「…どうも、すみません」
「良いのよ、気にしないで、ね」
しばらくした時、僕はその神社の境内の中にまだ居座っていた。居座っていたと言うよりも誘われたから、と言えるだろう。どうやら人の気配が見当たらないと思っていたのは、あくまでも僕の思い過ごしであった様で、今、一緒に居るのはこの神社を管理している者、と名乗る人物であった。
それは女性だった、神社を管理する、と言っても巫女服とかの類を身に着けている訳ではない。ただ普段着を身に纏っているという具合の彼女は特段に美しいとかそう言うものはなかったものの、何故だか言葉を交わしているとそのまま首を縦に振ってしまう、あるいは振りたくなってしまう気配を伴っている存在だった。
だから今、僕はそのご好意に甘えている、と言えるだろう。すっかり花粉に塗れてどうしようもなくなってしまった僕を見た彼女は、時間があるのならば顔を洗う、必要なら体を洗うのに社務所の中、それが彼女の住まいなのだが、そこにある風呂場を使って良いと向こうから口にしてきた。
それは僕からすると正に晴天の霹靂、と言うのは言い過ぎだとしても思ってもいない言葉だった。初めて会ってのいきなりの一言がそれなのだから、若し普段の調子であれば辞退した事だろう。しかしその時は断れなかった、それは余りに花粉を吸い込んで苦しかったからこそ、経験から一縷の望みを見出していたと言う事、何より前述した彼女の気配にすっかり魅了されてしまっていたからかもしれない。
そんな具合だから今、僕は社務所の中で貸してもらった薄い衣服を身に纏って彼女と机、いわゆる卓袱台を挟んで向かい合っては言葉を交わしている。薄い、と言うと語弊があるかもしれないが浴衣の様な物で、こう言った衣服と普段接する事の少ない身としては、それはもう落ち着く様で落ち着かない、そんな心地である。
「いやぁ、本当に…」
お茶を用意して淹れている彼女に対して改めて感謝の念を述べる、本当に体は楽になっていた。体、と書いたからにはただ顔を洗っただけでは済ませられなかった次第で、ちゃんと湯船にまで浸かってしまったのである。正直な所、己でもそこまで甘えてしまうのが不思議で仕方なかった。だが幾ら遠慮しようと思っていても、その言葉に押されて、あるいは囲まれて示されてしまうとその様な気持ちはどこへやら、正に「素直」に受け入れてしまうしか出来なくなってしまうのだ。
わざわざ繰返す様にそう書くのはまたもそうなっていたからでしかない、お茶で終わるはずが夕飯の段取りがついて、更には泊まると言う話まで持ち出されてしまった故の事。僕は一瞬全てに同意しかけた、しかしどこかでかかったブレーキで1つだけは何とか固辞する、そう宿泊していくのだけは何とか遠慮するのを死守した、そう言う次第であった。
「そう、折角だからしていけばと思ったのに…夜の風はまだ冷たいわよ」
「いや、でも急ですし…それに近所ですから、大丈夫です。それに夕飯まで頂戴しているのですからこれ以上は…」
最後は正に言いかける、と言う具合で途切れさせた言葉。それでようやく女性は、彼女は納得した。そしてほんの少しの間をおいて、新たな問いかけを彼女は僕にぶつけてきた。
「名前ですか?」
「ええ、良ければ教えて下さらない?私は布佐果子、そしてこの神社の名前は布佐稲葉宮。私は代々この神社を護っている、その1人ね」
「僕は田平苗史、と言います」
先に自ら明かした彼女に従う様に僕も名乗る、すると始まったのはどういう漢字なのか、何か意味があるのか聞いているか、とその辺りを一通り聞かれる事だった。それに関しては僕は聞かれるがままに答えた、としか言えない。特に反応が大きかったのは、どう言う意味を込めて名づけられたのかはと言うところだろう。次いで日頃、僕がどうその名前に対して思っているのか、と言う点であった。
だから僕はすっと答える、悪くは無い名前ではあると思う、でもちょっと男っぽくはない名前と言う印象も抱いている、そんな具合に述べれば、なるほどとの相槌を返してこちらを彼女は、果子と呼んで欲しいと言って来たので果子はじっと見つめてくる、それが印象的なものだった。
結局、その社務所を後にしたのは18時を回った辺りだった。普段の生活リズムからするとそれは何とも早めの夕飯を共にしてからの事で、僕はもと来た道をたどって家にのんびりと歩いて帰り着いたものだった。
「ただいまー…って、そうだ、今日はみんな留守だったなぁ」
帰宅してふと気付いたのはそれである、今日は己以外の家族は何がしかの用事で家を空けていると言う事を今になって思い出したそんな次第。
(となると…果子さんに夕飯を食べさせてもらったのは結構助かったな、偶然だけど買い物とか行く手間が省けたし)
それは結果として、ではあるが強い実感であった。事実、仮に夕飯も辞退して帰ってきたなら、今頃ようやく夕飯を買い物から戻って作り出している頃だろう。それを踏まえると果子さんによる夕飯、言ってみれば心遣いは大いにありがたいものであった、と言う事になる。
(今度お礼しないとなぁ…助かったもの、鼻の調子もあれ以来調子がいいし…?)
ふと振り返りつつ僕は口元へと手をやった。そして軽く口の周りと鼻を手の平で拭い、ふっと一息を吐いて漏らす。小さな疑問符を浮かべたのはちょうどその瞬間だった、何かが足りない、していない様な気がした。しかし何故だか、それを思い出す事は出来ぬ内に僕は大きく体を伸ばしての欠伸に心地よい疲労感を感じていた。
続