白に青いゴムの香り・第1話 冬風 狐作
 その青年の名前はヒサシ。彼は紙の上にある記録の上では特に問題のある要素は全く見出せなかった。
 彼に対する評価を下す立場からの見方は真面目に重きを置いた学生、であって運動を適度に好みつつも、どちらかとなると一歩引いて静かに勉強している、そんな具合。髪を染める事もせず、革靴の踵も踏まず、制服をまといつつも小奇麗にしている事を好み、今はちょうど受験に向けて最後の追い込みをしている、はずであった。
 はず、と書いたのはその通りになっていないから。今、彼の部屋をただ見渡しただけではその姿は見当たらなく、ただ気配があるだけの状態。一毛化すると不在か、とすら思えてしまうものだが、より注目して見れば少しばかり乱雑で、ほんのりとした臭気の漂う部屋のベッド上に膨らみがあるのに気付けるだろう。その、シーツやらで覆われている膨らみは小刻みに動いていて、その中に何者かがいるのを明確に示している。

「ヒサシ、ドアの前にご飯、置いておくからね!風邪の具合はどうなの?」
 西日が差し込み冬らしい香りの漂う廊下。そちらと対する一室、その場と外を隔てているドア越しに聞こえる女性の声は彼の母親のもの。最もそれに対する返答はされなかった、母親は、当然と予期していたのもあってか軽い溜息の後に、一言、何か具合悪くなったらすぐに呼びなさいよ、と付け加えてから手にしているものを床へと置いて去っていく。
 その一連の、軽いノックとかけられる声、食事を載せたお盆が置かれて、母親の足音が階下へと向かう音は、静かな部屋の中に薄くともしっかりと、特に後者は幾らかの振動も伴って響いていた。最もそれに対して、ベッドの中の膨らみがすぐに何かの動きを見せはしなかった。およそそれは慎重に、との具合であったのかもしれないが、しばらく、大体5分程度はそのままであった。
 ようやく見えた動きに言えるのは溜めていたかのごとく、との表現であろう。ふっと唐突との具合で、ただ一度、もぞっとした動きが見られたら、後は程度こそあれ、一気に膨らみの中から動きが始まる。
 一息に書けば次の通りになる。かけられている毛布の中、そちらより伸びた手が、鍵のかかっているドアを器用に開けて、さっとお盆を、載せている食事をこぼしたりする事もなしに、室内に持ち込んでは鍵を再び閉じる音がまた良く響く。およそ、そこには無駄な動きは見られなかった。お見事と言えるほどに迅速な具合であったのだが、よくよく浮かべ返すとおかしな点が幾つか浮かんでくる。
 まずは距離、ベッドの端とドアまでの間には50センチほどの空間が空いている。その程度の距離であれば人の腕は余裕で届く。大体70センチ程度の尺は男であればあるものであるから「ベッドから寝たまま伸びた腕によって開けられた」とだけなれば、別におかしな点はない。
 最も、ここにある要素を盛り込むと、途端にそれは疑問を抱かせるものへと変わる。まずヒサシの体はその毛布の盛り上がり方から察して、ドアの側に足があり、そしてドアとは真逆の方に胴体、そして頭があると見れる。つまり腕が幾ら70センチあるとしても、50センチはおろか1メートル以上の空間がそこには生じているのであるから、普通に考えてとても届くものとは言い難い。
 しかし、毛布の中から出てきた腕がそのドアから離れた側の毛布をめくっていたのは今正に見えた光景、幻だとか見間違いとはとても言いきれたものではない。そうなるからこそ、その疑問点はより深まり、また対する推察も生まれてくる。
 まず考えられるのはヒサシの腕は極めて長いのではないか、だろう。確かに有り得ない話ではないが、身長が190センチ近くあったとしても腕の長さは80センチ程度が限度であるのが人の体である。ヒサシ自身はそこまで身長は高くなく、精々170センチ程度であるのを踏まえれば、限度以前のものがあってとても有りえたものではない。
 おかしな点は更にある。そう、有り得ない長さがあるとしか考えられない腕の見せた無駄のない、撓っているとすら見れてしまえる動きこそが不審な点のひとつなのである。
 およそ人の体は幾ら柔軟とは言え、その芯がカルシウムを成分とする骨である以上、そこには限度がある。それは硬さとなって構造を支えつつも、ある程度から先の柔軟な動きを常に阻害していく。だからこそ、人の手は鞭の様にしなる事はないし、安定した形を保てるからこそ、クラゲの様に崩れる事もないが、常識的には有りえない長さを彼の腕は渡っていた。
 そしてもし、それをより観察していたならある事に気付いただろう。その腕はただ真っ直ぐ伸びるのではなく、前述の通り、程度こそはあれ撓りが入った状態で一気に伸びたまま、ドアノブを掴み、そこにある鍵をささっと外して、更に外へと伸びてお盆を室内に引き入れたのに。その際の動きはカルシウムによって構成されている骨では有りえないしなやかさ、あるいは弾力さのあるものだった、と。
 人の体の構造において弾力があるもの、となるとその主成分は多くの場合、脂肪であろうか。しかし脂肪はエネルギーの貯蔵の形態にすぎないから、筋肉の様に神経からの信号によって動く事もなければ、体を構成こそすれど骨の様に肉体を支える役目も果たさない付随物でしかない。よって、「人の体」との常識的な見地に立ってしまえば、今、「ヒサシ」が見せた2つのおかしな点は有りえないのだ、人として有り得ない、別の動きですらあろう。
 こうもなってしまうと後はどうすれば良いのだろうか?およそ考えているだけでは埒が明かないのは明らかである、明確に、しかと分かる様になる方策は、恐らくその頭で考える限り、ただひとつしかない、今、「ヒサシ」を覆っている毛布を剥いで、その姿をしっかりと見る事、それしかない。

 最も、それを誰かがする必要はなさそうだった。何故なら、「ヒサシ」が自発的に毛布を剥いでくれたのだから。
 これこそ好都合でしかなく、だからこそその体に注目する事が出来ると言うもの。あの人の体たる常識としては有り得ない「撓り」、何より、距離を制する腕の持ち主の体はどんなものなのか、注目出来よう。
 それは白かった、続いて青が目に止まって、鮮やかな色合いその物でしかなかった―結論から書くならそれは―人とは思えない姿をしていたとだけ言えようか、形態にしても色合いにしても、である。ただ、今、それを詳細に書く前に明確により触れられるのは独特な、臭気に留まらないはっきりとした臭いが途端に部屋の中に立ち込めた事だろう。思わずムッと顔をしかめてしまいかねない、そんな具合のゴム臭さに、途端に部屋は包まれたものだから、今の今までその体を包んでいた膨らみとなっていたシーツやらには、きっともうしっかりと染み込んでいると浮かべるのは容易なものだった。
「ああ、本当、これって一体どうなってるの。おかしな事過ぎる…」  その場に居合わせたならば、感覚器には―つまり鼻に続いて耳には―ボヤキとも取れる声がその口からもたらされ、届いたものだろう。なるほど、確かにその声はヒサシのものだった、溜息混じりのその声から感じられるのは陰鬱とした具合であり、何かこう、理解出来ない事態の中に放り込まれて戸惑っている、とした印象を受けてしまえる。
 それは今、目に出来ている鮮やかな色合いに包まれた彼の姿ときっと連動しているからではないだろうか。
 彼自身、声の具合からして決して具合が悪い、即ち風邪をひいている訳ではないのだけは確かなところ。むしろ元気そのものであって、具合が悪いと装えるだけに、どうしてこんな「おかしな事」となっているのか、そのきっかけに触れてみるとしよう。
 きっとそれはまだ、ヒサシ自身も認識していて、しかし理解出来ていない事柄の塊。今、自らが声を発している体、その形態に、姿がおかしなものになっている、との認識こそ出来ているが、どうしてそうなってしまったのかと納得した理解の出来ていない狭間にいるのは違いない。
 より言うならば、それは彼自身の理解が今の状況に対して追い付くか否かの瀬戸際にある、と出来るもの。だからこそどうして彼がそうなったのか、少しばかり時計の針を巻き戻してみる事にしよう。それはわずかに数日前の、ふとした外出先での出来事であった。


 続
白に青いゴムの香り・第2話
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