辺りはまるで対照的に明るくて昼間に近いほどに辺りの木々の色が良く分かってしまうほどになっていた。そして、およそ1年前の記憶の中の出来事をひたすら追って明らかにしようとする試みは一体どこへ行ってしまったのだろう、と感じるほどに麻子の思考は落ち着きを取り戻していた。勿論、それはトウゲンも同じくである様で、今は麻子の側に尻尾を向けてはふたりして空より降りてきた輝ける存在と対峙していた。
夜闇を照らし、姿を明瞭にしてくれるだけの光を放つ存在が生物とは思えなかったが凝視しているとその胸が上下している、つまり呼吸しているのが分かる。もしかすると単なる排気か何かの動作なのかもしれない、しかしそうとしてはその動きは生物的であったし、そもそもトウゲンの存在を考えたら十分に生物でない事を否定する材料とはなり得なかった。
胸元の動きが明瞭に分かるのはその存在が纏っている格好のお陰だった、それは女性物の衣服、ワンピースと言うには足りず、かつロングスカートとの組み合わせではない。より言うならそれは前者の側だろう、即ちワンピース状の首から下をしっかりと覆った装束はドレスであり、一瞬そうと判断が遅れたのは肩にかかるケープのお陰だった。
そしてそのケープこそがその胸元の動きを明らかなものとして示していたのだった。ケープを繋いでいるのは大きな珠であった、そしてそこを中心にあふれる、と言った形で光が生じているのも合わせて分かる。
言ってしまえばケープの下にある乳房が台座となって珠を支えている、とも評せるだろう。即ちそれは三つの珠が三角形にある、とも看做せなくはない。ケープ、そしてその下のドレスは何れもそのベースとなる色は朱の入った白銀色であるものだから、珠のもたらす輝きがまるで全身から放たれる様になっているのが見て取れる。
そして衣服だけではなく、それを纏っている存在自体も注目しなければならない。そうそれは顔が無かった、正確に言えば顔を隠している、そう獣の顔、狐を模った狐面による。
ただ特徴的なのはその面は半狐面だった事だろう、口元、つまり下顎から鼻にかけてを防護するかの様な具合で纏った顔は目元を露出していて方はおろか腰までの長さを誇るロングヘアはケープの上に更なるマントを羽織っているかの見た目だった。
「…ふぅ」
金色のロングヘアを軽く揺らしたのがやり取りの始まりだった、その声はその姿の通り女性的な響きで、幾許かは年を経ている事を感じさせるものだった。
「闇の月、が久々に我が統べる地に来たと聞いて参ったが…何じゃ、まだ目覚めてすらおらぬではないか?」
闇の月とまず発せられたのにトウゲンも麻子も一様に反応せざるを得なかった、最もその中身は違っていたもの。トウゲンは闇の月について知っている事について、であるが麻子に至ってはまた何かトウゲン的な存在が現れた事に対する矢張り、と抱ける強い気持ちが故のものだった。
「全く、大分苦労しているのじゃな、そこな狗?」
「狗、とは酷い言い様ですね。しかし苦労している、との点については認めなくてはいけませんね」
かすかな侮蔑に同程度の反感を含みつつの反応だった、それは語調のみならずちょっとした動きからも分かるもの。最もそれはますます麻子の反応を表向きに乏しくさせる、そんな効果を最大なまでに発揮して行くのに働いたもので彼女の口が開く事は無かった。
「はは、素直なものじゃ…しかし、こんな所で言いあいなぞしおって何をしようと言うのかのう?」
「分かってますでしょうに、闇の月が根付いてしまったこの娘に自覚を促す為に決まっているでしょう?」
「かか、矢張りな。しかしここは我の土地、そこで勝手な事をされても困るものでのう、関与させてもらう、それで良いかの?」
話がどんどんと進んでいくのに麻子は内心で唖然とするしかなかった。そこにはトウゲンが今まで見せていたソフトな態度の裏側で抱いていた気持ち、それが先ほど迫って来た時よりもずっと率直に出ていたものだし、思っている以上にこの事態から逃れるのは困難であるのを認識せざるを得なかったからだった。
「良いでしょう、本当はボクの手だけでしたかったのですが…お力お借りしたい」
ちょっとトウゲン、と叫びたくなるが不思議と声は出なかった。ただ口が少し動いたのをケープにドレスを纏った半狐面の女性の金色に輝く瞳が見逃す事は無く、ふと目が細められるなり、また言葉が響く。
「そこな娘、名を何と言う?」
「…ま、麻子です」
「姓も言ってみよ」
「篠田、です」
そうと告げた途端に一拍の間が開く、そして愉快そうな声を半狐面の女は返してくる。
「ほぉ、これは面白い。篠田とは、これはこれは…そこな狗よりも我との方が相性が良かったかもしれぬのう?かかかっ」
「何を笑ってるんですか…経緯はともかく、ボクの護っていた闇の月を抱いているのですよ、麻子さんは。言葉には気を付けた方がよろしいかと思います」
「全く、これだから狗は余裕がない…良い良い、別に横取り等はせぬ。ただ手伝う、それだけで良かろう?」
「ええ、して下さるなら歓迎です、彼女の為にも、です」
「あい、分かった。では我のお使いと対峙させるとするかのう…これショウコ、降りて参れ」
ポンポンと手を叩く姿は余裕さと気品をその半狐面の女性が、身に纏う装束の通りに有しているのを示すばかりだった。それは創作の世界だとか、そうした中でしか見れないものを直接見ているとの感覚であり、それを麻子は述べよ、と言われて答えたにもかかわらず、笑って返された事への戸惑いに被せる形で途端に抱けたものだった。
だからその女性が口にしたお使い、それを呼ぶ言葉の中に何か引っかかる響きがある事をすっかり聞き落としていたのだった。そしてまた新たな存在が夜空から降りてくるのを見つめてしまう彼女であった。