それは気付かぬ内に・第1話 冬風 狐作
「はあ…疲れた」
 自宅の最寄り駅に降り立った彼女はそう呟きつつ、改札を抜けてはその足を暗闇の中へと向けていた。時間はおよそ深夜の1時を回ったところだった。都心からの長距離の通勤電車故の時間ではあるが、流石に疲れ果てた身にとってこの時間は厳しいものがあると言うもの。
 だからこそ何とも重い足を動かして向かって乗り込んだタクシーの座席、そこに身をすっかり委ねる様に体を投げ出したのもまた当然の事であった。
(はあ…早く熱いシャワー浴びて一息吐きたい…)
 郊外のそれなりに大規模な駅前と街は言えこの時間になれば空いているもの。そこを飛ばして走るその車窓は今のこの体にとってはある種の癒しを、その振動と共に彼女に与えて止まなかった。つまりとても快適な空間に彼女は今いた訳でもし何も構う事がなければ素直に、より深く身を委ねていたに違いない。
 だがそれは叶う事ではなかった、まず言えるのはそれを堪能するには時間が短すぎる。その中に包まれている時間はおよそ10分と言うところで、途中運転手に道を指図しなければならないし、また到着したらしたですぐに支払が待っている事を考えるとそこまで気を緩ませる事は実のところ無理と言うもの。
 そして何よりも彼女をそうさせなかったのはふと体が痒い感覚、それにずっと先ほどから苛まれていたからだろう。そうと最初に意識したのは駅に到着する寸前の事だったかもしれない、それに気付くまでは一応気だるさを感じていたとは言え、そこまでの重さとかだるさまでには至っていなかった。
 だがその痒さがわずかに意識の中に出て来た時から、それ等は一気に変わった。痒さは精神の平衡とでも言うべき何かをかき乱す、それもじわじわと突く様な具合でふと意識から外れている間に広がって行き、そしてまた意識の内に入って来た時には以前よりもずっと関心を割かずにはいられないほど精神のリソースを奪っていく。
 その繰り返しの果てに今の疲れ果てたとすっかり脳が認識している、腰を下ろしたならば身を委ねなければ耐えられないほどに重い体が出来上がったと言えよう。

「ありがとうございました…」
 だからさっと運賃を払うなり、彼女は運転手の声かけもそこそこにタクシーを飛び降りて駆け足で自宅へと向かう。彼女の自宅はつい最近引っ越したばかりの、独り身としては珍しい一戸建てだった。流石に持ち家と言う訳ではないが、1人で暮らすにはちょうど良い平屋建てのその家を彼女は何とも気に入っていて、この様な気持ちであっても玄関の鍵を開けた時にはふとした弾んだ気持ちになったのは言うまでもない。
 だが今日の疲労はそれで何とか和ませられるほど柔なものではなかった。逆にその気持ちの弾みを、気のホッとした緩みを利用するかの如く、リソースを消費する部分が突き上げてくる。そう言う勢いで一気に精神、そして肉体は染まり重くなったのだ。それは目眩にも似た感覚で思考も暗く、狭窄してしまった具合、視野の多く、思考の多くが黒く覆われて中心付近だけが丸く普段のままとでも言えるだろう。
 そんな具合だから何もかもが億劫になる、もうとにかく楽になりたい、そうシャワーを浴びるのが一番、一番…体に漂う倦怠感とその元凶となっているのが明らかな独特の痒みの前に、ただそうと浮かべて彼女は荷物を放り投げる。
 服にしても同じだった、一応洗面所に入ってから脱いだものの、上着も何もかも一緒くたに脱衣籠とその周囲に投げつけるなり、さっとその身を翻して浴室へと入る。それは大きさで言えば2人位が共に入っても問題はない程度の広さの場所、そこで彼女は待ちに待っていた蛇口を回し、その熱さを足、何より湯気として鼻腔にて感じる。
(ああ…気持ち良い…生き返る…っ)
 それは心からの嘆息だった、あれほどまで彼女を覆っていた黒い倦怠感と言う名の重さはどこへ消えてしまったと言うのだろう。多量の水の中に投じられたわずかな墨汁、それがすっと消え去るのと同様な具合であろう。一時の気の乱れで生じたそれ等は、日頃から彼女が最も安らぐ時間の1つ、即ち疲労を取るのに最適な手段の1つとしているシャワーと言う身を清める行為の前にはわずかな汚れ、根を張る様な厄介な汚れとはすっかり無縁な存在でしかなかった。いやそうであるはずだった。

 だから彼女がある事に気が付くのはそう遠い時ではなかった、と書けてしまえるのだろう。思う存分その肉体をシャワーからの熱い湯、つまりその暖かさにて満たした彼女は、その間にためていた浴槽へとその身を沈める。それはより暖かさを欲して、包まれて体が軽くなる事を願っての事だからろくに体を洗っていた訳ではなかった。
 一応顔だけは念入りに洗う、それは化粧等をしていたからと言うのはあるだろう。しかし肉体や頭髪は後々、体をすっかり休めた後で洗おう、そう言うつもりだったから、もう構う事はなかった。とにかくシャワーで温まった体をより温めんとばかりに浴槽に使った彼女は体を伸ばす。
 目一杯伸ばしきった身をのけぞらせて一息を吐いた後は、更におまけと言わんばかりの勢いで大あくびを浮かべる。そしてより強い一息を吐くだけでしばらくは、すっと脱力して一時を過ごす。その中で自然と薄めになるのはある意味自然であろう、緩み切った象徴としてのその瞳はひたすら天井の一角へと視線をぶつけていた。
 そして何を思ったのか、その視線を顔と共に下に向け、水面下の肉体へと落とした時にふとその頭は何かに気が付く。だがその時はまだそこまで気が付いた訳ではなかった、何か、そう影か何かでそう見えているのだとしか感じない内に意識を処理しては、再び気を緩めて首を別の方向へと傾けたまでだった。

「あら、靴変えたの?」
「ん…ああ、そうなんだよね、何か濡らしちゃって別の靴履いて来たんだ」
 それは翌日の昼間の1コマ、昼時の食事に箸を進めている時のやり取りであった。
「へぇ、何?溝にでも落ちたの?」
「あ…もう何で…っ」
「だってあんた前にもそう言う事したじゃない、私の目の前で、さ」
 共に食べているのは彼女の友人だった、友人と言ってもこの職場に入ってから知り合った仲であるから幼馴染とかそう言うものではない。だからこそ色々と気がねなく言い合える側面もあるもので、ふと恥ずかしい過去もこうやってすっと口に出来てしまえるのもそれ故であると言えてしまえるだろう。
 だから溝に落ちたのも事実だった、あくまでも過去にではあるが知り合って間もない頃の飲み会の帰り、お互いに酔っ払いつつ駅までの移動途中にふと、そう彼女が道路脇の側溝の蓋が外れていた場所に足を突っ込んでしまった事があるのだ。
 その時の事は彼女もまた言われればすぐに思い出せる、比較的浅い側溝であったとは言え水がたまっており、また独特の臭気のある水であった事を。靴は乾かせば何とかなるかもしれなかったが、その瞬間の靴底を通じて感じられた独特の柔らかさと出してからの臭気の前にはもう履く気にはならなかった。
 だからそれは嫌な出来事として記憶されている、しかしこの友人に言われるとそこまで不快には思えないのが不思議だった。むしろどこかで助けられてもらった、そう靴がその様になってしまった彼女の為に、サンダルではあったが代えとなる履物を用意して寄越して来てくれた、そう言う一幕があったからだろう。
 だから浮かべる表情は苦笑い、そして軽く1品、自分の定食にある物を進めた辺りで食事を終える。先に戻っておくね、そう言って席を立つとすっとその場を後にしたのだった。
(まぁ…濡れたのは確かなんだけどさ)
 自分のデスクへと戻る途中、彼女は途中で買い求めたペットボトルを握りながらそう浮かべる。確かに濡れたのは事実だった、しかし溝に落ちたとかそう言う事ではない。その点は否定したかったが、言わずに言葉を飲み込んだのには理由があった。

 それは説明しづらい状況、何より彼女としてもどうしてそうなったのか分からないからこそであろう。彼女が今朝に目を覚ましたのはあの浴室、そう浴槽の中での事だった。その時には当然お湯はほんのりとした温かさを残すのみで水に戻っていたのだが、相当浴槽に身を委ねてリラックスしていたのだろう。
 最もそれ自体は驚く事ではなかった、たまにはこれをやらかしてしまうものであったし、そう言う意味では慣れた状況だった。ぼんやりと見えた浴室内の時計の表示はまだ早朝、その日の出勤は遅い時間帯であったのは覚えていたので今からゆったりと体を洗い、また食事を摂ってから一息吐く、それする余裕があるのは明らかでまた心が緩む。
 だからこそ浴槽から身を起こしたのだった、わずかに暖かさが残っているとは言え殆ど水に帰している中に、幾ら暖かくなってきた時期とは言え何時までも浸かっているのは好ましいことではない。だから身を起こして再び暖かいシャワーを浴びて温め直しつつ身を清めよう、そうあくまでも何時も通りにこなそうとしたその時に気が付いたのが「靴」の存在だった。
 浴室に靴と言う時点で何やらおかしいものであるが、気付いたほんの少しの間はただ何か重いとしか感じていなかった。足が重い、それも足そのものではなくて何か足を覆っているその重さに気になって視線をはっきりと向けて、何があるのかを見た時、彼女は思わず悲鳴にも近い声を短くあげてしまったものである。
 そう靴を履いたままだったのだ、それは黒い革靴でつい先日、購入してきたばかりの新しい靴であるのがすぐに脳裏に浮かんでくる。途端に顔面蒼白となったのは言うまでもない、それはまず買ったばかりの靴なのに、と言うものだった。それはそうだろう靴はそう安いものではない、かと言って安い物を買うと意外に寿命が早いものだから、しっかりとした靴を買うのが彼女のポリシーであるからこそも動揺したと言えるだろう。
 そしてもう1つはどうしてこんな格好で浴槽に浸かっているのだろう、と言う事である。前述した通り、そして見たところ彼女は靴以外に何も身に着けていない。服は下着までもすっかり脱いでしまっている、なのにどうして靴を履いているのだろう、少なくともズボンから下着に至るまでを脱ぐ時に靴は大いに邪魔になり、そして気付く、あるいは脱げてしまうはずである。
 しかし目の前にある光景はそうではない、靴は履かれたままである。そしてもう1つ不思議なのは靴下は脱げていると言う事。靴下が脱げているのに靴を履いている、それは靴を履いたままでは出来ない芸当であろう。しかし言に目の前の足には靴下はなく靴だけがあった、そして彼女の記憶にははっきりと朝に靴下を履いた記憶が浮かんでくるからこそますます困惑してしまったと言う訳だった。
 だがその場でとにかくしたのは風呂から上がる事だった、そして靴を脱いで浴室の外に出すと徹底的に体を洗う。つまり前者でも後者でもなく、清めたいと言う気持ちが爆発にも近く湯船から出た途端に第一となった証だろう。とにかく念入りに2度も3度も洗って体を清めた彼女は、どこか疲れた気持ちで浴室を後にした。湯船の水が排水溝へと流れて行く音だけが脳裏に響くだけであるほど、どこか憔悴していたと言えてしまえるかも知れない。
 そう言う意味では前述の溝に足を突っ込ませた出来事よりも今回の、靴を履いたまま湯船に浸かっていた出来事の方がずっと嫌な出来事であったと言えるかもしれない。新品の靴を濡らし、何より靴と同じお湯から水に、つまり靴の汚れの混じった水と共に一晩過ごしていた事、この2つこそが強い衝撃であったのは否めなかった。そしてそれを人に言いたくはなかった、勿論、あの場で何かと言い繕う事は出来ただろう。しかし何かの拍子にぽろっと口にしてしまうかも知れないと言う予感が最終的に言葉を飲み込ませたのは想像に難くない。
(はあ…本当、しっかりしなきゃ…っ)
 休憩所で眼下に広がる街並に視線を落としつつ、くっと一杯喉を湿らせた彼女はそう思ってボトルのキャップを閉めたのだった。そう言う不可解な出来事があったとは言え、色々と調子は良い。仕事も体調も、何だか皆調子が良くなっているのを思えば、ここでその気持ちをずっと引きずっている余裕はどこにも無い、だから…そう言う前向きな気持ちにて覆ってのものだった。
 続


それは気付かぬ内に・第2話
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