白に青いゴムの香り・第3話冬風 狐作
「あっ、あれ…もう家、か」
 緊張の後に来たのは反動としての、もうわざわざ言及する必要もないほどに明らかな気の抜けっぷりだった。そしてそこからの更なる覚ましを促すため息を吐いた途端、ヒサシは辺りの光景を見てふと目を丸くしてしまう。それは場所の変化に気付いての事―見慣れた塀と軒先の見える―もう家の近所まで来てしまっている、との気付きに思わず歩みを止めてしまう。
 脳内では瞬時にその違和感の正体の突き止めが行われていた。即ち、ゲームセンターから家までの距離を考えると、幾ら夏とは言え、薄くも日が残っている内に「歩き」ではとても帰る事は困難なほどに遠くあって、行き来するには自転車と電車を活用するのが当然な距離であるとの気付きこそが、その正体なのであり、それは幾ら幾らと思い返しても変わらない。
 しかし現実として、今、ヒサシは家の近くにいる。そして、その記憶の内には電車だとか自転車を利用してきたものはなかった。勿論利用した記憶自体は、ある。とは言えそれはあくまでも行く時、往路に際してのものであって、更に書くならば前者はともかく、後者については跨っていないでここにいるのだからより当然なもの、となるだろう。
 可能性として浮かべるならば、駅で自転車を引き取らずに歩いてきてしまった可能性が見えてくる。しかし、肝心の自転車を止めた自宅最寄り駅までの電車に乗った記憶が全くない事が、それに対する大きな抑止、となって立ちふさがる。勿論、まだまだ可能性はあったのかも知れない、しかしヒサシはひたすらにそちらへと、最初の気づきの方へと思考のリソースを割き切ってしまっていたものであるから、他にはどうにも気が回らずにただ、その場でしばらく立ち止まるしか出来なかった。

 前から来る自転車の気配に気づいて道の隅に寄り、一旦止めていた歩みをゆっくりと再開して、どうしてだ、どうしてか、と巡らせる内に見えてきたのは角の先の自宅の姿。門扉を開けて、鍵を外して、ただいま、との声におかえり、と返す親の声を聞きながら階段を上がって階上の自室へとひとまず収まる。
 その時の安堵さと言ったら、とても大きなもので、何時も安らげるその空間が、とても愛しくすら思えてしまってならない。机の上に置かれた参考書、日々使っていて今日は休ませていた鞄、それ等をしばらく眺めた後、大きく体を伸ばして、あくびへとつながっていくそれは、更なる気付きの前の条件が整った証でしかなかった。
 どこでどうしたか、となるのは重要になるもの。それは様々な事柄において、共通して肝心なのであるが、ヒサシの場合、自室で、が幸いなだったのだろう。取り敢えずは、体を軽くしようとシャツのボタンを外す。続いて、ズボンのベルトを解こうとして手が、滑るのを覚える。
(ん?ああ、ぼんやりしていたからか…)
 上手く出来なかったか、と改めて指を当てては再び入れた力。しかし伝わってくるのはただ、先ほどに通じる滑る感触ではなしに、何かにはまる。それは滑るとかではなしに何かに文字通り「はまり」、更に「ドロッ」とした感触が指に伝わる不快さで、何事かと、釣られて視線を向けた時、ヒサシは大いに息を呑んだ。そして叫ぶのでなしに、目を最大限まで丸くしたまま、そのまま息を呑んで、吐いて、呻いた。
 そこには体しかなかった。ズボン、パンツ、それ等を含めて、およそ身にまとっていたはずの布も止めていた革のベルトもなくなっている。そしてある「体」すら、鮮やかな水色を放っている。
 その水色で構成されているものが自らの「体」と再認識し、かつある特定の知っている物体の名前を浮かべられたのは、息を呑んだ時に感じられた強烈な臭いからだった。そしてその色は、即座にある記憶と結びつく―ゲームセンターにて目撃したカラーボールの砕けた様な何かの色と同一、な事に。
 その水色はすっかり足を覆っていた。踵から先に該当する、であろう部分は白くなっている。
 どうして断定的に書けないのか、それは簡単である、足の構造がスラっとした真っ直ぐなものではなくなっているからである。全体として丸みを帯び、太ももの部分は一回りも二回りも太くなっていてそのままにやや前に突きだしている。そして膝を頂点として、膝下は後ろに戻る様な具合になっていて、足の形自体が大きな「く」の字を描き、爪先から踵にかけてがそのまま斜めに上向きに上がる形で結びついているから、「く」と「く」が結び付いた格好の異様な足へと変貌していたのだ。
「な、なんだこれ?え…?」
 おかしなのはその足に留まらない、腰から上にしても同様だった。ただへその付近から上にかけては肌のままで、まるでその境界を示すかの様に、銀色の帯ともベルトとも言えそうな盛り上がった「ベルト」がへその真下からV字状に分かれて、そのまま指を沿わせて確かめると背中の尾てい骨の上辺りで交わって、ひとつの環に近い様子を呈していた。

 およそ理解が出来ないとは正にこれだろう。受け止められる範囲では、腰上を境として下半身がおかしくなっている、とまず言えよう。更に続けるなら、正直なところ、何時から変わっていたのか全く分からない。それこそが、よりその奇妙さと不安感を増幅させているもので、分からないままに、困惑の内に次第に気が遠くなってくる。
 その流れに何かいけない、との漠然とした危機意識を抱けたまま、ベッドに転がり込んだ事でヒサシは、間もなくかけられた家族の訪れの前に、その体を見せる事を逃れられたのは皮肉でありつつ、幸いであったろう。
 とにかく咄嗟に弄せた言葉は、急に気分が悪くなったから寝てる、夕飯はいらない。との短いものでしかなかったが、その言葉を信じてくれてから、改めて、水だとかを机の上に置きに現れた後は、とにかくおかしくなったら呼びなさいとの言葉だけ。以後は朝に至るまで訪れなかったのは正に恵まれたものだったろう―何故ならその後、彼の体は加速度的に変化を遂げていったのだから。少なくとも、「ヒサシ」としては幸いであったとしか言えなかった。

 恐らく―と彼はその最中で、これはどうにもならない、と結論付けるべく思いを巡らせた。もう幾らも浮かべていた事を改めて、今、家族が気を利かせて持ってきてくれた簡単な夕飯を部屋に運び入れて、食べた、食べようとしたのに喉を通らなかった事―食欲が失せたのではない、しかしそれはとても食べ物と認識出来なかったから―も一気に、気持ちをどこかで目覚めさせて、再び布団の中からその体を這い出させる方向へと働いたのだろう。
 気持ちを大いに震わせながら、部屋の鍵をかけた後、ヒサシは部屋の電灯の下に体を晒し、そして見つめた。
 服はもう影も形も残っていない、全裸で肌色と髪の毛の黒のみあるはずの体は今や、爪先から胸の辺りまで水色と白に染まっていて、その箇所から漂う強烈な臭いはゴムの香り。とても鼻が曲がりそうなほどに分毎、否、秒毎と表すが相応しいほどに増していく、ゴム臭さを吸えば吸うほど気持ちに思考が軽くなっていくのは、ある種のトランス状態に通じるものがあろう。
 そしてそれと並行する形にて、体が丸みを帯びて少しスリムになっていくのにも気付けてしまえる。ただ、そこから先はどうにも出来ない、ただ、ただ、とと傍観しか出来なくなっていく。そう、それは朦朧さを伴っての、それによって隠された形での意識の切り替わりとも言える現象であったろう。
 その頃には腰から下の変化はもう終わった様だった。だから腰上の上半身が今、正に変化の途上にある。特に、第三者的な視点から見れば、今、始まったばかりに等しく硬さのある指先にて、既に終わっている箇所に触れればその違いはまだ明瞭。変化の流れの前者に相当する太腿に後者で触れれば、そこは弾力のある質量の詰まった具合なばかりではなく、太ももの大きさに呼応して、丸々と大きな尻肉へと変わっていた。
 更に膝下の、踵に当たる部分との境目は元々上が水色、下が白色と分かれていたものが、その境界をより明確にさせん、と言わんばかりに銀色の、腰のベルトに通じる盛り上がりからの形状を呈していて、その大きさからベルトとするよりも「環」に近い格好のままに、今や存在している。
 そして再び腕へと視線を戻せば、見れば、その辺りについても腕も足と似たものになる様だった。形こそ腕のままにしても色は肘を境目に指側が白、境目に銀色の環、付け根側は水色となっており、すっかり染まりきってしまった時には、今度はヒサシのおぼろげな認識は胸に違和感を感じる。
 それは何かが体の中で爆ぜるかの感覚で、気道を通じて体内から来たる強烈なゴム臭さを発生させて、感じさせてしまうものだから思わず涙が出てしまう。しかし、それは一瞬に過ぎず、次になればその臭いが愛しくて仕方なく、変わったばかりの手を胸に当てて指で揉み出すと、そのまま捻り出されるかの勢いで双丘が、元々存在していた乳首を頂点として現れて、たわわとの表現が似合うままの形に整っては鎮座する始末。

 サイズはBかあるいはCだろうか、正確なのは知れないにしても魅力的なサイズであるのは見た目からして確か。そしてその双丘、乳房の表れとともに腰のV字型の分かれ目から首筋までにかけてが白色へと変わる。最も両脇は水色のままであり、首元から臍下の分かれ目までがダイヤマークの様な具合に色分けされた、と表せられるだろう。
 そこまでなればあとは追い込みだけだった。首が伸びた、すっするっ、と上にのびた様子はろくろ首を連想させられたが、そこまで無秩序に伸びる事はなく中途にて留まる。そして色は再び水色へと戻り顔自体の変化へと入る。
 顔は口元と鼻孔を頂点に勢いあるままに全面へ突き出せば、額までが斜めの尾根へとなって一続きになり、口自体が大きくなった。尾根を形成するに当然留まる訳がなかった、行き場をなくしたのか、一旦顔全体を軽く揺らしたのち、一点に、額に集中した揺れ余る勢いは、いきなりの盛り上がりにて、そのまま突き出す一本角を生み出す、
 角の色は白く、顔は水色、そして髪の毛は鮮やかな金色だった。眉毛のところだけは整った形のままに白く変わっていて、頬にはこれまでにはない桃色が丸く区切られた形で載っている、そんな色合いの顔立ちはある動物の特徴と一致していた。
 それは馬である、またツノがある馬となればユニコーンであろう、ならば髪の毛は、さしづめ鬣となるだろう。そして何時しかその変化の間に出現していた尾も金色となっていて、しかしその全てがゴム臭い、ゴムで出来ているのが特徴であって、とても生物とは思えない。瞳に至っては八芒星の瞳孔を抱いているほどなのだから、生物とは逆の印象しかない。特にその時には一切の動きが失われていたから、よりそうと見える、大きな、人間サイズのゴムの人形とすら見えてしまう。
 しかし、それは一時の事。数拍を置いた後にその体は動いた、息もしている、そして軽く体をひねると腕はしゅっと伸びて部屋の中を巡ってから縮んで戻る。まるで柔軟体操とも言えてしまえるものであった。
「あぁはぁ…ううん、イイカラダ、イイ体、流石私…っ」
 なんと呼んで良いのか分からない存在、だからこそ、そもそも「ヒサシ」と呼んで良いのかも分からないし、そうであったのかも面影すら感じられない現状ではとして分からない。しかしそこに在る、その存在は甲高い声で、しかし清涼は小さいままに呟くとその体を自らの伸びる腕にて抱きしめてはベッドに腰を落ち着ける。
「ああ、うん、イイ、やっぱり、ラバーンだもんね、私ぃ、私はユニコラバーン=ヒシーだもん!うふふ」
 その存在は自らについて「ラバーン」と呟いた、そして「ユニコラバーン=ヒシー」とも。ヒシー、それはヒサシを意味しているのだろうか?しかし、ヒサシはそんな体をしていなかったのも踏まえれば、確定的に、恐らくとの言葉を冠しても、それはヒサシではなく、またもうヒサシなる存在では決してない、と出来ようか。
 何れにしてもその「ヒサシ」の部屋にいるのは「ユニコラバーン=ヒシー」であるのだけは確かなものである。そしてもうひとつ確かなのが、同じ家の中にいる「ヒサシ」の家族は、その段階において、ヒシーが実際にはいる部屋の中には当人、ヒサシそのものがいる、と看做している事だろう。
「んーふふ、はぁ、目覚められた記念に仲間増やしたいけどぉ…取り敢えず一休みしちゃおっ、休んでから楽しまなきゃ!」
 なにか考えたのか、それは分からないがヒシーはベッドに転がれば毛布を被って、そのままに眠りに落ちる。

 そして朝を迎える、即ち、冒頭のシーンへと戻って、そうそれこそがあの「撓り」の正体であり、そこに続く長い序章であったとしか実のところは書けないものである。
 その時点でもう「ヒサシ」は完璧にいなかった、いたのは寝起きのラバーンなる生命体であって、呼ぶのならば「ユニコラバーン=ヒシー」以外の何でもない。そして、家族が持ってきたお盆を部屋の中に入れるなり、そこに盛られていた「食事」に口をつけて一言、微妙と漏らして目を覚ます。
「はぁぁぁ、分かってないわねぇ、私の好みの味付け、がっ、もうおしおきしましょっ、そうしましょっ」
 柔軟体操かの様にその、ゴムの体をくねらせるとヒシーは部屋の扉を開けた。そして鼻歌まじりに階段を降っていて間もなく、小さな悲鳴と何か粘り気のあるものが爆ぜる音、そして猛烈なゴム臭さが階下より家中に充満し始めたのであった。
「ふふ、おかあさんもっ、おとうさんもっ、ラバーンになりましょっ!なろうよ〜!」
 それは楽しそうな甲高い声と共に、だった。何故か、相手が何のなのかを認識しているのは、ヒシーにも、また未知の存在に唐突に襲われた人間達にもわからぬままに、全ては濃厚なゴムの匂いと爆ぜる音の中に溶けて行く。
 それはゴム生命体「ラバーン」としての、とりうるべき必然的な行動であったのだった。


 続
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