狐の嫁入り異聞・後編冬風 狐作
「ささ、次は次はって…まだ私は人間のままなのよ?」
「ああ急かしてごめん。でも待ちきれないの、さ」
 目の前に相対して、特に鼻を重ねる様にしながら2人は言葉をまだしばらく交わし続けていた。片や人の、片や黒く良く湿った狐のそれは実に対照的で、良く描かれがちな展開であるならば後者が前者に寄っていく、となるのがお約束なものだろう。
 しかしここでの2人は違う、前者がこれから後者へと染まっていく、その機会を巡って想い合いつつ探り合う、正にその真っ最中なのだから。
「本当、ここまで強く想われたのって振り返ってみると思い当たらないわよ…本当、ね」
 彼が狐の顔、即ち普段はヒトに化けている妖の流れを汲む存在に戻ってからもうそれなりに時間が経過していた。その間、彼女は彼からもたらされる明らかに人とは異なる臭気を良く、脳に肺の奥底まで染み渡らせながら、時に頬をべろりと長く厚い舌で唾液まみれにされながら、どうすれば最後の、先ほどの祝宴、更に言うならばその前に経た交際の過程からの集大成たる自らの変化は叶うのだろう、と疑問符を巡らせていた。
 恐らく、それ自体は彼女よりも彼が知っているはずだった。それは祝宴に際して接した彼の親族―即ち、狐の妖属たる面々より聞かされた話でも確かなはず、だからこそと待っていたのだが一向にそれが披露される気配がないのにどうした事か、と困惑の色をやや見せ始めていたのは違いなかった。
「うーん、そのどうすれば良いんだっけ…?」
 意を決して彼女は彼に問いかける。ここから先が求められている答えが分かっているからこそのそれに彼は一拍置く、あれだけ饒舌に熱を入れていたのが嘘かの様にしゅんと冷め、ハッとしたかの様な目付きになって、一言返してくる。
「え、そうなの?」
「あれ、伝わってなかったの?」
 途端に広がるのは互いに想定だにしていなかった、とする感情だった。そして思わず笑いが漏れてしまう、それは楽しいと言うよりもそんな馬鹿な、との意味が強い失笑の色が濃いものだった。
「本当、あなたのご親族からはそう言われていたんだけど、違うんだ?」
「ああ、それじゃあそうだね…だってさ、純粋な人からの嫁入りなんて久々だし、多分昔のノリで言ってしまったんだと思う」
「じゃあ今まで急かしていたのは何だったの?早く早くって?」
 とにかく分かったのは今すぐに彼と同じ姿、つまり狐になるのは出来ないとの事だった。どうしてか、との問いかけに対し彼はこう説明する。
 曰く、本来ならば交際期間中に済ませ置かねばならない事があった。しかし今回の話が思ったよりも早く彼の一族の側に知れ渡ってしまい、久々にもたらされた折角の機会なんだからと皆して浮足立っての準備だけが進んでしまい、祝宴が大幅に速く催されてしまったのだ、と。
「ごめん、ちょっと説明が前後しちゃって、さ」
 申し訳なさげに話し終えた彼のおどおどとした狐の瞳、それに対して彼女の眼力は強かった。ただ怒る事はなく、ではどうすれば良いの、と続けて返すと彼は申し訳なさそうに言った。
「えーと、うん、ちょっと目を閉じてくれないか?」
「こう?」
「そうそう、じゃあそのままで…オン」
 響いてくる彼の口調が変わった、それは祝宴の最中に彼の親族が儀式として表に出て来た際に唱えた祝詞にそっくりであって、その響きにはふと耳はおろか脳内の思考までも全てを傾けてしまえる深みがあった。

 一言で示すならば詠唱である、漢語調の響きがぐるぐると目を閉じて真っ暗になっている認識の中を踊り出す。途端に何だろう、全身が強張る印象を受けた。筋肉に骨に、それ等が一体となって体の重心側に引かれていく、そんな感覚を抱ける時には幾らか呼吸も苦しくなってきた。その内に脂汗の気配すらも感じてしまいつつ、何とか大きく息を吐ききったが早いか否かとの勢いで、口が塞がれた。それは外からの力、即ち彼の手によるものは明らかだった。
 詠唱はなおも続く、わずかに出た疑問や迷いもその内に封じ込まれて同化していく。全身は全てが強い力で引き寄せられていき、それに伴い手足や胸と言った特徴が消失していくかの様だった。そう目には見えねども感覚の消失として彼女は感じ、ある一点までその流れが極まった後は幾らかの膨張をしていく、そんな変化への認識だけを何とか維持するので彼女は精一杯になっていた。
 外からの、つまり彼の視点から見るとそれはよりはっきり説明出来るだろう。即ち、彼女が感じていた通り、その体の特徴は消失してヒトのサイズの縦長の棒状の姿に収束していたのだから。更にそれはより縮んでいく、長さこそ当初は彼女の身長に相当するものがあったが、それすらも詠唱の内に短くなって、ものの数分もする頃には彼の両手の内に握られている丸い棒とすっかり化していた。
 人が棒に変わる、そんな事は狐の顔をした彼の前では起きて当然なのだろう。
 そしてその棒を彼は熱心に擦り出す、当然、幾らか調子の異なる詠唱を重ねつつ摩擦による熱を幾らか与えたら、今度は独りでに棒が変形を始める。まず現れたのは持ち手だった、丸く太くと棒の下部の方が白木を思わせる持ち手に変わったなら、半ばより上は幾らかの細さを伴い枝分かれしていく。とは言え文字通りにではなく、片側に現れた2ヶ所の突起がそのまま同じ長さへと伸びていく、ただそれだけではある。
 細く、ふたつの突起が直角に生じた部分の色は真っ赤な色をしていた。それは持ち手の下に現れた紐と同じくとなっており、そこでようやく彼は詠唱を止めて大きく息を吐いた。目の前にいた彼女の姿はもうない、ただその手の内には両の掌で抱えられるサイズの白きと赤で彩られた金属からなる道具があるだけで、ただ彼は鍵だね、とまず呟いた。
「鍵か、君は。本当は交際中にこうしなきゃならなかった、そうして私達の気に、あるいは意の受け皿となる経験を経てから祝宴とせねばならなかったのだけど、前後してごめんね」
 先ほどまでの熱の入った口調はどこへやら、冷静さを多分に含んだ解説調の独り言―もし聞いているならば、それはその鍵であろうが、をしばし続けた後、どこからか取り出してきた容れ物へと彼は収める。もし彼女が言葉を発せられるならこう言ったであろう、あ、祝宴の最中の儀式で出て来たものじゃない、と。
 そう、その通りであった。先に触れた彼の親族が執り行った儀式に際して、現れた中身のない筒状の鍵入れ。一体何の意味があるのか、彼女はその時こそ分からぬままであったが、今こうして自ら変じた鍵となる事でその意味を知れた、と言えるだろう。
「ま、そう長くはないと思うけど、しばらくはこの姿で一緒に過ごそうね。大丈夫、全うしたら戻れるからね、僕の大事なお嫁さん」
 彼は頬ずりをしながら鍵となった彼女の入った鍵箱につぶやいた、前後して、しかしやらねばならぬ必要な事。それを分かっているからこそ、しばらくしたら彼は一仕事終えたと言った態で大きく息を吐いては、身を休むに任せていく。勿論、その傍らには鍵箱を伴って意識をまどろみの内へと沈めたのは違いなかった。

「やれやれ、ようやく整った様だねぇ、あのふたりは」
「前後したっていうけど、まぁ整えば良いのですよ」
 それはまた幾度か満月が巡った頃だった、酒に肴を挟んで向き合いながらの会話がふと聞こえてくる。
「少子高齢化、とはよく言ったもんで我々も他人事ではありませんからな」
「結ばれねば始まりませぬからのう、だから浮足立ってしまって申し訳ない事をしたが…なに、久々に白狐だそうで」
「それは実に吉祥で、互いに想い合いが、情が深くなければ人より白狐が生じるは中々難しいですからなぁ」
「鍵を経て目覚めたる白狐、中々にかかあ天下だそうで、実に平和でしょう」
「如何にも如何にも、ささ、もう一杯を祝杯として奉げますか」
「はは、口実はともかく乾杯!」
 そこは夜風が程よく吹き抜ける街中。時間も時間なだけあって人家の窓から漏れる光も少ない内に、気付く人の耳には届くやり取りがあったと言う、そんな婚姻譚の後日談。実に吉祥かな吉祥かなと続いたとまた聞く耳は大きく動く、白き毛並みの内を真っ赤に染めたる白狐と続けるばかり。


 完
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