「ただいま」
「おかえり、麻子さん、大学はどうでした?」
「ああ、トウゲンただいま…まぁ何時も通りよ」
「そうでしたか、それは何よりですね」
帰宅した麻子を待ち構えているのはトウゲン、そう白に縹色と言う色合いの毛並みを持つあの犬である。もう麻子の家に居付いて2週間と言う辺りだろうか、幸いにしてそうなっているからには麻子の家族にも受け入れられていたものだし、無駄吠えもせずしっかりした犬として評判は中々なものだった。
最もそれは当然だろう、何せこの犬は犬であって犬ではない。姿こそ犬であるがそもそも縹、それは青色の一種でややくすんだ水色に近い。しかし水色と言うと犬、トウゲンは機嫌を悪くしてその度に正しい色の名前で呼ぶ様にとまともに言ってくるのだ。何より、そもそもの話として犬が喋ると言うのがある意味有り得ないものであろうが、とにかく彼によれば「大事なお役目を果たしている、あるいは担っている犬」との事で、柴犬そっくりなその姿で今日もまた、帰宅した彼女を迎えてくれた次第である。
だがこの事を家族は知らない、犬なのに喋る事は知らないし、トウゲンもまた麻子以外の家族の前では喋らないように、しっかりとしつけのされた利巧な「犬」として振舞っている。だからすっかり受け入れられたのだろう、本当にその姿は犬なのだった。
「もう、玄関で喋ったらパパに聞こえちゃうじゃない…っ」
「大丈夫です、今、麻子さんのご家族は皆、外出中です。ですから大丈夫ですよ」
「あっ、そうなの…でも気を付けてよね」
靴を脱いで階段を上りながらふとそんな会話を続ける、そして足早に自室の中へと身を隠す。トウゲンの言によれば今はこの家にいるのは麻子とトウゲンだけ、しかし隠している事実が明らかになったら困る、そう言う考えの方が分かっていても強く出てその様な動きをしてしまった訳であった。
「もう肝を冷やさせるんだから…」
軽く呟きつつ麻子は鞄を脇に置くとベッドの上に腰を下ろしてふっと息を吐く、そして軽く髪の毛に指を櫛の様に通しては改めて息を吐いてトウゲンを見つめた。
「…ねぇ、それで昨日の話の続きは?」
「ええ、今致しますよ。途中なのは歯切れが悪いですから」
「うん、お願い…とにかく私を、いえあなたを襲っていた存在については聞いたけど」
麻子はこれまで連日ではないが、出会ってから聞いていた様々な話を思い返しつつ言葉を返す。そしてうなずくだけのトウゲンに幾つかのキーワードをぶつけてはそれを確かめる作業を繰り返そうとすると、それを遮るようにまたもトウゲンが口を開いた。
「では今日は何で襲っていたか、そこから話します。僕はある力をこの体に封印して護る、そう言う役割を担っていました」
「ある力?」
「そうです、それを僕達は闇の月、と呼んでいます。そしてそれが今、麻子さんの体の中にある力です」
「私の中にねぇ…」
麻子の促しに対してすっと、より落ち着いた言葉で語り始めたトウゲン。その内容を聞きながら彼女はふと自らの体へと視線を落としては首を軽く傾げ、やや半信半疑と言う具合で呟いた。
「ええ、まさか僕もこうして人に託す時が来るなんて思ってなかったです。それを思うと巻き込んでしまったのは僕のせいかもしれません」
一拍ほどの間を空けてのトウゲンの声にはわずかな気持ち、それは悔やむ気持ちが含まれていた。
「でも、そうしないと駄目でした。僕だけではもう護りきれませんでした…だって麻子さんが折角の結界を壊してしまうのですから、それに偶然にも凄くその力との相性が良かった。だから僕は麻子さんに宿らせたのです。最も僕の力も添えて、ですが」
しかし続く言葉にはどこか、それは僕だけのせいではない、あなたが、麻子がそこに飛び込んできたから仕方なかった、と言う弁解とも言うべき響きを持ち合わせていたのは言及出来る事だろう。そして更に言うのはその力に相応しい姿に今、なって欲しいと言うものだった。
「えっ…この部屋でならなきゃ駄目なの?」
「そうした方が説明が手っ取り早いでしょう?お願いします」
「そんな、そもそもどうやってなれば良いかだって…」
麻子は戸惑いの声を返し続ける、するとトウゲンは言う、ならそれを覚える良い機会ではないですかと。今、必要な事は教えて差し上げますから、と丁寧でありながらしかしそうするのが一番正しい、そう言わんとする具合での言葉だった。
「分かったわよ、じゃあ教えてちょうだい」
「ドアを開けて下さい」
「はい?ドアを…?」
「誰かが帰ってきますから、そう多分…麻子さんのお父様ですね、ですから続きはまたにしましょう」
急な展開とはこの事を言うのだろう、そこまで言うのならと前向きになった途端にひっくり返される前言。その前に麻子は思わず表情をしかめてしまったものだったから、どうしてとの不服な気持ちを浮かべてしまう。だがトウゲンの言う事は不思議と当たる、それは彼曰く感じて分かるからだと言う。一体何が感じるのかまでは聞いていなかったものの、誰彼が帰ってくると言うのは不思議と当たるもので仕方なかった。
それによくよく考えれば迂回する形になったとは言え、変身をしなくて済んだ訳である。そう考えると結果として麻子の思い通りになったとも言えるからそれ以上の口は開かなかった、いまや目の前にいるトウゲンはドアの前でドアが開くのを待っている1匹の犬と化している。もう先ほどの語尾、ドアを開けてくれと求めるのに続けて漏らした口調の端にあった不満の影はどこへやら、完全にペットたる犬の姿となっていた。
だからそっと扉を開けたところで玄関の鍵が開く音が聞こえたことから、彼女がさっと扉を押すとトウゲンは一目散に外に出て行く。しばらくして聞こえてきた音は明らかに父親が帰宅し、トウゲンを愛でる声であった。その声につられて彼女もまた部屋の外へ出る、ふとその様子を階段の上から見つめていると、そうしている娘の存在に気付いた父親はニッと笑っては犬の顎の下へと手を伸ばす。
それはすっかり飼い犬としてこの家に馴染んだ存在と、飼い主の一員としての家族の姿に他ならない。そのある意味では和んだ光景の前には、彼女もそれを無視する事は出来ない。ただふっと笑みを浮かべて、少しばかり駆足で階段を下る。それがその場に置ける正しい姿として、ふとした日常、最もその日はまだ浅いのだが、その1コマを刻むのにつながっていくのだった。
(また明日が…楽しみだな)
最も、そうした一方で正しいはずの事が実は正しくなかったと言う事も時として生じる。だが基本、それには案外気が付かない。その程度の差は当然ある、少し確認をすれば分かる程度の事からそうでない事まで、それは幅広くあると言うものだろう。
その区分で言い表すのであれば、正しくなく、更に言えば予想の範疇外の未来に向かって進んでいる、正しくないの先にある結果への流れに乗ってしまうと、結果を見ないとそうであったとは分からないと言う事になってしまう。
だからそれを正に選んで、あるいは進んでいるのだと彼女、家路の電車に揺られている祥子が気付く術はなかった。そもそも知る余地がなかっただろう。あくまでも、予定通りに何事も行ける、だから今は何時も通りに一休みも兼ねて瞳を閉じよう、そしてまた明日が来る。信じる以前の、そうであると定めてのうたた寝を電車の揺れに身を任せてしばし彼女は楽しみ始めていたところだった。
そんな祥子を乗せた電車は順調に進んでいく。そしてそれはその巨大都市「東京」を横切っては静かな郊外へと更に進んでは、ふっと消えて行った。