「秋、行くよっ」
「はい、リリーさん」
少し遅れて、そう、犬が麻子に逃げる様にと促したのと前後して、あの2人組はその様なやりとりをしていた。ただ一気に足並揃えて動いたのではない、先に呼びかけたリリーがまず後を追ったのだった。
「許さない・・・から・・・っ」
その背中を見ながら、未だに痺れが残る腕の感覚に忌々しさを抱きつつ秋は立ち上がった。軽くその身を振るうと体に、スカートにと付着した砂埃は容易く落ちていく。しかし痺れは落ちない、むしろ軽く振れた事で余計にその存在を感じさせられてしまった、と言えるだろう。それは何とも繰返す様だが忌々しい以外の何物でもなかった。そして彼女の中に、沸々とした感情が自然に沸き起こるのはとても防げたものではない。
「待ってなさいよ・・・リリー姉様の手を煩わせるのは私がさせない・・・っ」
小さく漏らすなり彼女は腕を大きく振るう。その痺れを振り落とそうと言わんばかりに、共に頭が軽く振らして間もなく、不意に何かがその場に現れた気配がした。それは今しがたまでその場に存在しなかった気配、とにかく秋の周囲を取り巻く様に出現しては蠢いている。
その形状、それは今が夜、わずかな残照もすっかり消えて完全に夜の帳が下りてしまったから、と言えどもある程度の察しは付いた。色こそは判別出来ないが長く太く、無数にしてその表面には棘の様な物が無数に生えていて、先端に行くほど細かくなり、かつその太さ自体が細くなっていくそう言う代物。それが秋の周囲、いや秋と気配はすっかり一体化していて、矢張り前述の通りに蠢いていたのだ。
「そう・・・これなら、幾ら逃げたって無駄・・・」
そしてそれを裏付けるかの様に、言葉として秋が発した途端、それ等は一瞬動きを止めて、そしてある方向へと先端を一斉に揃え、そして弾ける様に後を追う。そして1分なんてとても経たない内に、麻子に冷や汗をかかせ、追い詰めさせたのだから。
それは正に、追う者と追われる者と言うそれぞれの立場を明確にし、激しく交錯し始めた事を告げる物であったと言えよう。とにかくしなやかで、長く伸びる運動の特性を持った存在。激しく動いては、無駄の無い動きで無駄を誘う、長い代物。その勢いは倉庫の壁を破壊しても尚、息吐く暇すらなく続き、麻子を次第に息切れさせ、そして追い詰めるのにそう時間はかからなかった。
麻子は必死だった、とにかく次から次へと来る、その攻撃。それを交わすのに必死で時折、自分の中から響いてくるあの犬の言葉を聞き逃す程に慌てていた。それでも何とかその攻撃を回避し続けていたのは、見事と言えるだろう。だがその余りに、前述の通り、犬から来る指示を聞き逃してしまうと言うのは大きなミスであった。幾ら有益で、その場で役に立つ指示であったとしても、聞き逃されてしまっては言っていないのと同じ事になってしまう。
だから聞き取れないと言う事に麻子も苛立ってはいたが、それは犬もそうだった。前者はどうしてこんな事に、と言う気持ちと今後どうなるのかと言う不安、更には激しい運動を繰返すことによる疲労。後者は自分の指示を聞き入れない彼女に対する苛立ち、そして彼女以上に指示を出せると言うだけはあってこの事態を把握しているだけに、つまり追われている事に対する焦り。その具合に内容こそ異なってはいるが、双方ともない交ぜとなり、意識せずに体の動きを鈍らせていく。
「ふん、足が落ちてきたね・・・っ!」
その模様は追う者にしてみたら好都合以外の何物でもなかった。そう2人の、遠距離から長尺の何かを振るい翻弄する秋、そして間近に迫って直接的に追うリリーの組み合わせは明らかに狩る者の姿を呈している。
「どれだけあと続くかしら・・・っ、この狭い範囲でね・・・!」
リリーの言うのは真っ当だった。この範囲、つまり境内と言うのはそう広い物ではない。また既に以前に描写した通りにここはそれなりの高さを持つ、平地にぽっかりと出来た丘の上であってその斜面は決してなだらかではない。
つまり下手に落ちたら、日が暮れる前に麻子が犬の祀られていた祠に、斜面で転んで頭から突っ込んで気絶した、程度では済まないのである。そして唯一、安全に降りる事の出来る階段の付近は近寄ろうとしただけで秋によって妨害されていて、とても叶ったものではなかった。
(ねぇっ、聞いているのですか!?)
もう幾度目の回避か分からないほど、そして足のふら付きが顕著になり疲労の蓄積がより明らかに感じ取れた時、ようやく麻子はその犬の声を受け取った。
(ええ聞いているわよ・・・ずっと何も言わないで何よ、その口っ)
(いえ、僕はしっかり言っています、あなたが聞き逃しただけです。とにかくこのままでは駄目です)
ようやくの言葉に麻子は大いに含んで返す。しかし犬の言葉は通じた事に安堵したのか、次に来た時には棘が抜けた柔らかい口調になっていて、逆にそれは麻子を当惑させると共に、駄目と言う言葉に代表される内容が更に刺激を加えてしまう。
(聞き逃したとか駄目とか・・・あんたが巻き込んだんじゃないのっ、何とかしなさいよ・・・)
それ等は麻子にとっては理不尽以外の何物でもなかったからだ、ただ興味があって再訪したこの場所で、そもそもそれは秋休みの一幕と言う位置付けの、言わばリラックスしていた最中に巻き込まれた、このいきなりの緊張と恐怖を強いられる事態。不本意などころか理不尽以外の何物でもそれは無く、ない交ぜが更に転化した強い不満の気持ちの噴出は思わず犬を沈黙させてしまう。
だが犬からすればここで議論していると言う選択肢は無かった。そもそも目の前、いや正に自ら、何よりも彼に限らず2人して脅威に晒されているのは同じなのだから。よってその一瞬の後に、犬は改めて強い口調で麻子に迫る。
(何とかしますとも!それは、だから僕の言う事を聞いて下さい!そうでなければ、体を奪い取りますよ!?)
(奪い取る・・・って何を)
(だから今は答えるだけにして下さい、後で説明しますから・・・っ。さぁ、早く・・・っ!はい、か、いいえかっ)
ほぼ犬が告げ終えると同時に足元を、秋の操る先端が抉った。それは足その物には当たらなかったがほんのわずかに離れた地面に大きな窪みを作り、大量の土が巻き上げ全身へとそれは当たり散る。幾ら直接的ではない間接的な衝突とは言え、そこまではっきりと何か衝撃を受けたのは、この逃走劇の中で初めての事だった。
それほどの劇的な出来事であったからこそ、ようやく麻子の危機感と言えるだろうか、それがより明確になる決定的な後押しとなった。奪い取る、と言う脅しとも取れる言葉があれども不足していた部分を満たす反射的な、助かりたいと言う反応を呼び、一瞬の立ちすくみの後に再び目を開いた時、ほんの数メートル手前まで追っている者の1人、そうリリーが軽い表情を浮かべて迫っているのを捉えつつ、麻子は犬の望んでいた答えを返す。
(はい、ですね。承知しましたよ!)
その声には大きな弾みがあった、そして何か体の中で犬が大きく跳ねた様なのを感じたのも、その時だった。