狐姫の玩弄草紙・眠れない夜・中編 冬風 狐作
「この山には狐の姫さんが住んでいるからなぁ、ごみとか捨てちゃ駄目だぞ」
そんな言葉を僕は木の葉を踏みしめる音の中に思い出す、それは小さい頃からふとした折々に親や近所の人から言い聞かされていたものだった。
 「この山」と言うのは僕の住んでいる地区の中にある、こんもりとした「丘」と言った方がふさわしいのではないかと思える場所だった。少なくとも地図上に「山」を示す記号で記される事は無いから、公式には山ではないのだろう。だが地域では古くから「山」と言われていたものだし、誰もがそう呼ぶので自然と、それはこの土地で生まれた子供から新たに引っ越してきた人々に至るまで幅広く、何時の間にか自然のままに「山」と認識し、口にするそう言う存在であったのである。
 最もそう認識こそされていても、普段から常に意識する様な存在とまではなっていなかった。しかし大人達が冒頭の言葉を口にするのと同様、ふと見上げればそこに見えるものだからある種の目印とはなっていたのだろう。確かにその山を目印にしてあの子の家はどの辺りとか、その子の家はあの辺りと認識していたものであるし、何よりも色々と疲れたりした時にその姿を見ると何だかほっとして、少しでも前に進めるそう言う心地、つまり安心感を与えてくれる存在であったとも言える。
 最もこれまで立ち入った事は無かった。立ち入る用もなかったからと言えるが、大人達にかくも言い聞かされていると自然と入ろうとの意識は抱かなくなるもので、気が付けば生まれてこの方十余年は住んでいると言うのにその中は全く未知の世界のままであった。事ある毎にふと視界の中に入ってくる回数、そして四季の移り変わりでどの様に彩を変えていくのかある程度覚えてしまったのとは対照的なまでに、全く知らぬままだった。
 最もそれはあくまでも僕にとっての話である、と断っておかなければならない。今でも時折付き合いのある幼馴染の友人達の多くは立ち入った事があると言うものだし、結構山の中は色々とあって楽しい、と言う評判だった。何が楽しいのかと言うとそれは子供の時分に入ったものだから、と応える者もいれば日頃、あの様な自然の中に入ることが無いからその分、そう感じるのだろう、と返される時もある。
 とにかくそこは禁忌の、決して立ち入りが許されていない山ではなかった。そうであるならどうして舗装された道路が尽きた辺りから、すっと1人が踏み分けた程度の大きさの道が山の茂みの中へと続いているのだろうか。
 よってそれ等の事情を踏まえれば、僕が立ち入らなかった理由はただひとつ、入ろうと言う関心が無かった、今すぐにしなくても大丈夫、何時でも入れるだろう、そう言う意識の現われであったとしか思えない。決して何か禁忌の意識を抱いていたとかそう言う事ではない、ある意味では単純明快な程好い無関心によって立ち入っていない、と言えるのだ。

 よって先ほどからこうして、つまり木の葉を踏みしめつつ、山道を歩んでいるのはいよいよその気になったからだった。今、僕はようやく山へと立ち入ったのだ、理由はこれもまた単純に暇であったから。ふと生じたしばらくの暇な時間をどう過ごそうか思案していた中でふと眺めた窓からの景色、その中に何時もと変わらぬ姿でたたずんでいる「山」を見た途端、その考えが浮かんだという次第であった。よってすっかり気楽な暇つぶしに過ぎず、故に姿も室内着そのままにスニーカーをはいた程度であった。
 最も口にはマスクをしている、これはこの季節だからこその、花粉症対策故の物だった。息を吐く度に眼鏡のレンズがわずかに曇るのは仕方ない、しかしだからと言ってマスクを外す訳にも行かない所であるし、鼻水で苦しむのを考えればずっと楽なのは確かであるから着用していると言う訳である。
 その山道、それは本当の意味での山道と比較したらどうと言うことはない道であろうが、舗装されて整えられた道路に慣れている体にとっては必ずしも楽ではない。未舗装で路面が整ってないばかりか、急に緩くなったりきつくなったりの九十九折を伴っているきつい勾配、本来であれば足が置かれるであろう場所に水が流れて生じた洗堀の傷跡は、ただでさえ歩き慣れていない道を、完全なまでに歩き難い道へと変えていたと言う次第でどうしようもなかったのである。
 それでも段々と歩いている内に慣れて来るもので、今は平地を歩いている以上に吐く息でより眼鏡を曇らせつつも、ある程度のバランスを取って軽快に登れる様になっていた。木の葉を踏みしめる音が響くのもそれだからである、道の端はすっかり落葉で埋め尽くされていた。そしてそれはまだ淡い新緑以上に山を彩る物となっていたものであって、外から眺めて見える緑色の一定の重みのある姿とは対照的な、茶色でしかし明るく軽い、そう言う世界であったと言えよう。
「意外と…長いなこの道っ」
 ようやく得られた軽快さに押されて得られた一定の速度に声すらもどこか調子を合わせていく。明らかに弾んだ声を漏らしながらもう幾つ目かは分からない九十九折を超えた時、僕は不意に目の前が開けるのを見た。
 開けた、つまりより明るくなったその先はこれまでの山の姿とは対照的に登るのではなく凹んだ姿だった。つまり足はそこから先に進むには下らなければならない訳で、道も傾斜の変化に合わせて古びてはいるが、ある程度整えられた石段へと姿を変えていた。
 僕が思わず立ち止まったのも、最も石段の最初の一段目に足を下ろしたところで止まったのはその変容に驚いたからである。一体何事かと思って振り返ると僕はある事に気が付いた、そうこの石段の手前のまだ登ってくる道、それがほんの少し手前でこちら側と更に山へと登っていく道に分岐していたのである。
 登ってくる勢いの余りそれに気付かずに通り過ぎてしまった訳であったが、歩んできてしまった道に対して更に山へと続く道はより細く、荒れているを通り越して自然に半ば帰った様な姿になっていた。そして見える限りではまだまだ険しそうだった、だからこそ進んでみたいと思う一方でふとした醒めた見方、登ったところで一体何があるのだろう、との見方の前に戻って登り続けようと言う気持ちは余り優勢ではなかった。むしろ進むなら不意に現れた石段を下ってみよう、との気持ちが強かった訳でしばらく立ち止まりつつ、僕は改めて石段の始まりへと戻り下っていく先を見つめる。
 石段はそう長いものではない、しかし石段が尽きたからと言ってすぐに平地になるのではなく、しばらくはまた緩い傾斜が続いてそのまますっと平地になると言う具合。またその場所自体が大きなくぼ地であって、更に幾らかの建物が立ち並んでいるのを眺める事が出来る、そしてそれは一般の住宅ではなかった、何れも木造で屋根は緑青の浮いた銅で葺かれている、緑青の色合いの濃さからすっかり古びているものであるのがうかがえたが崩れてはないし、少なくとも建物としての形状を保って機能しているのが素人目にも見えてくる。
 しかし人がいるとかそう言う気配はなかった、だがその建物の用途は人に聞かずとも分かる。つまり神社であろう、そうであるならこの様な立地も納得出来るものである。一般の住宅とは違う様子であるのも当然と言うところであろうし、人の気配が無いのもまた然りなのだ。
「ま…お参りくらいしていこうかな、折角来たし」
 正直、この神社の存在を僕は知らなかった。あの「山」にあるのは違いないだろうから、幾ら山の向こう側であるとしても自宅からそう遠い場所ではない。つまり住んでいる地域の中にあるはずである。だが僕は知らなかった、そしてそれは山の事を良く知らなかったから、とほぼ同意義であろうとつながっていく。見てはいたけど知らない山の中に知らないものが更にあった、これは僕の気持ちを大いに刺激するものだった。
 だから石段を駆け足で降りて、社の前の石畳にさっと姿を移す。手水場を見るとそこには清んだ水が湛えられていたので、掲示されている作法通りに身を清めていく。左手にかけ右手にかけそして左の手の平に載せた水で、そう口を漱がなくてはならない。流石に口の中に水を入れようとは思わなかったものの、唇程度は塗らしておこうとする。
 その際に邪魔になるのがマスクだった、流石にマスクを水に浸してその代わりにしようとは浮かばない。だから僕は柄杓を掴んでいた手を少しばかり慎重に操ってマスクを外す、久々に外気と触れた唇、何より鼻の下の辺りからふとしたくすぐったさを外気との接触によって感じさせられる。結果として片耳から垂らす格好になったマスクを濡らさない様に改めて注意しつつ、水で唇を湿らすとあとはもう一度左手に水をかけるまでだった。
 だがそのマスクを僕はすぐにかけ直しはしなかった、まず最もかけ直すのに使うに適当な右手が柄杓を掴んだままであったからだろう。よって柄杓を、その柄を濡らしてから元の位置へと戻すのが先になる。そして次はマスクを、と言う時だった、ふとした風が吹いてきた。それを受けた途端、僕は大きく身を捩じらせた。
 迂闊だった、山の中だから家の付近よりも花粉の濃度が濃いことがあると言うのをすっかり失念していたのを呪うしかなかった。つまりマスクをしていた事で防がれていて、マスクを外して多少吸い込んでも何とか問題の無かった、やや危ういバランスの上に保たれていた鼻の粘膜が、不意の風によって運ばれてきた高密度の花粉を吸い込んで一気に反応してしまったのである。
「ふぁ…ヴァックション…!」
 静かな境内に響く盛大なクシャミ、それは窪地となっている境内の中を幾度も反響しては消えて行った。


 続
狐姫の玩弄草子・眠れない夜・後編
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