「ふぅ、やっぱり久々にすると良いねぇ…ちょっと思ったよりもスコア伸びなかったけど、まぁ、うん」
興じ、興じて、どれくらいの集中力と時間を費やしただろうか。事前にチャージしておいたICカードの残金がそろそろ足りなくなってきた事、また彼自身が肉体的に―要は喉が渇くなど―疲労を感じつつあったのもあって、ヒサシは一旦筐体から離れようとした、正にその時の事だった。何かグシャッともベチャッとも言うべき、不快な様な音がその空間に響いたのは。
あらかじめ触れておくならばそのシュミレーションゲームの筐体はある種のポッドと言えようか、そうした囲いの中に収められていて、その囲いを含めてゲームに没頭出来る様に考慮されている。つまり、その空間に入って楽しむものであったからプレイ時間もそれなりに長く設定されていて、普通にプレイしていれば大体10分程度は過ぎ去ってしまう、そんな具合であった。
そうした事情もあって、扉で外の通路とは仕切られているのが特徴のひとつであろう。座席に腰掛けて夢中になってしまえば、それこそポット内に響く音、また映しだされる映像の両者により生み出される環境により、プレイヤーは外の世界からすっかり切り離されて、その気持ちを大いに高められてしまうところ。結局として生じるその没頭たるや、中々のものになってしまう仕組みであり、とても外で何があっても余程の事でない限り分からない。また仕様として連続で5回程度はプレイ出来る様になっていたから、ヒサシも大体それほどをこのポッドの中で過ごしていた事になる。
よってヒサシはそれだけの時間、外界に対して無知な状態にあった。ポッドの外で何が起きたのかなぞ、これまでのプレイの時と同様に全く気にも留めていなかったし、気付きもそこにはなかった。そもそも何かあるなんて予感すら抱くはずがなかったからこそ、プレイし終えて一息吐いた、正にその時に背後から、前述の通りの「不快」な音と振動がポッドの内部に響いたのである。
一体何か、と反射的に振り返ってみれば、まず目に入るのは見慣れた強化プラスチックの暗い半透明の扉。そして、その向こう側にある明らかな痕跡であろう。何かが表面へとぶつかり、そのまま重力に従って砕けたままに下へ、床へ向かって四散しているのが見える。それが液状のものであるのはその弾け具合、また動きから容易に判別出来たものであるがその正体や色自体たるや、半透明で黒系の色のある強化プラスチック越しには判別出来ない。
ただ、その時点ではそれ以外におかしな様子は見受けられなかったばかりか、感じる事は一切出来なかった。それだけにどこか、現実感に酷く乏しかったとも言える。
だからこそ生じた疑問以上の妙な冷静さの中へと、ヒサシは一度的に沈黙を共にして沈んでしまったものであった。普段以上にプレイデータがサーバに届けられるのを示す表示に見入ってしまう。振り返ってみればそれはその沈黙を、何が起きているのか、との半透明の扉越しに見えるおかしな具合に対する動揺に気付かないでおこう、としての反射的な反応であったのかもしれない。そうそれだけは何時もプレイして、追える時と変わらぬ光景であったからこそ、その他愛のない、しかし変わらぬ点に彼はどこかで逃げ込んでいたのだろう。
それが済んでしまえば忘れ物はないか、と身の回りを確認した後、扉のロックへと彼は手をかける。そして無表情なままに流れ込んできた外気を吸い込みつつ、その先の空間へと出て行った。
ようやくゲームの「世界」より脱したヒサシが目の当たりにしたのは、静まり返った、明らかに普段と異なる「世界」であった。ひとつにして最大の特徴として挙げるなら、人の姿が見える範囲に一切見当たらない光景が広がっていた、と言えるだろう。
今まで過ごしていたポッドの置かれている場所は、元々静かな空間である3階の中でも更に外れの場所であるから、普段から周囲を通る人はそう多くはない。それでも全く誰も居ないとなるのは開店直後とかの例外的な時間を除けば、まず記憶になく、プレイの空き待ちベンチには1人か2人は、例えプレイ目的ではなく、ただの休憩程度であったとしても座っているのが常なものだった。
なのに今日はそこには誰の姿もない。最も、いた事を示唆する痕跡はあった。それはとてもあからさまなもので、ベンチの上やそこに面した床の上に鞄等がそのまま置かれていると言うもの。それは何とも出来た光景、とすら評せられるものだろう。少なくとも荷物に足でも生えない限り、荷物だけがそこにある事はあり得ないし、先ほどプレイを始める前に、それ等を傍らにおいてゲームに興じていた人々の姿を覚えているからこそ、それはより印象深く見えてしまえた。
店内に流れるBGMはそのままに、他のゲーム機から発せられる音も同様に響いているのだから何か異常が起きた、とも考えられなかった。仮に火事だとかが他の階で起きたなら、火災発生の警報が鳴り響くものであろうし、そうとなれば停電だってしていてもおかしくない。しかし、そうした警報の類は一切ないままであったし、混乱が起きた様子を示すものは見る範囲では見受けられなかった。全てが整然としていたのだ。
よってヒサシの頭はふと、比較的理解しやすい解釈を導き出す。偶然、皆して何かトイレだとかで出て行ってしまったに違いない、それも極めてタイミングよく、皆被る具合で。そこにちょうど自らが出て来たのだろう、そうに違いない、と浮かべてすぐに否、無理があると打ち消しだす様な都合の良い見方を抱きつつ、彼は黙ったまま出て来たばかりのポッドを振り返り、どこかでいや、しかし、とその見方に更なる疑問を加えて薄めていく。
安易であり、また楽観的すぎる見方に止めを刺したのは、視界の内にある半透明な暗い色をした筐体の扉に大きく付着した鮮やかな色だった。それは液状、何か塊として飛んできて扉にぶつかった衝撃で四散した具合の光景からふと連想させられたのはカラーボールであった。仮にカラーボールであるならば、確かに類似していて納得のいくところはある。目立つ色合いの特殊染料をたっぷりと収めたボールが目標にあたって爆ぜると、同様な具合になるのはヒサシも知識として知っていたから、その連想はそこまで外れているとはならないだろう。
とは言え、実際にカラーボールであるのかは断定出来ない。そもそも、まず最初に情報として入ってくる色そのものが、今度はその見方に対する否定的な反応を提供してくる。大抵、カラーボールとなると目立つ派手な蛍光色、それもオレンジだとか、明るく、一目で見て何か注意すべき事が起きた事を認識させてくれる系統の色をしているのが専らであろう。
しかし、そこにあるのは複数の色が混じっていた。どんな色が混じっているかは下地の色が暗いのも作用してか、はっきりと分かってしまう。まずは白、続いては水色。他の色も若干混じっている様ではあったが、主に白と水色の2色によって構成されているのが知れて、およそ、カラーボールに使われる主流の色合いではないのは明らかであった。
もう1つの特徴はそれ等が液体にしては粘り気が多く、独特な臭いを放っていた事だろう。それは異臭にも近く、最もイメージとして浮かぶのであればゴムを浮かべさせられる濃厚な臭気であり、すぐにこの空間全体に漂っている匂いがそれであるのも知れてくる。
そう、ずっと鼻に感じていた、その異臭の原因であろうと認識した途端、それまでどこか、唐突さの中で浮足立っていたとも言える彼の感覚や認識は正常さを取り戻す。
しかめた顔からは当然、言葉が漏れる。それは不快感を伴ったものだったのは想像に難くなく、また事実であると出来ようか。
「うぇ、足元も…ドロドロじゃないか」
まずは足の裏からの感触、どうやら彼が収まっていたポッドの扉にぶつかって四散したゴム臭い「何か」は盛大に辺りに散った具合で、扉に付着していたのはほんの一部に過ぎず、むしろ今、立っている足下にこそ一定の厚みを持った具合で広がっていたのである。
それについては筺体から出る時からずっと靴の裏に感じた変な感覚を通じて、間接的に知れていたものの、視覚的に再認識するとその量の多さに唖然としてしまう。とにかく、その粘り気の多い何かは、ただの染料でないのを示していたし、プラスチックの扉を伝って床に溜まってしまえる質量のある存在であるのが知れてしまう。またそれだけではなしに、しばらく床にこすりつけて落とそうとしても中々に落ちなかったばかりか、むしろ粘り気を強くして、力の加減を誤ればそのまますくわれてしまいそうな様子であるから、ある意味では処置する術が無かった。
故にヒサシはそれ以上の試みを止めて、改めて辺りを見回し状況を噛み砕いた結果、ふとつぶやく。
「…悪いけど帰ろ、なんか嫌な感じするし、さ」
この場にて数分、立ち尽くしている間にも誰も戻っては来ない。ただ唯一あった変化としては、相変わらず流れている店内BGMやゲーム機からの音とは別の、複数の「人」の声が重なり合った様なざわめきとも取れる音が聞こえて来た事だろう。ただ、聴き取れる範囲ではその声のトーンは妙に高くあって、どこかでは気味悪かった。耳に入れば入るほど奇妙な感覚を抱かざるを得ず、次第にそれがこの空間へ、3階の、ヒサシのいる空間へと近付きつつある様に取れたのはどこかで緊張してしまえたし、悪い予感こそしても良い予感は決して出来なかった。
故に彼は、先ほどまで「人」がいない事に感じていた違和感とは別の感覚を抱きながら、静かにその場から可能な限り足早に立ち去る。幸いなのはそのシュミレーションゲームの筺体の隣とも言うべき場所に、余り使う人のいない、小さな出入口があった事だろう。それは本来は非常口であるのだが、エレベータ等が混雑した時の出口として開放されているものなので、使うにあたって何の障害もなかった。そればかりか、何時もは降りるのがどこかでは面倒、と感じられて仕方ない螺旋階段も、今回ばかりはこれまで吸っていた空気に含まれていたゴム臭さの無さもあって、深呼吸と共にそれだけで安堵の域に達せてしまう。
その出入口から出る間際にも彼は、共に来た友人の事を決して忘れた訳ではなかった、とも触れておかなければならないだろう。大丈夫だろう、な、と思いつつもふとした後ろめたさを感じつつ、今はとにかくおかしい、との思いのままに一息に振り切っては店外へと出る。
足は螺旋階段を階下に向けて経れば経るほど速まって、地上へと降り立って表の街路の人通りの中に混じった後も、その緊張と足の速さを緩める事はしばらく出来ないままだった。しかし対照的に、その意識は緊張の中での、とにかくおかしな場所から出られた、との事から次第に混濁していたのも触れておかねばならないだろう。そう、傍から見たら夢遊病か何かの様に、彼が歩いていた事なぞ、とてもヒサシが知る由はないのだから。