狛犬物語・第5話 狙う者 冬風 狐作
「・・・」
「どうなの、生きてる?」
 夕闇の色は色濃く、最早夜にほぼ足を踏み入れたに等しい。その瞬間、見事に壊れた扉の前で横たわっていた筈の麻子の体は窪地の斜面に映されていて、それを巡って再び言葉が交わされていた。
「ん・・・死んではいないけどすっかり気絶してる、それにほら少し傷もあるし」
 その言葉は倒れている麻子を見つけた、麻子の事を「人間」と口にした2人組みの交わすものだった。そして脇に膝を折って介抱する姿勢をとり、様子を見ていた1人はそう応えてまた首を回す。髪が長いのか首を動かした際にその辺りが大きく揺れるのが見える。
  「そう、それなら良いけど。死んでいたら厄介だものね」
 文字だけを、更に前半のみを追えばそれは安堵の気持ちの表れと取れるかもしれない、だが実際に音として言葉として聞けたなら知れるだろう。そう心からの言葉ではない事を、それは一応その場に相応しい言葉として使っただけと言うのが現れていた。
「とにかくここに転がしておけば良いかしらね?」
「うーん・・・一応もう少しずらしておきましょう、それと念の為・・・」
 介抱していた者は手を外すなりそう尋ねた、するとつい今しがたの厄介と言う気持ちを露にしていた者が動き、言葉を返しつつ伸ばしていた背筋を曲げ、同時に膝を折って小さくなる。そして次の瞬間、その顔が麻子の顔へと重なった。そしてそのまま下げては口付けを1つ、薄っすらとではあるが確実に唇同士を重ねてから元通りの姿勢へと戻った。
「そうですね、リリーさん。今晩は満月ですから念の為、手こずっている間に目でも覚まされたらまた迷惑ですもの」
 それは相槌とも言える応え方だっただろう、そして麻子の体が持ち上げられ斜面からわずかに上にある盛り上がりの上、そこから生えている大木の根元に横たえるなり、ほっと一息が吐かれた。
「さて、ではしましょうよ。今日こそ仕上ないと・・・」
 目覚めていない事を確認してから、戻る足でリリーと呼ばれた者が漏らす。そしてその足取りはどこか重かった。br> 「もう2ヶ月・・・いい加減にしないと橘様に叱られてしまう・・・」
 再び祠の前に2人の影が立った時には表情もそう判別出来ないほどまでにその闇は濃くなった。見つめる前には前述の様に祠がある、ただそこにはあるべき扉は無い。無いのは麻子が頭より突っ込んで壊したお陰なのだが、すっかり境界と言うのがなくなってしまった事で、前の満月までの様に鍵を開ける手間はなくなっていた。
 更に見れば扉と共にその上にあった注連縄と紙垂が別に傷ついているのが見える。紙垂の一部は衝撃に巻き込まれてか破れて無残な姿を呈し、注連縄についても破れたのに引きずられてそうなったのだろう。やや歪に歪んだ垂れ具合となって揺れていているのはお世辞にも言い姿ではなかったが、それは2人にとっては幸いな事だった。そう、2人の存在を忌避する物が傷付いたが故に最早妨害される心配が無くなった、それが幸いなのだった。
「とにかくあの人間にはこれは感謝ですね。後で目を覚ましたらお礼しましょうよ、リリーさん」
「ふふ、それも良いわね。かわいい子だったし・・・でも今はこちらに集中しましょう」
「そうですね。良い事は一気に・・・」
 一瞬漂った柔らかい空気、だがそれはすぐに落ち着いて再び静かで、そして何かに対して向かう気配が2人に纏われる。その時、ふと風が吹くなり闇にわずかな白さが気のせいと思える程度だけ流れたのは気のせいだったろうか。闇の中での白さ、知ったらそれは光でしかない。だが人工の光の様な無機質さではなく、かと言って太陽光の様な強い圧倒的な勢いはない、その様な光。
 そんな闇の緩みの中で2人の姿はその輪郭を取り戻した、背丈はどちらも似た様な具合で胸には膨らみがある。腰に纏われている衣服の形状は、その膨らみからスカートであるのだろう。そしてこれまでの言葉と重ねて見れば女同士であるのは違わなかった。そんな具合の2人組はすぐに闇へと戻った中で祠の中へと手を入れて何かに触れ、触れられる。

「きゃっ・・・!?」
「秋っ」
 悲鳴、いや驚きの声が唐突に響いた。そしてリリーと呼ばれた女の矢張り驚きの声が重なった、何れも何事かと言う意味を多分に含んでいて、それによりそれまでの静けさと言うものは大きく損なわれた。そしてその範囲は言葉に留まらない、その場の気配自体も大きく乱れて、明らかな異変に対する動揺と警戒心からの乱れによって失われた。
  「秋、どうしたのよっ?」
「何か出てきて・・・思いっきり受けちゃって・・・っ」
「何かって・・・中から?」
「うん・・・いたた・・・」
 尻餅を付きつつ腕を擦っている秋の姿を見てから、リリーは一気に気を引き締めて視線を祠の中へと向けた。祠の中には先ほどの通りに壊れた扉の破片、そして矢張りその破片となった衝撃を受けて倒れたと思しき鳥居が祠の中に祭られている像、それはお座りをしている犬の姿をした石像にもたれかかっているのが見えた。
 見たところそれらにはおかしな点はない。先ほどまで彼女達が見ていた光景と寸分違わないし、そもそも既に描写した通り小さな祠である。とても中に何か身を隠す余裕は無く、これまで彼女達が気が付かないと言う事はまず考えられなかった。しかし秋の様子は明らかに、その中から衝撃を受けたと言う事を示唆するに足るものである。
 では一体何が起きたのか?とにかく前述の通り、物理的に何らかの衝撃を食らったと言うのは秋の様子を見ていれば間違いなかった。その肌理の細かい整った腕に残ったあざの色合いからして明らかに内出血が起きていた、この短時間で見えるほどになっているから余程の物であったと言うしかないだろう。それでは一体何がこの様な傷を負わせたのか?それはしばらく眺めてからリリーが気が付いたある変化、祠の中に見られる以前に見た時との差異によってすぐに分かった。
「しまった・・・」
 そして漏らされる悔しそうな、軽い舌打ちと共に吐き出された言葉。事実を認識しての動揺を何とか押さえ込みつつ、キッと目に力を込めて首を回す、そう背後に感じた気配の方向へと。一体何が起きたのか、それはもうこの時点で明白に取っていたからこそ、リリーはその様に咄嗟の行動へと移ったのだった。

   犬が飛び込んできた、それは大きく跳ねてと言う光景をはっきりと麻子は見ていた。避けないのか、と言う自分の疑問の声に応える事無くそのまま立ち尽くし、そして衝撃もないままに気が付けばいなくなっていると言う展開に戸惑いつつ、その流れで視線が動き、ふとした推測を立てる。
 そうどこに行ったのかと。そして恐らくあの放物線の軌跡からすると、ここであろうと思しき自らの鳩尾の付近に目をやった途端、不意に視界が眩暈を覚えてぶれて意識を失う。
 だがそれは一瞬の停電に等しいもので、次に気が付いた時はそこは自然な風の吹く月明かりの下だった。一瞬、改めてどこにいるのかと混乱したものの、ふと視線を動かした先に見えた見覚えのある神社の本殿の姿に安堵しつつ、どうしてこの様に横たわっているのか、と言う心当たりの無い事にふと心が捉えられた。覚えている限りでは祠に突っ込み、更にはつい今ほどまでと言う物は夢かと思える場所と体験の中にいた。それが真新しく、そして正しい記憶。だからこそ何だか不思議な心地のまま、ぼんやりとただつらつらと姿勢を変える事無くその光景を眺めていた。
(さて・・・戻りましたよ、中身があるべき場所に)
 まるで待ちかねていたかの様にあの犬の声が脳裏に響いたのはその続きだった。
(ああ声は出さないで下さいね・・・思って下さればやりとり出来ますから)
 思わず口を動かしかけたのを制されたのもその流れだった。何を、との感情がふと持ち上がりかけたが敢えて出さずに、咄嗟に判断で堪えて息を深く飲み込む。そしてほんの少しの沈黙を経ると、再び犬の方から話しかけてきた。
(さっきは驚いてましたねぇ、良い服装でしょう?)
(服装・・・って何よあの服・・・・驚かない方が不思議・・・)
(でも犬が喋るよりは自然ですよね?僕が喋っているの見てあそこまで落ち着いていたのはあなただけです)
(そ・・・それはそうだけど、とにかく驚いたんだからっ)
(そうですか、でも安心しました・・・あなたなら大丈夫だって。さぁ早速始まりますよ。立ち上がって下さい、慣れないでしょうが僕の言う通りにしてくれれば大丈夫です)
 一体何が慣れないのか、何を言う通りにするのか、そもそも一体全体、先ほどまでの事を含めて何が起こっていて何が始まるのか、整理とは程遠い状況に麻子の認識はあった。しかしその犬の口調と言えば、まるでもう全てを承知しているとするかの様な具合で全く合致していない。本心ではこれまでに堪えた気持ちと共に色々と尋ねたい気持ちで一杯で仕方ない、しかし反駁しようにもするだけの材料すらまだないのだから、それは無理な話であった。だからこそここもまた従う、後でしっかりと問い詰めようと言う気持ちだけは明確なものにして、その脳裏に響く声に従う。
 起き上がる時にふと見た自分の服装が朝に、自ら着込んだそれと同じ濃い色のジーパンにブラウスと言った井出達に戻っているのにふと気が付いた。
(あれ・・・服が)
 少なくともそれは、つい先ほど犬と相対していた時に身に纏っていた見慣れぬ衣服ではなかった。そう慣れ親しんで、ごく普通のいつもどおりの服装に戻っていたのに思わず気が向いてしまう。
(良いですから・・・気は抜かないで)
 だが犬の、少しばかり筋の入った言葉でその気持ちは遮られる。だから麻子もそこでそれについて考えるのを止めた、とにかく今は従わなければいけないと、そして気が付かないほどの小さな喪失感を心の中に、共に秘めながらある一点を見つめる。

 麻子がいる場所からは記憶に新しい、自らが転んだ拍子に突っ込んだ祠を下に見下ろせた。少なくとも壊れているのを除けば、転がる前に見下ろしたのと位置がやや違うとは言えそう変わりは見当たらない、と言うのが正直なところであったと言えよう。
 しかし無かった訳ではない、それは祠の前の動く人影。そうリリーと秋の存在が麻子の記憶には無かった、当然、その2人が今、麻子が立っている木の根元へとその体を移した事は知る由が無い。そしてしばらく見つめていると、その内の1人がこちらに気がついたのかこちらに向き直る。そして視線が一瞬重なり合う。
(逃げますよ・・・っ!)
 麻子はまだ相手の名前なぞ知らない。ただ最初に振り返った人影、そうリリー。麻子の認識を書くなら髪をポニーテール状に縛っている側、それと前述の様に対峙した上にこちらに向かって片足を踏み出すのを見て、言われるまでも無く1歩後ずさりをしてしまう。
 そして続け様に飛んだ犬からの指示には、もう何の異論も挟まずに従った。足は駆ける、向きを変えた時に一瞬足が絡んで躊躇してしまったが、すぐに解くと後はもう一目散に本殿の脇の空間目指して、大きく飛び出したのだった。


  続
狛犬物語・第6話 自覚
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