「次はー塚富、塚富、この列車終点となります。お忘れ物など無いよう―」
その夜宵市から東の都市の一角にある駅、塚富へと到着した列車があったのはどれ位の頃合であっただろうか。降り立つ多くの乗客に混じる1人の特徴的な黒毛をした男にとって、その土地は初めてのもの。そしてふとかけられた声に体を向ければ、続く言葉が投げかけられる。
「大神さんでお間違えないでしょうか?私、相奈県警の大和田です」
出迎えたのは警察を名乗る男。なるほど、その視線には独特の鋭さがあり、また表情も微笑みつつじっと見ている具合。
「ああ、そうです。鏡都府警の大神です、どうもお迎えありがとうございます」
最も迎えられた側も警察なのであるから同業者同士の出会いであるのは違いない。ただ、初めての土地に対して慣れぬ具合が多分にあるのが後者なのであれば、前者は迎えた人間をどこか興味深そうに、ただどんな人間なのかを見ようとしているのではなしに、幾らかの点に視線を繰り返し注いで観察している様が、どうにもうかがえて仕方がないまま、彼らは雑踏の中へと姿を消していった。
それから数日ほどをあてがわれた滞在先にて過ごした大神が、打ち合わせた予定通りに再び大和田と落ち合ったのは、降り立った駅の近くにある警察署の中での事だった。その警察署自体はその所在する行政区を管轄するのが主な役割ではあるが、その一角により広範な行政区を越えた広域管轄を目的とする組織が最近開設されており、大神がこの東の都市へ赴いたのも、そのサポートをする為であった。
「あなたが大神さんですか、ようこそ、ここの長を任せられています金原 真と申します。どうぞよろしく」
大和田に連れて行かれた先の部屋の中、金原と名乗る男は初老に差し掛かった、との感じを漂わせた警部であった。事前に受けた話では、こちらの警察でのその道のプロと呼ばれる存在との事であったが、およそ大神の、少なくとも最初に受けた印象ではそこまでの気配は感じられない、本来所属している府警の部署に配属されたばかりの新人に近い印象を受けるものであった。
長である金原がそんな具合なのであるから、他の所属している人間は押しなべて同様のイメージ。大和田にしても大差ないが、若干、ある程度の知識と経験を感じられるのがやや幸いとの所だろうか。
(こりゃ、俺の手に負えるのかなぁ…思った以上に深刻、いや、レベルが足りないぞ…?)
一通りの挨拶や案内が終わった後で彼が浮かべたのは正にその思い。何より大神として戸惑いを覚えたのは自身に対する質問、そう、本当に犬耳が生えてるんですね、だとか玉葱は食べられるんですか、とかそんな自らの種族たる犬人へのものが余りにも多く戸惑いを覚えてしまえてならない。
そもそもそんな質問自体、される事がとても久しい―恐らく子供の頃以来であろう―のもあったものだし、それ以上に大の大人がどこかで驚きの目を見せながら、真顔で、失礼かとは思いますがと断りつつ、余りにも初歩的とも言える質問を繰り返してくるのに辟易してしまったのが本当のところだろう。
いずれにしても大神にとっては、どこかで頭を抱えていく角度の傾斜がきつくなっていくのを感じずにはいられなかった。故にそれから退勤までの間と言うのはただひたすらに、さてどうサポートとの名前の「底上げ」をしていこうか、との事に頭を、巻き気味の尻尾を幾分垂らしては終始巡らせるのみであった。
「ふぅん…大変やなぁ、大神さんも」
昼に届いた、と机の上に置かれていた手紙。開封した封筒の中から取り出した文面に一通り目を通した女性は、ふっとした溜息と共に軽く体を伸ばすと、改めて便箋の幾らかの箇所に繰り返し視線を走らせる。
「憑神に対する理解の不足」「データベース自体が整っていない」「他の部署から向けられる強い疑問の目」云々
そこに散っている内容はおよそ彼女の常識、ないし当然と思っている事に比するとまさか、と言ってしまいたい内容のオンパレードであった。何より引っかかったのは「憑神」に対する理解が、対処する専門部署の要員であるはずの人々の中にも基礎的な事から欠けているのが普通である、との行であろう。
「一体あちらはどんな世界なんやろ、そー言われてみれば行ったことないねんなぁ…」
余りにも当然と思っていた認識の存在しない世界がこの国の中にある、それは大きな驚きであったのは当然であった。確かに以前から、東だとかに行くにつれて「憑神」事件は一気に減っていく、との話こそ時折聞けたものであるし、確かにデータとしても見た事はあった。しかしその多くは半信半疑でしか受け止められなかったのもある意味彼女にとっての限界だったのだろう。
ただそこには、何かの誤差がある程度含まれているのでは、と薄ら感じてすらいた。しかし、今、こうして色々と知っている憑神を始めとした霊的な事件に対して対処するパートナーが実際に東から送ってくる便箋を手にして、その内容を把握してしまった今となっては認識の変更は必須でしかない。最もそこには納得いかない気持ちも存在している、同じ国の中でそんなに違うものなのだろうか、と。少なくとも、いや確かにそうなのだから、と便箋を傍らに置いた手は棚から取り出された厚めの大判の書籍にかけられていて、彼女はその中を凝視する。
それは地図帳であった、それも特殊な、この国にある主要な龍脈だとか地域的な鬼門、そうした物を一堂にまとめた彼女の様な生業をする者にとっては必携にも近いもので、常に持ち歩くまではしなくてもその家だとかには必ずある、お馴染みの代物であると出来るだろう。
「ここが、夜宵市やろぉ…で、大神はんのいる相奈県、そして塚富はここなんやから…うーん?」
指が地図をなぞる。夜宵市付近を中心に広域ページでは方々を無数の色で彩っている龍脈や鬼門の数は、西へ向かっても東へ向かってもしばらくはそこまでの変化はない。しかし、次第に幾らかの流れに集約されていって、人の多く集まる地域―即ち一定の規模以上の都市―周辺では幾らか増えるものの、全体としては確かに減っていく。
しかし疑問の語尾を着けざるを得なかったのは、そのパートナーのいる相奈県の手前から大きく円で囲む様に急激にそれ等の、特に龍脈の数が激減する事であろうか。およそ幅は若干のブレこそあるものの、100〜150キロ程度の半径とも言える距離に円形の線が引かれているかの様に、そこから東あるいは北はそれまで少なくなったとは言え、自在に踊っていた龍脈が、不意にとの表現の通りに幾筋かに集約されて示されているのだから奇妙な図と言えるだろう。
この地図帳が完璧でないのは、その龍脈だとかの性質上、彼女も承知はしていた。しかしそれにしてもこの変化は妙であった、まるでそう、人為的、あるいは作為的にされたとしか思えない龍脈の描き方に引っ掛かるものを感じつつ、不意になった電話と内容に誘われて、そのまま目下せねばならない仕事、即ち新たに発生した危急的な憑神事件への対処を行うべく神社を飛び出していった。