふと手を合わせて祈願の念を向ける。
もうその頃には、周囲の明るさはすっかり人工的な灯火によってもたらされていた。特に、鳥居の先の空間の闇はより濃さを増していて、ただまだ濃い湿気を纏う夜風に朱に白抜きの幟がふわっと靡くのみだった。