狐姫の玩弄草子・眠れない夜・後編 冬風 狐作
 最初のクシャミに続いて数回、激しく繰返してから鼻をかんで何とか落ち着かせる。いきなりの盛大な催しに頭はどこかぼうっとしていた、足取りも先ほどまでの確実さはなくなっていて息も明らかに調子を変えて、喉で呼吸をしている様な怪しい具合になっていた。内心を埋めていたのはしまった、と言う気持ちであり即ち後悔だった。何でマスクを外したのだろう、と言うのに対してはお参りをする為だった、と返し、当初はうっかりしていた自分を責める気持ちが支配的であったのは次第に捌け口を求めて変容しだす。
 そう自分ばかりを攻めていたのではどうにも気持ちが晴れないから、と言うのがその大なるところであったのだろう。つまり何かに気持ちを、この憤りをぶつけたいが為に変容を始めた気持ちはある物へ向けて集中していく。それはお参り、それをしようと言う気持ちを己に抱かせたこの神社の存在に対してだろうか。だからふとその辺りにあった石に腰を下ろしながら社に対して向ける瞳は険しくならざるを得なかったし、吐く息には怒気が含まれてくる。
 だが気持ちの移り変わりと言うのは風の様な所があるもので、しばらくそうしていると少しは気持ちが落ち着いた。そして改めての溜息を漏らすなり僕はすっと立ち上がる、一応は来たのだからお参りと言う目的だけは果たしておこう、そこまで何とか取り戻すと依然として視線は険しいままではあったとは言え、足を踏み出してゆっくりと社に近付き賽銭箱の前へと立った。
(…これで良いや)
 ポケットに入れていた財布の小銭入れから取り出したのは五円玉だった、最も相当使い古されて変色した五円玉で見栄えは良くない。少なくともおつりに混じって渡されたなら、そう言う事を気にする人であれば思わず眉をひそめること間違いなしなそれを僕はぽいっと賽銭箱の中に入れる。そして賽銭箱の中に落ちたのを確認してから、ジャカジャカと鈴を鳴らして手を叩き頭を下げてお参りをする。
 よって要した時間はそう長くはなかった、とにかくさっと済ませて帰ろう。それが一応の気持ちであったし、姿勢を戻して踵を返して外へ。そけは石畳に沿って参道を、どこに続くかは分からない先へと向かおうと踏み出した時、僕はある事を思い出した。そうマスクをしていなかった事に、あれほどまでにマスクを外した事を悔いて気持ちを荒々しくさせていたと言うのに、肝心のマスクをかけなおすのを忘れていたのだから最早茶番に近い。
 しかし慌てて伸ばした手の先にマスクは無かった、左耳からつるさっているはずのマスクは姿を消していたのだ。首の方に回ってしまったのかと手を向けてもぶつかる物は何もない、ただ空を切るだけであって花粉を含んだ空気をかき混ぜるだけだった。
「はっ…はっぐしょん…っ、うぅ…マスクどこに行った…っ」
 目すらもどこかかゆい、そんな感覚すら抱ける中で僕は絶望的な気持ちに落ちていく。先ほどの様な憤りではなかった、絶望であった。今度は明らかに己が悪い事が明白であった、だから改めて悔やんだのは言うまでも無い。そして神社に対して八つ当たりした事も少しばかり後悔した時、僕は何かに気が付いた。
 そう何か「見られている」のだ、それはどこからかは分からず、どこか気味が悪い。気のせいであるならそれに越したことは無い、だからそうと証明しようと僕は視線を辺りに、前、横そして後ろと走らせる。だが一度ではそれは解消されなかった、更に視線を辺りに体と共に向けてようやく見出したのは僕以外の誰かがこの境内にいると言う事。そしてその姿が見えていて、こちらを見つめている姿の一部である腕が見覚えのあり、そして探している物を握っている、明らかにマスクがその手中にある、この2点が確実な事だった。

「…どうも、すみません」
「良いのよ、気にしないで、ね」
 しばらくした時、僕はその神社の境内の中にまだ居座っていた。居座っていたと言うよりも誘われたから、と言えるだろう。どうやら人の気配が見当たらないと思っていたのは、あくまでも僕の思い過ごしであった様で、今、一緒に居るのはこの神社を管理している者、と名乗る人物であった。
 それは女性だった、神社を管理する、と言っても巫女服とかの類を身に着けている訳ではない。ただ普段着を身に纏っているという具合の彼女は特段に美しいとかそう言うものはなかったものの、何故だか言葉を交わしているとそのまま首を縦に振ってしまう、あるいは振りたくなってしまう気配を伴っている存在だった。
 だから今、僕はそのご好意に甘えている、と言えるだろう。すっかり花粉に塗れてどうしようもなくなってしまった僕を見た彼女は、時間があるのならば顔を洗う、必要なら体を洗うのに社務所の中、それが彼女の住まいなのだが、そこにある風呂場を使って良いと向こうから口にしてきた。
 それは僕からすると正に晴天の霹靂、と言うのは言い過ぎだとしても思ってもいない言葉だった。初めて会ってのいきなりの一言がそれなのだから、若し普段の調子であれば辞退した事だろう。しかしその時は断れなかった、それは余りに花粉を吸い込んで苦しかったからこそ、経験から一縷の望みを見出していたと言う事、何より前述した彼女の気配にすっかり魅了されてしまっていたからかもしれない。
 そんな具合だから今、僕は社務所の中で貸してもらった薄い衣服を身に纏って彼女と机、いわゆる卓袱台を挟んで向かい合っては言葉を交わしている。薄い、と言うと語弊があるかもしれないが浴衣の様な物で、こう言った衣服と普段接する事の少ない身としては、それはもう落ち着く様で落ち着かない、そんな心地である。
「いやぁ、本当に…」
 お茶を用意して淹れている彼女に対して改めて感謝の念を述べる、本当に体は楽になっていた。体、と書いたからにはただ顔を洗っただけでは済ませられなかった次第で、ちゃんと湯船にまで浸かってしまったのである。正直な所、己でもそこまで甘えてしまうのが不思議で仕方なかった。だが幾ら遠慮しようと思っていても、その言葉に押されて、あるいは囲まれて示されてしまうとその様な気持ちはどこへやら、正に「素直」に受け入れてしまうしか出来なくなってしまうのだ。
 わざわざ繰返す様にそう書くのはまたもそうなっていたからでしかない、お茶で終わるはずが夕飯の段取りがついて、更には泊まると言う話まで持ち出されてしまった故の事。僕は一瞬全てに同意しかけた、しかしどこかでかかったブレーキで1つだけは何とか固辞する、そう宿泊していくのだけは何とか遠慮するのを死守した、そう言う次第であった。
「そう、折角だからしていけばと思ったのに…夜の風はまだ冷たいわよ」
「いや、でも急ですし…それに近所ですから、大丈夫です。それに夕飯まで頂戴しているのですからこれ以上は…」
 最後は正に言いかける、と言う具合で途切れさせた言葉。それでようやく女性は、彼女は納得した。そしてほんの少しの間をおいて、新たな問いかけを彼女は僕にぶつけてきた。
「名前ですか?」
「ええ、良ければ教えて下さらない?私は布佐果子、そしてこの神社の名前は布佐稲葉宮。私は代々この神社を護っている、その1人ね」
   「僕は田平苗史、と言います」
 先に自ら明かした彼女に従う様に僕も名乗る、すると始まったのはどういう漢字なのか、何か意味があるのか聞いているか、とその辺りを一通り聞かれる事だった。それに関しては僕は聞かれるがままに答えた、としか言えない。特に反応が大きかったのは、どう言う意味を込めて名づけられたのかはと言うところだろう。次いで日頃、僕がどうその名前に対して思っているのか、と言う点であった。
 だから僕はすっと答える、悪くは無い名前ではあると思う、でもちょっと男っぽくはない名前と言う印象も抱いている、そんな具合に述べれば、なるほどとの相槌を返してこちらを彼女は、果子と呼んで欲しいと言って来たので果子はじっと見つめてくる、それが印象的なものだった。

 結局、その社務所を後にしたのは18時を回った辺りだった。普段の生活リズムからするとそれは何とも早めの夕飯を共にしてからの事で、僕はもと来た道をたどって家にのんびりと歩いて帰り着いたものだった。
「ただいまー…って、そうだ、今日はみんな留守だったなぁ」
 帰宅してふと気付いたのはそれである、今日は己以外の家族は何がしかの用事で家を空けていると言う事を今になって思い出したそんな次第。
(となると…果子さんに夕飯を食べさせてもらったのは結構助かったな、偶然だけど買い物とか行く手間が省けたし)
 それは結果として、ではあるが強い実感であった。事実、仮に夕飯も辞退して帰ってきたなら、今頃ようやく夕飯を買い物から戻って作り出している頃だろう。それを踏まえると果子さんによる夕飯、言ってみれば心遣いは大いにありがたいものであった、と言う事になる。
(今度お礼しないとなぁ…助かったもの、鼻の調子もあれ以来調子がいいし…?)
 ふと振り返りつつ僕は口元へと手をやった。そして軽く口の周りと鼻を手の平で拭い、ふっと一息を吐いて漏らす。小さな疑問符を浮かべたのはちょうどその瞬間だった、何かが足りない、していない様な気がした。しかし何故だか、それを思い出す事は出来ぬ内に僕は大きく体を伸ばしての欠伸に心地よい疲労感を感じていた。
 続


狐姫の玩弄草子・第四話
小説一覧へ戻る