狐姫の玩弄草紙・眠れない夜・前編 冬風 狐作
「うう、寝れない・・・」
 布団の中でそう漏らしたのは久々、ここ数日で見ると初めての事だった。思っただけ、と言うのを数えれば、およそ今晩だけで5回と言うところだろうか。それだけ僕は体がもう良いと目蓋を空けるまでの幾時間にも渡る空白の時間、即ち睡眠、中でも熟睡を欲して仕方なかった。
 しかし幾ら思って眠ろうと工夫をしても、その1つは姿勢を変えれば少しは良いのではないかと向きを変えた事だったが一向に眠れない。まるでそれは僕に睡眠は不要と体が言っているかの様でもある。しかしその度に僕は思う、ではどうして昼間に眠気を生じさせるのだと、そう悪態を心の中で己に対して突いては、ふとここ数日の生活を思い返して紛らわさんと言わんばかりに布団の中で体を二転三転させるのだった。
 こうなったのは恐らくここ数日、必要に迫られての話とは言え、夜を文字通り徹してひたすらキーボードを叩いていた生活が災いしたのはほぼ確実だった。そして昼間に休めるかとなればそう言う事はなく、提出するなりまた新たなものを受け取り、関連するやり取りを交わしながら頭を使ってから息つく暇も無く作業に耽る。そのサイクルは正に僕から体への鞭打ちであったに違いない、故にこの状況は本来のリズムを崩された体からのお返しなのではないだろうか。損なう、つまり体の要求を無視して本来のものではないリズムを押し付けた僕に対する体からの鞭打ちなのだろう。
「そんなに起きていたければ、起きていれば良い。しかし我々も休みたい時は好きな様に休ませてもらう」
 言葉にするならそんな所であろうか、とにかく今、ここで言えるのは寝たいとの僕の思いは体に完璧に無視されていると言う事。そしてすっかりそれに悩まされている、この2点である。それでも昨日や一昨日はこの果てないと思える攻防の末に、体の方がようやく折れてくれて気が付いた時には寝入った後、即ちカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる中で寝ぼけ眼をこすっていられたものだった。
 しかし今日は幾ら足掻いてもそうならない、とにかく眠れない、眠気の片鱗など皆無の内にいたずらに時間が浪費されて仕方ないのだ。改めて体の要求を言葉とするなら「今日くらいは起きていたらいかがです?何とかして起きていないと困るのでしょう?」と語尾に笑みの入った皮肉な形が浮かんでくる。
 それは残酷な物言いでしかない。だが冷静になって見れば己が体に対して要求していた中身を、一部入れ替えて投げ返されているものであるのは痛いほど良く分かる。だからこそ腹立たしくはあれど、上手く言い返して眠りへ無理やりにでも突っ込む事は許されないと言う以前に出来ない、そんな一種の自縄自縛的な効果を持ち合わせている代物だった。それは言葉の魔法、ある種の言霊と言う説明も可能かもしれない、だから埒が明かないのである。
 何より最悪なのは考えれば、むしろ意識すれば意識するほど確実に頭が冴えて行く事である。思えば思うほど、その大半は同じか限りなく似通った内容の反復に過ぎないのだが頭を使ってしまうのである。それでますます眠気を遠ざけているのだから、今の僕は腹立たしさと諦め、そしてある種の愚かさで満たされていたと言えるだろう。
 それを思うと当座を凌ぐ、とにかくこの無意味なかけあいの時間を終わらせる方法はただの1つしかない。そしてそれ自体は決して真新しいものではなかった。むしろ最初の頃から明確に分かっていたからこそ、それを了として今更受け入れる事に心理的な抵抗を抱けていただけだった。
 だからこそいざ受け入れてしまえば安定する、心が落ち着いて少しは気が楽になる事も同時に分かり切った事。とにかく何時それを僕が受け入れるか、そんなタイミングの問題でしかないからこそ僕は素直になれなかったと言えるだろう。どこかそれを受け入れてはまずい、そんな気にすらなっていたとも言えてしまえるほど不思議なものだった。

 結局それを受け入れ、了としたのはいたずらに1時間かそこらが経過していた辺りだった。その事を僕は視線を幾度も時計に向ける度に噛み締めつつ寝巻きを脱いで身支度へと入る。もう部屋にいられる気分ではなかった、それは結局寝るのを諦めたという事実以上に、このままこの部屋にいて何かを始めても、遠からずの内に眠気に襲われて途中で寝入ってしまう事、それもまた分かっているからこそ僕はそれを避けたかったのだ。
 この事は一見すると矛盾しているかもしれない、どうして先ほどまであれほど眠るのを欲していたと言うのに今度は眠るのを避けようとするのか、ときっと周りは思うだろう。その思いに対して僕のこだわりである、としか言えない。僕の中では一度ベットから起きた以上、もうその日の睡眠は終わったものでなくてはならなかったからこそその考えに照らすなら、この部屋に留まって再び眠りに落ちると言うのは耐え難い事であり何としても避けたいものであったのである。
 前述した僕の悪態、昼間に眠気が生じる事について悪態を突いていた背景も実はそれが理由だった。自ら睡眠のリズムを壊しておきながら、実は体でも何でもなく僕自身がしっかりとした時間に眠る事を最も欲している。その事実を分かっているからこそ、僕はあの様な矛盾した行動に出てしまい、そして折角生じようとしている眠気を消そうと言う行動、つまるところ外出である。まだ虫をも眠る深夜の街へと1人繰り出し、眠気を無理やりにも絶つのが大抵の対処法なのだった。
 とは言えただ、そう闇雲に歩き回るだけでは疲れる以外に何も得るものはない。朝に眠りに落ちるのを回避出来る以外は気分が悪いままであるし、何より何事においてもある程度の目処が付き、それをする事で得られる物があるのに勝るものはない。ではそれが僕にあるのか、と言われたら僕は自信を以って首を縦に振る事が出来る。そして同時にこうして夜の街へと繰り出すのだ、との理由を補強する材料としても使える、ふとした優れものでもあるのだった。
「ふう、冷えてるなぁっ」
 そんな理由を纏いつつ、一歩踏み出した玄関先は静かな冷たさをたたえる空気に満ちている。これも季節柄、当然の事とは言えその瞬間に体を震わせてしまう事だけは幾ら触れようとも早々に変えられるものではない。そう理屈抜きに寒いのだから、そうなると言えるのは仕方ないと言う事だけであった、そしてその様に構えるだけで苦痛は余り無くなり落ち着けるものだから不思議な物だった。
 更に二歩か三歩程度歩くだけであれほど外に出た瞬間、体の筋に染み入ってきた寒さをもう感じる事はなくなる。むしろ意識出来るのは己の肉体にある温かさである、それはふとした調和、寒さをも味方にしたかの様な不思議な感覚となっては足を前へと踏み立たせる原動力になる。同時に言い換えるならそれは立ち止まれば寒さに負ける事の裏返しだろう、そうなれば尚更酷い寒さの中にまた捕われるのを避けられないとどこかで分かっていたからこそ、僕は一度きびきびと動き出した後は、その限りにおいて背筋をピンッと張って寒さの中を突き進むしかなかった。

 僕の足は川沿いを行く道を進んでいた。前述した通り、寝れない事を紛らわすとは言え何の見当も無い当てずっぽうな外出ではない。ある種の目処、行く宛のある外出だからこそ人通りの全く無い明かりに乏しく、足元も舗装されているとは言え狭く老朽化したアスファルトだから所々に凹みがありつまずく事もままある道が目的地に至るからこそ、それを歩んでいるだけなのだ。
 そしてそれ等の普通の道から比較すると危うい状態、それはそれで良い、いわば道の個性でもあろう。何より星空が常に良く見える。それは満月の晩であってもそうであったし、今日は新月であったからより夜空は星の瞬きに包まれていた。
 川のせせらぎの音はある種の風だろう、夜空、空気、そして水、この3者をこの上なく感じられると言う条件で見るならば、ここは格好にして最高の場所なのだ。だからこそ僕は自然とこの道筋を選ぶ事が多い、そしてすっかりそれに染まっている内に目的地へとつながる角を通り過ぎてしまうのもまたしばしばなのだった。
「やあ今日も来たのか」
「今日もって、3日ぶりだよ」
「おやそうだったかな、まぁとにかく今日も一旦曲がる所を通り過ぎて戻ってきただろう」
 その場所に立ち入るなり飛んできた言葉とのやり取りの始まりがそれだった、僕は微笑をその言葉を耳にした途端浮かべざるを得ない。そして今しがたやらかした事、即ち今日もまた角を通り過ぎて踵を返して曲がるべき場所に戻ってきた、その事を指摘されると曖昧さがその上に加味される。その間に足は土よりも冷え切った石畳の上に進んでいた、そしてその前に控えている石段を前にしたところでふと足を止めて一礼を前にする。
「まっお前さんが来ると姫も喜ぶからね。ほら早く行ってやりなよ」
 頭を戻したところで飛んできた言葉が1つ、それは先ほどまでの声とは違うものだった。笑い声、と呼べる独特の抑揚を有した高い声で、同時に何かをあやす、そんな響きも含まれた物。それに対しても僕は微笑みで返すと石段を登り、そして履物を脱いで揃えたら1つ手を伸ばして、目の前にある格子の引き手を横に引く。
 するとどうだろう、途端に僕の背中から前に向かって風が流れる様な感覚がふと生じる。そしてすぐにそれは事実であるのを僕は知る、言ってみれば風に押される様に足が再び動き出すと後は、そう風に乗っかったかの様に瞬く間に格子の奥、より暗い空間へと体は吸い込まれていった。

 飲み込まれていくその感覚は次第に変わっていく、言ってみればそれは外部的から内部的になるものでいつの間にかその風の流れはそのまま僕の体の動きとなっていた。そう風の一部になったと言えるだろうか、風の内包する細やかな流れ、ただ一方向に常に流れるのではない波乱さ、それがどこにあるのか今の僕にはふと思えば分かる。
 全身の感覚が鋭敏になったからと言えるだろう、特に表面にあたる表皮、そこから感じられる情報は格段に増えていく。

 皮膚とは感覚器官である、外部からの刺激を感知するある種のアンテナと言えるだろう。最も人間のそれが鋭敏かどうかは必ずしも言えない、少なくとも直接触れられる以外の刺激とは余り感じられたものではなかろう。まず風の流れがそうであろう、一応ある方向から吹いている事、それが分かる程度であってそれ以上は風の流れが弱ければ弱いほど不明ではなかろうか。少なくともある程度まとまった流れでないと感知出来ない、そう言うところがある。
 しかし今の僕はそうではない、表皮は無数の感覚器官に、アンテナに変わったと言える。それは極めて鋭敏で、そして繰り返す様だが無数にある。言わばその集合体に表皮は変わっていたと言えて、また体もそれだけの感覚器官を有するに相応しい体躯へと変わるのを僕はもう分かっていた。歩を進める度に変わっていくのが分かって仕方なかった。
 それは鱗だった。表皮は細かく分かれた薄くしなやか、しかし弾力と言うよりもある種の硬さを備えた代物である。それに僕はすっかり全身を覆われていた、体毛と言うのはほとんど無くなっていたし残っているのは頭部だけであろう。最もその頭部の髪も頭髪と言えるかは疑わしい、何故なら頭部だけを覆うのではなく背筋へとつながる首筋に沿って一定の長さと形に整ってしまっているからだろう。それは鬣と言うに相応しく、鱗と同じく程度の差はあるが同様な特質を持ち合わせている。
 もしこれだけの変化であるなら僕の姿は何なのだろう、ある意味のAlienとして、全く以って馴染みの無い姿であろうとしか言えない。だがそうであるばすが無いのもまた当然なところでその変わった表面と釣り合いを取らん、と言わんばかりに尾てい骨から伸びた背骨をかくとして太く長い尻尾が背中の後に踊っている。のた体の表側、詳しく書くなら下顎から首、胸、腹、股間、そして膝の辺りまでの大腿部は白い鱗とは違う大きな単位で横に区切られた薄く色の強い色に染まった肌、いわゆる蛇腹と化していた。
 その蛇腹に覆われた箇所を中心として大腿部や胸、腕は一回りかそれ以上に太くなっていた。それは締まった筋肉であり無駄は一切見当たらない、全てが端整で細身を基調とした肉体へと変わっていた。そこに似合う言葉を探すならそれは体躯であろう、その表現を正に使うべきだろう。そう強く言えてしまえる肉体にある指先の爪も細く鋭い、そして最後に見上げた顔はそれらを全て備えている事を誇らんと言わんばかりの自信に満ちていた。
 前に突き出た顎、即ちマズルと化した口は上顎の先端に目立つ大きな鼻を載せている。そしてその後に続けと言わんばかりにある髭は揺ら揺らと靡いては、どことない余裕を僕の周りに漂わせていた。
 その中ではっきりと盛り上がった鼻から前頭部に至る筋は、形としてのある種の硬さを体現していると言えるだろう。筋の果てる奥にある深彫りの中に湛えられた眼光は今にもあふれ出さんと言わんばかりの、瞳の形をした泉であろう。それはその体躯の中に秘められた力の漏れ出でる場所で、言うなれば紺碧の海に浮かぶ火山であろうか。
 とにかくその顔は全身にある特徴を集約しているとしても過言ではなかろう。こめかみから伸びた幾重にも先端の分かれた角で風を感じる、いや今やすっかり操りつると自覚するに至った時、その足は止まった。またそこには引き手の付いた扉、襖が存在していたのだから。そして僕は手を伸ばすなり静かにそれを引く、ふとした安堵の息と共に引くのみだった。

「あらいらっしゃい、今日も血が騒いでるの?」
 待ち構えていた、とでも言わんかの様な響きを持った声の主は目の前の布団の上に寝転がる姿勢でこちらを見つめていた。
「・・・眠れないだけですよ、何かこう・・・ね」
 ほんの少し声のトーンを変えて僕は応じて目を細める。目の前にいるのはふっさりとした尻尾をゆらゆらとさせている存在、曰く妖狐と言われ、あるいは神の使いとも言われるその存在の齢は僕をはるかに上回る。最も鮮やかな暖色系の衣を身にまとったその姿からはその様な気配は微塵も感じられない、むしろ僕よりずっと年下に見えて仕方ない姿に今でもふとした戸惑いを覚えてしまっている。
 そんな彼女と僕の関係は何なのだろう、言ってれば友達。それも彼女の方から声をかけてきた、そう言う関係であって僕が彼女に引っ張られて行く事が多いのを考えるとどこかしら恋人的でもある、そんな友達関係なのだった。
「ふうん、そうなんだ。じゃあまた1つお願いしようかな、有り余っている力を発散出来るお仕事を、ね」
「だから眠れないだけですって、もう」
 軽く欠伸をしながら起き上がった彼女の口に苦笑をすっと返す、僕はとにかく眠たいのに眠れないのだから、と言う意味合いを込めて返したのだがどうやらそれはすっかり無視されたらしい。全く表情を変える事無しに彼女の返してきた一言はそれを示すと共に彼女らしい、妖狐らしいものであった。
「ふふ、あなたの眠れない原因はそれかもしれないわよ、どうするのかな?」
 その声の響きには不思議な魔力と言うべきだろうか、その様な物が良く纏われている。そしてそれを耳にするとなぜだかその気に、彼女の言う通りではないかと言う気を抱かされてしまうのは流石、齢を、つまり経験を重ねた妖狐と言えるところであろう。それだけ彼女は上手かった、だからこそそれがわかっていると言うのに僕の頭のどこかはもうそうではないか、と言うある種の期待に早速染まっていく。そうすれば落ち着く、今回の場合は眠りに就けるのではないか、との期待が振り子の様に考えの中で巡ってはしばらくの躊躇の後、僕は結局、首を縦に振っていた。


 続
狐姫の玩弄草紙・眠れない夜・中編
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