「ようやくさね・・・」
「うん・・・そうね、け・・・いやあなた」
所変わってある一室の中、洋間で簡単な家具と立派なベッドがある部屋にまたしても2つの声が響いていた。最もその声には若々しさが満ちていて、そして陽気さとは違う意味でのもっと強い幸福感、その様な物がまとわれている。
「何をあなたなんて言うんさ・・・名前で良いんさ、これまで通り」
そう言って男はすっと女の掌に手を重ねた、その瞬間、女の顔が強く綻んだのは言うまでもない。
「でも、私達結婚したでしょ。だから何かそう言った方が良いのかなって・・・」
男の余裕そうな態度に対し女の方はまた少しばかり解けていない、つまり緊張あるいは高揚感だろうか。そう言った平常心とは違う位置に付けている感情によって、素直になり切れていないのをうかがわせるものがある。
「なるほどな、本当真面目なんだなぁ。でもさ、今まで通りで俺は良いんさ。お前がそばにいてくれてずっと・・・でさ」
そう呟いては彼はますます掌を強く握ってしまう、それがどれほど彼女に影響を及ぼした事であろうか。その本心と言うのは外から明確にうかがい知る事は出来ないが、とにかくはもう数年間交際して今日、つい先ほど大勢の人の前で祝福されて結ばれた身と言う事から見れば、この上ない心強さと安堵となったのだろう。
少なくともその祝福された席と言うのは大変強い記憶とした残ったのは言うまでもない、十分に構えたつもりであった彼女とその家であったが彼とその家、いや一族郎党はもっと厚く構えていて世が世ならそれこそ格の違いと言う表現がより実感を伴って感じられたのではないだろうか。
しかしそれはそう見ればと言う話、少なくともその様な差こそはあれその祝いぶり、そして歓迎振りと言うのは彼女を送り出す家の方には物凄い心強さを与えたものだった。この相手なら、そしてこの環境であれば娘を無事に送り出せると、いきなり娘から切り出された話に引きずられる様にしてついて行く格好となった、その実家に与えられた最後の段階での大きな贈り物であったと言っても過言ではない。
とにかくこの2人の結婚と言うのは大変円満で結ばれた、文字通り非の打ち所のない出来具合だったのだから。そしてそれも終わって数時間、2人だけとなった時間を今こうして噛み締めている最中だった。
「さて・・・最後の仕上げをしないか?」
そのやり取りからしばらくの時間が更に経過してから、再び彼が言葉を口にした。今度は互いの顔同士を向け合って目を見つつ、むしろ彼の方が少しばかり気を引き締めていると言う具合である。
「仕上げ、ええ・・・本当なのよね。」
「ああ本当さ、あの席でもお前とお前の一家以外は皆・・・さ。」
その後に生じたのはわずかな沈黙だった、再びある程度まで気を張ると彼女から始まる。
「皆・・・」
「そうさ、幾人か違うが・・・まぁ皆楽しんでいたんさ。」
「なるほどね、そしてそこに嫁入りした私も・・・でしょう?」
「その通りなんさ」
彼は力強く頷いた、それを見て彼女はふと溜息を吐き視線をわずかにそらした。それが彼の動揺を強く誘ったのは言うまでもなく、すぐさまに少しばかり調子を乱した声が言葉が続いていく。
「嫌なのか?でもさ、もう君は僕と結婚してしまったん・・・さ、そりゃ普通じゃないと思う。でもこれは」
「何を慌ててるの?もう、勝手に判断しないでよ。私はもう心に決めてるんだから、ね?きつねさん・・・」
遮る様な彼女の声を聞いて、ようやく彼は自分が取り乱していた事に気が付いた。そしてもう1つの事から、それ故に自らがその体の一部を元の姿としている事に気が付いたのだ。
「あぁ・・・ちょっともうそんなに揉まない・・・」
そう耳、つい先ほどまでは髪の中に隠れているものと思われていた耳が外に姿を見せていた。ただその位置が頭の頭蓋骨の上とも言える辺りで、更には正面から見れば三角形の正面、そこが深く沈んだ三角錐に近い形をした白と黄とこげ茶色の3色によって彩られた耳が、ぴくぴくと掴む彼女の手の平の中で揺れていた。
「もう急に甘い声出して・・・かわいいんだから」
人では明らかに有り得ない耳が生えていると言うのに、彼女は先ほどと比較すると大変落ち着いていて、むしろ優位とでも言える気配を強く表に示していた。対する彼は目をすっかり閉じてき顎を上向きにし、ほんの少し唇を開けているその姿は、ある獣の仕草を一通り観察した事がある人であれば、正にその通りであると浮かべるのが容易に想像出来るものだろう。
「うう、嬉しいけど・・・半端じゃ嫌さ・・・っ」
そう言うなりその体がほんの少し痙攣するなり、彼女は手を離し、彼は慣れた手つきでそのまとっている服。特に上着のボタンを外して脱いだ勢いで、露となったその皮膚はすぐに白く、ついであの耳と同じ3色とより強い白の4色で構成された全体として、特に胸元や首筋の豊かさが顕著な毛となってその体を覆っていく。
同時に起きたのはその体、肉体その物の変化であろう。くっと顎を上げて首を伸ばすなりその鼻面が前へと突き出る、首から続いているはっきりとこれとは言えないものの、大きく見ればあるのが見える一筋を維持しつつかつ明確にしながら伸びる鼻面、その下の上下の顎は明らかに人ではない顔へとその顔を仕立てていた。
突き出た口元からは唇に近しい物が内へと消え、すっかりとその際まで白と焦げた黄の獣毛とに覆われ行く。鼻腔の辺りは小さくなったかと思えば、黒いプルーンの様に変色して独特の細かなシワと強い湿り気を帯びるようになっていた。上下どちらの顎にも一定の長い髭がそれぞれ明後日の方向へ向かう様に生え揃えば、筆でスッと一本線を引いたかの様に閉じられた目蓋が開き茶色の大きな眼が眼光を放っている。
そんな狐の顔となった彼がそこにはいた、じっと彼女を見つめるその顔よりふとした幼さと緊張振りを感じ取れてしまうのは気のせいだろうか?
「本当のあなたの顔・・・か」
そして戸惑う事無くその顔を彼女は撫でた。まずは耳の間、そして首元へとさっと進められていく手に対して示される反応はと言えば、喉を軽く唸らせつつすりすりとその腕に顔を擦り付けていると言う、強い至福に満ちた上で目を極めて細めていると言う顔、即ちキツネの顔なのだった。