一言で示すならば詠唱である、漢語調の響きがぐるぐると目を閉じて真っ暗になっている認識の中を踊り出す。途端に何だろう、全身が強張る印象を受けた。筋肉に骨に、それ等が一体となって体の重心側に引かれていく、そんな感覚を抱ける時には幾らか呼吸も苦しくなってきた。その内に脂汗の気配すらも感じてしまいつつ、何とか大きく息を吐ききったが早いか否かとの勢いで、口が塞がれた。それは外からの力、即ち彼の手によるものは明らかだった。
詠唱はなおも続く、わずかに出た疑問や迷いもその内に封じ込まれて同化していく。全身は全てが強い力で引き寄せられていき、それに伴い手足や胸と言った特徴が消失していくかの様だった。そう目には見えねども感覚の消失として彼女は感じ、ある一点までその流れが極まった後は幾らかの膨張をしていく、そんな変化への認識だけを何とか維持するので彼女は精一杯になっていた。
外からの、つまり彼の視点から見るとそれはよりはっきり説明出来るだろう。即ち、彼女が感じていた通り、その体の特徴は消失してヒトのサイズの縦長の棒状の姿に収束していたのだから。更にそれはより縮んでいく、長さこそ当初は彼女の身長に相当するものがあったが、それすらも詠唱の内に短くなって、ものの数分もする頃には彼の両手の内に握られている丸い棒とすっかり化していた。
人が棒に変わる、そんな事は狐の顔をした彼の前では起きて当然なのだろう。
そしてその棒を彼は熱心に擦り出す、当然、幾らか調子の異なる詠唱を重ねつつ摩擦による熱を幾らか与えたら、今度は独りでに棒が変形を始める。まず現れたのは持ち手だった、丸く太くと棒の下部の方が白木を思わせる持ち手に変わったなら、半ばより上は幾らかの細さを伴い枝分かれしていく。とは言え文字通りにではなく、片側に現れた2ヶ所の突起がそのまま同じ長さへと伸びていく、ただそれだけではある。
細く、ふたつの突起が直角に生じた部分の色は真っ赤な色をしていた。それは持ち手の下に現れた紐と同じくとなっており、そこでようやく彼は詠唱を止めて大きく息を吐いた。目の前にいた彼女の姿はもうない、ただその手の内には両の掌で抱えられるサイズの白きと赤で彩られた金属からなる道具があるだけで、ただ彼は鍵だね、とまず呟いた。
「鍵か、君は。本当は交際中にこうしなきゃならなかった、そうして私達の気に、あるいは意の受け皿となる経験を経てから祝宴とせねばならなかったのだけど、前後してごめんね」
先ほどまでの熱の入った口調はどこへやら、冷静さを多分に含んだ解説調の独り言―もし聞いているならば、それはその鍵であろうが、をしばし続けた後、どこからか取り出してきた容れ物へと彼は収める。もし彼女が言葉を発せられるならこう言ったであろう、あ、祝宴の最中の儀式で出て来たものじゃない、と。
そう、その通りであった。先に触れた彼の親族が執り行った儀式に際して、現れた中身のない筒状の鍵入れ。一体何の意味があるのか、彼女はその時こそ分からぬままであったが、今こうして自ら変じた鍵となる事でその意味を知れた、と言えるだろう。
「ま、そう長くはないと思うけど、しばらくはこの姿で一緒に過ごそうね。大丈夫、全うしたら戻れるからね、僕の大事なお嫁さん」
彼は頬ずりをしながら鍵となった彼女の入った鍵箱につぶやいた、前後して、しかしやらねばならぬ必要な事。それを分かっているからこそ、しばらくしたら彼は一仕事終えたと言った態で大きく息を吐いては、身を休むに任せていく。勿論、その傍らには鍵箱を伴って意識をまどろみの内へと沈めたのは違いなかった。
「やれやれ、ようやく整った様だねぇ、あのふたりは」
「前後したっていうけど、まぁ整えば良いのですよ」
それはまた幾度か満月が巡った頃だった、酒に肴を挟んで向き合いながらの会話がふと聞こえてくる。
「少子高齢化、とはよく言ったもんで我々も他人事ではありませんからな」
「結ばれねば始まりませぬからのう、だから浮足立ってしまって申し訳ない事をしたが…なに、久々に白狐だそうで」
「それは実に吉祥で、互いに想い合いが、情が深くなければ人より白狐が生じるは中々難しいですからなぁ」
「鍵を経て目覚めたる白狐、中々にかかあ天下だそうで、実に平和でしょう」
「如何にも如何にも、ささ、もう一杯を祝杯として奉げますか」
「はは、口実はともかく乾杯!」
そこは夜風が程よく吹き抜ける街中。時間も時間なだけあって人家の窓から漏れる光も少ない内に、気付く人の耳には届くやり取りがあったと言う、そんな婚姻譚の後日談。実に吉祥かな吉祥かなと続いたとまた聞く耳は大きく動く、白き毛並みの内を真っ赤に染めたる白狐と続けるばかり。