それは気付かぬ内に・第2話 冬風 狐作
 濡れた、と言うよりもすっかり水に浸かってしまった革靴が乾いたのは数日が経過しての事だった。勿論、しっかりと手入れをして休める等もしたので実際に履いたのは2週間ほどが経過した頃、その間に代わりとして履き続けていた靴にすっかり慣れつつあったが、どこかでその革靴に対する未練とも言える気持ちがあったからこそ、そこまで手を加えてしまったのかもしれない。
「ん…ま、悪くない履き心地かな」
 履いた足で数歩歩いて感覚を確かめる、幾分柔らかくなった感じはあったもののそこまでの違和感はなかった。むしろこれ位が良いのかもしれない、ずっと足を包み込むような具合になっていたし、それは大分履き慣らしてすっかり足にフィットした、そんな革靴を髣髴とさせる心地だった。
 だから彼女はふっと微笑む。そして今日はこれからの出勤、即ち1日に渡ってこの靴をまた履ける様になった日が来た事を何故か無性に嬉しく思えて仕方がなかった。
 そんな具合だからその日の勤務は何時もより調子良かったのは言うまでもない、何と言うのだろうか、ようやく未練が解消出来たと言うのは繰り返す様だが大きいのだろう。これは良いと気に入って購入して間もない靴、それが無事、復活したと言う事に対する強い安堵が大きな原動力であったのは想像に難くない。
 しかしそれ以上にどこか弾む気持ちは何なのだろうか、それが彼女としてもどこか不可解だった。故にどこかでおかしいと思っていたのもまだ事実、だがそれ等は快調に進んでいく前にはどこかで忘れる、あるいは薄れていく。とにかくその場の勢いにすっかり乗っていたと言えるだろう。そしてそれは1日の終わりには疲れとなって彼女を覆い、帰宅するなり最低限の家事や用事しかこなさせない様に仕向けさせる、ある意味では巧妙な罠だった。
 即ち昼間の事以外に対する関心を著しく低下させるという意味でだろう。だから何時しか彼女が職場に関係している時間以外、自分が何をしているのか余り分かっていない事に気が付いたのは、もうその頃から数えて半月近くが経過したある日の帰り道の事だった。
(…今晩はそうね、たまには徹夜しようかな。明日から連休だし…そうだ、飲むのも悪くなさそう)
 ふと過ぎったのは昔に買っておいた焼酎の事だった、確か何か特製焼酎だったと言うのは覚えている。しかし一体どう言うのだったかは覚えていなかった、そしてそれをふと思い出して以来、何か急に飲みたくなったと言うのが芽生えた気持ちと言えるだろう。
 とは言えそれはあくまでも建前に過ぎなかったのかもしれない、そう、あくまでも気分として、に過ぎなかったのかもしれない。とにかく最初に浮かんだのは徹夜をしようと言う事だった。即ち徹夜をする為の口実として、その焼酎を口にしようと思ったと書いてしまうのは全く以って想像に難くない。
 とにかくその日はふとあの晩とそっくりだった、強い疲労感が次第に倦怠感へと変わり、体が鉛の様に重い。そしてわずかに痒さをまた催しての帰路であると言う点において、全くそっくりな夜であった。
 

 そんな具合だから気が付いた時には家に着いていた、そしてまた眠りから目を覚ましたところでその事実をはっきりと認識する。最も幸いにしてそれが浴槽の中ではなかったのが彼女にとって幸いな事だったろう、だからしばらく、よりしばらくその姿勢のままでいたのはその表れなのだった。
 ようやく体を起こしたのはその姿勢でいるのに飽いたからだろう。何よりもこの暖かくなってきた、夜でも漂う陽気の中、微妙に汗ばんだ体をシャワーないし湯船できれいにしたくなったからに他ならない。だからすっとその場で服を脱ぎ出す。上着を脱いで下着も脱いで、我が家だからこそ出来る一糸纏わぬ姿となって改めて息を吐き、もう1つ、まだ身に纏っている物を剥いでしまおうと身をかがめて手を動かした時、彼女はふとした痛みを覚えた。
 それは何か毛を引っ張った様な痛みだった、明らかに生えている物を引っ張ってしまった時のあの感覚。うっかり頭髪が絡まってしまっている櫛を引っ張った時に通じるあの痛みと感覚を覚えて、思わず彼女は目を細めた。
 しかし同時に疑問も走る、一体何の毛を巻き込んだのだろう?と。確かに足には脛毛がある、それを巻き込んだと考えるのは容易かったがこんな事になったのは覚えがない。そもそも脛毛を引いたらこうも頭髪の様な具合に感じるものだろうか、それはあり得ないと同時に脳裏に過ぎらせるなり、彼女は余り集中させていなかった視線を脛に集中させる。
 あくまでも反射的な要素を持ち合わせた動きであったと言えるだろう。だからこそ、いやそもそもであるが何かおかしいと思う以外にろくな想定をしている筈がなく、故にその後に己がどの様な反応を示すか等、思ってなど全くいなかった。
「…え…ええ…何これ…」
 それは不思議な感触、撫でると妙に頭へと撫でている事が伝わってくる…そんな無数の細かい毛が脛を覆っていたのだ。それも色を持った毛だった白にほんのり黄色が着いて、そこに黒い幾つもの斑点がある、そんな色合いの毛に足が包まれていたのである。それはどこかで見覚えのある毛並であった。
 位置として書くなら膝のほぼ真上辺りまでがそうなっていた、密度の濃い毛並はふと何かを、そう豹柄と言うイメージを想起させる。だが毛並ないし毛色だけであれば良かったのかもしれない、足の肉つきの具合も何だかおかしかった。それは普段、見慣れている締まってはいるけど少しの緩さがある足ではない、しなやかな力強さのある脚だった。

 足ではなくて脚と浮かんでしまうのは、いやに締りが効いていてすらっとしているからだった。その中にはしっかりとした骨とそれを覆う筋肉が内包されている事が傍目から見ても見えてしまう、すっと撫でれば尚更で感覚もまた、その度に何だか鋭敏になっていき、少なくとも夢見心地と言う気配は既に完膚なきと言ってしまって良いほどに存在していなかった。
「うそ…ね、これ本当なの…?」
 そう呟いてしまったのはふとした怖さを覚えたからだろう、はっとなって辺りを見回したのはどうしてかは分からなかった。だがどこかであることを確かめようとしての動き、その一環としての動作であったのは疑いない。
 彼女はそのまま姿勢を立て直すとすっと足、否、脚を踏み出す。そう、脚と表現するのが相応しいと思えてしまうほどに足取りは軽かった。すっすっと前に踏み出る毛並に覆われた脚に引きずられて行くかの様な感覚を覚えつつ、向かった先は玄関だった。
 そう気になっていたのだ、何か玄関に答えが、あるいはヒントがあるかもしれないとふと脳裏に過ぎって気になっていたからだった。そうしてたどり着いた玄関の電気は落ちていた、どうやら自然と帰宅した時に消したのか、それか着けずに上に上がったのだろう。そして肝心の土間の部分に視線を落とした時、彼女はふとした確信と絶望感を感じずにはいられなかった。
 それは土間に落ちていた物を見ての事である、そこには幾らかの靴と共に履いていたはずの靴下が脱ぎ捨ててあった。そして靴下があるならあるべきはずの靴、そう共に履いていた靴の姿だけがそこには見当たらない。
 それはある予感の的中だった。考えてみれば出来てしまえる予感、無茶な予感かもしれないがあの浴槽の中で靴を履いたまま入っていた晩から続く一連の、ふと冷静になってしばしば見ると妙に調子が良く、そして異様に疲れる日々の元凶が実はあの靴にあるのではないかと言う、半ばウソの様にしか思えない予感。それが事実である、あるいはあったと言えるものに自分の中で変わった瞬間だと悟った途端、どこかで彼女は途方もない何かに飲み込まれた様な、そんな意識の揺らぎを感じていた。

「じゃあ今日は失礼します、お疲れ様でした」
「お疲れ様。今日の資料はありがとうね」
「あっはい、こちらこそありがとうございました。それでは」
 だが数日後、仕事を終えて帰宅しようとする彼女の足元を見るとそこにはあの革靴の姿があった。水に濡れて少し色合いの変わってしまった姿ではあるが、革靴と言う機能そのものはそのままである。履いている彼女にしても普通な姿だった、どこにも何かを隠しているとかそう言う気配は微塵もない、ごく普通に受け答えをしている姿であった。
 それから先、帰宅するまでの道中も全く普通である。電車に乗り、駅で降り、自宅近くまでバスに乗って、そして最後の家路に。それは極普通で普段通りの彼女の姿でしかなく、彼女に何かが起きたとはとても言われたとしても信じられたものではないだろう。
 そうなっててしまうと我々が見てきたあの光景は何だったのだろう?靴を履いたまま浴槽に入り、しばらくしてのある夜にその足が脚となっている事に気が付いて意識に揺らぎを生じさせる、あの流れは何だったのだろうか。夢であったのか、と言う予感がするのは全く平然としている彼女を見れば見るほど浮かんでくる。そんな内に彼女は門扉を開けて、玄関の中へとその姿を隠してしまった。
 帰宅して最初にする事、それは入浴と言うのが専らの日課だった。特に今の時期は暑くなってきている、だから余計にそれを欲する気持ちが彼女の中では大きかった。だから化粧を落とすなり、すぐに浴室へと向かって、熱いお湯を浴びては大きく胸を撫で下ろしては大きく息を吸い、体に手を添えていく。
「…ん、もうこんなに…」
 その手がふと止まったのは間も無くだった、具体的には胸の辺りからすっと走らせて臍の辺りまで来た辺りだろう。指先に伝わってきたのは何等かの柔らかい物、毛の類に触れた感触だった。
 臍の下に毛があると言うのは、特に男では良くある事だろう。いわゆる「ギャランドゥ」と言われる存在でそのまま陰部に繋がっている、そんな毛である。女でもそれは当然あろう、だがしかし大抵の場合、剃るなり整えてしまっているものではないだろうか。当然、彼女とてそうである。その辺りには彼女なりに気を使ってきた、それはもう思春期の頃からと言うものだろう。
 だが最早そんな気はどこかに言ってしまったと言うのが正しいものだろう、彼女が撫で回すその毛は、毛と言うよりも毛並である。一定の濃い密度で皮膚を覆い、そしてある種の色合いを、それは前述したほんのり黄色に黒い斑点のある「豹柄」と呼ばれるものであった。
 いや呼ばれるものではない、そもそもそれなのだから。今や臍の辺りを1つの頂点としてなだらかな線で尾?骨の少し下の辺りに続く流れで下は濃密な毛並の「豹柄」にすっかり包まれている。線の上に当たる部分は人の皮膚である、陰部にあった黒い陰毛の陰も形は無い。あるのは「豹柄」の毛並である、最もその辺りだけは黒い斑点はやや少なくなっている程度の違いはあった。
 脚はすっかり引き締まって、しかし太くもなっていた。基本的な構造は人の足のままである、だがついている筋肉は人であれば鍛えぬかない限りつかないレベルであろう。そして一介のホワイトカラーであり、学生の頃も最低限の運動しかしていなかった彼女が得られるはずの無いものである事を改めて認識する必要がある。
 つまりその色合いに染まっている箇所は既に人ではないのだ、人ではない、獣であった。より言うなら獣の人の折衷であろう、踵の辺りの構造が特にそれを象徴している、人の踵の構造を基本的には残しているのだが角度がやや変わっていて、筋が発達しているのがわかる。そこには瞬発力が秘められているのだろう、そしてヒップはキュッと引き締まっていて、惚れ惚れしてしまうほどの美しさを漂わせていた。
「はあ…やっぱりこれ、本当よね…」
 撫で回しながら呟くこの響きには軽い諦めと確信が混じっていた、彼女とてどうしてこうなったのかは未だに明確には分からない。つまり不可解であるのは相変わらずなのだが、その中で唯一、はっきりと分かっているのは、これは靴が原因ではなかろうか、と言う事だった。

 実は今日、と言うよりもここ数日、彼女は玄関で靴を脱いでいない。どう言う訳か知らないのだが靴が玄関に入って、上に上がろうとするなりすっと消えて代わりにこの豹柄に覆われた脚が姿を現すのだ。
 それこそ「自然に」である、足を上げて床の上に置いた時にはもう靴の変わりに脚となっているのだから。逆はその逆の動きとなるだけで、外に出ようと床から足を下ろして着地させた時には、足から靴へと変わっている、その繰り返しが普通になってしまっていてもう違和感を覚え様にも、そうでしかないと受け止めるしかなかった。
 そして少なくともそれは幻覚ではないと言うのもそれ故の事、幻覚であれば「靴」は脱がす事が出来るはずであるし、手を伸ばしてつま先に触れればそれが何であるかも流石に分かるだろう。しかし幾らしても「靴」は感じられなかった、触れても感じるのは毛並の感触とやや鋭くなった爪、発達した筋、そして触れている感触が脳裏に伝わってくるだけなのである。
 故にどこかで思考停止して、あるいは受け入れてしまうのだろう。それで当然なのだと、今では思ってしまうのが当然で、しかしどこかではそれ以前の日々を懐かしく思ってしまえる、それが撫でている時の彼女の主な考えだった 。
 だが時として考えはどうしてこうなったのか、と言う方向に傾く。その中で以上の様な日々見ている事から察するに、原因は靴としか考えられなくなった、だから原因と考えていると言えるのだ。加えて言うならもう1つ心当たりがあったのもある、そう主にどうして「豹柄」なのか、と言う事に対してだが、心当たりがあった。

 それはあの革靴の中の仕上げである、普通の革靴と言うのは大体、中は単色で当たり障りの無い落ち着いた色をしている。しかしあの靴は違った、どうしてその様な靴を選んだのかは分からないがその中の色合いは豹柄であったのだ。
 とにかくそうなっているのをを良いと思って買ったのは事実だろう、そしてそれを履き始めて間も無くの晩にあった浴槽での一件以来の出来事の果てに今がある、そうとしか言えない。
(ん…そう言えばこの靴はどこで買ったんだっけ)
 体を清めて浴槽に浸かった彼女はふと浮かべる、どこかの街角の店舗、どこかのスーパーの中…日頃買い物に行く場所等が浮かぶがどれも心当たりがない。一体どこで私はこの靴を購入したのだろう?と思いは深まる内に、不意に浴室の扉の先から響いてきた電話の呼び出し音に中断される形で彼女は浴槽を飛び出した。
「イタッ…もう…」
 その拍子に扉にぶつかった事に対してさっと恨み節を漏らしたのも束の間、考えもそのままに彼女は扉を開けて、置いておいたタオルを手にする形で未だに呼び出し音を鳴らし続けている電話まで急いだのは言うまでもない。だからこそ動きに対する意識と言うのは働かなかった、若し余裕があれば気付いていただろう、己がある意味飛ぶ様に、跳ねる様に脚を動かしていた事に気が付いていたはずだった。
 そしてその後姿にはまだ尻尾はなびいてはいなかった。


 続

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