頃合にしたら、それは麻子達がバスを降りた頃。つまり数時間前に遡った時にその場所からはかなり離れた場所より、ふっと空に浮かぶ存在がいた。
浮かぶ、とするからにはその通りの動きであったと。ふわりと地面に落ちる葉の如く、しかし上空に向かって地を離れたそれは次第に速度をあげ、ある程度の高度を高めたところで静止する。そして今度は横に、水平の方角へと少しばかりゆっくりとした動きで進み始める。
「わぁ…」
空中を進むとは風に乗る、あるいは風そのものになる、と出来るだろう。海から陸に向かって吹く圧倒的な風に比べたら、とてもその動きは弱い。しかし確実に進む中でより小さな風、即ち声をそれは漏らした。小さな呟きとするに相応しい声はその存在が単なる無機物だとかではなく、有機的な、即ち生命であるのを示すもの。そして次から次に放たれる言葉が、その存在がヒトとしての知見を有する存在であるのをまた示す。
「すごい、こんなに見渡せるなんて…電車かな、あれ、えーとあの明るいのは駅だろうし、あれは…高速か」
言葉はその目が捉えるものについて紡がれる。暗がりの人家の無い一角より出でたそれは水平移動に移って間もなく、大きな川を跨ぐ橋梁、そしてその上流側にある大きな光の点、即ち駅に向かっていく貨物列車を捉えていた。更にその間際には直角方向に交わる様に等間隔で光点、街路灯が並ぶ中を車の行き交う高速道路があるのを見て大体の場所の見当をつけていた。
「鉄道に高速道路に川、うん…川を行きましょう」
速度を落としていたのは選択をする暇を得る為だったのだろう、ヒトの造った大きなふたつの筋と自然が作り出したひとつの筋。それ等を眼下に認識したそれ、彼女は直角に交わる前者等の間を斜めに行く川に沿う進路へと変える。そう沿えば沿うほど、その流れは穏やかになり、更に広くなって行く川が行きつく先は海なのは明白なものだった。
「ああ、本当に私、飛んでるんだ。翼もないのに、すごい」
言葉は同時にその体の様も示してくれる、そう夜闇の中、眼下に人々の放つ灯りの集積を見ながら行く彼女の体には翼は無かった。ただヒトの姿に近しく、何かしっかりと着込んでいるのが地上から漏らされる淡い光の内に分かる。それは足の方向に向けて包み込む様な服装であった、あからさまな露出はそんなには無く、風に靡いてるのもあるのかその印象はより強くなるが多くは闇に隠れたままだった。
それは人の形をしている、特に何か炎だとかそうした動力装置の発する光も見当たらず、ただ夜の空に溶け込んでいる。彼に地上が完全に漆黒であったとしたらここまで見るのも不可能であったろう、と思えるほどにその姿は正に「夜風」であった。
そんな時、地上から空を照らすサーチライトが一瞬、その身を照らす。最も和名では「探照灯」となれど、実際の役割とは異なり、単にその存在を辺りに知らしめる、注目させる為の広告装置のひとつとしてしか機能していない以上、単に照らされた以外の意味はないのだがとうの当事者としては一瞬目がくらんだのか、少しばかりその動きに乱れが生じたのは違いないものだった。
何より、その容姿を観察したい、と見ている我々にとっては照らし出されたその瞬間は関しては文字通りの役目をサーチライトが果たした以外の何物でもない。ぐるりと辺りの夜闇を巡り続ける光の帯、その中に見えたのはロングスカートを纏った女性と言えるだろう。少なくともそれは袴ではなく、スカートで色は夜らしい黒、ではなく白系統のはっきりとしたものだった。
しかしサーチライトはすぐに別の空へとその先を向けていく、そして再びその場所を照らした時には何もそこには無く、ただ夜だけがそこにあった。
「さて、どうします?姿を変えた方が楽だと思いますよ」
確かにその言葉に一理はあった、首都圏の中とは言え標高も高い山の中。辺りに人家は見当たらず、あっても幾らかの家が沢筋に固まっている地域であるからなおの事、山を吹き抜ける風の感触は彼女から熱を奪って行った。
「ふー…こんなに冷えるんだなって」
「冷えるんだなって思っているなら尚更ですよ、麻子さん。山と街では違う、それはボクと出会った時にも感じたでしょう?」
確かにそれはそうだった、トウゲンと出会ったあの盆地。あの時は季節はもう少し後だったろう、しかし近しい時期であるのをふと思い出してしまえる。
「そうか、トウゲンと出会ってもう1年経つのよね…」
「もう、回想に逃げないで下さいって…でもそうです、ボクと出会ってそろそろ1年、時間が経つのは早いでしょう?だからこそ、です」
トウゲンは続ける、だからこそ今日こそはしましょう、と。もう時間がそんなにないのです、そう語る言葉には笑みの要素は見当たらなかった。
「でも私はまだどこかで納得出来てない、それは1年も共にいて分かるでしょう?だから、そう、ね」
「麻子さん、頼みますからお願いします。もう僕が持っていた、いや護っていた"闇の月"の力はあなたの中にあるのです、そして1年との時間、つまり四季が経過した事によりすっかり定着してしまっているのです。それも麻子さんが思う以上に深い部分にて、ね」
心なしかトウゲンの体つきが大きくなった様にも見えた、四足にて地面を踏む姿が一回りかその程度大きくなった様にも見える中で、その語調も次第に強く硬くなって行くのを麻子は感じてしまえてならない。
しかし麻子とて意思はある、考えはある。矢張りどこかでその障りを乗り越えていられない以上、トウゲンの言葉をそのまま是、とするのは困難だった。トウゲンからしたらそれはとんでもない事なのだと言う、もうとっくにすべき事が全然出来ていない、だから今から急いでしなくてはならない、しないならしないだけ負担が増していく、だからこそ少しでもそれを軽くする為に、とは折から言われている事。
麻子としてもそれはうなずける面はあった、そもそも嘘だとかの類ではないのはもうこの我が身に起きた事で分かっている。何よりトウゲンがペットの犬、として家に受け入れられたのが何よりもの証拠だろう。ここまであって幻覚の類であったら、と考えるのはとても合理的ではない。受け入れてしまうのが楽であろう、何故ならそれが是なのは直感的に抱いてもう長い。
しかしそうとはならぬが感情たるものだろう、ただ状況が揃っているだけでは何かが足りない、その気持ちの内に迷っている内にまたあのであった季節、秋を迎えようとしている。恐らく、トウゲンが行きましょう、とここに連れてきたのは今日こそは、と彼なりに決意しての事なのが分かるだけに、どこか逃げ出したくすらなる、それがより根底にある麻子の気持ちそのものだった。