「きゃっ・・・!?」
「秋っ」
悲鳴、いや驚きの声が唐突に響いた。そしてリリーと呼ばれた女の矢張り驚きの声が重なった、何れも何事かと言う意味を多分に含んでいて、それによりそれまでの静けさと言うものは大きく損なわれた。そしてその範囲は言葉に留まらない、その場の気配自体も大きく乱れて、明らかな異変に対する動揺と警戒心からの乱れによって失われた。
「秋、どうしたのよっ?」
「何か出てきて・・・思いっきり受けちゃって・・・っ」
「何かって・・・中から?」
「うん・・・いたた・・・」
尻餅を付きつつ腕を擦っている秋の姿を見てから、リリーは一気に気を引き締めて視線を祠の中へと向けた。祠の中には先ほどの通りに壊れた扉の破片、そして矢張りその破片となった衝撃を受けて倒れたと思しき鳥居が祠の中に祭られている像、それはお座りをしている犬の姿をした石像にもたれかかっているのが見えた。
見たところそれらにはおかしな点はない。先ほどまで彼女達が見ていた光景と寸分違わないし、そもそも既に描写した通り小さな祠である。とても中に何か身を隠す余裕は無く、これまで彼女達が気が付かないと言う事はまず考えられなかった。しかし秋の様子は明らかに、その中から衝撃を受けたと言う事を示唆するに足るものである。
では一体何が起きたのか?とにかく前述の通り、物理的に何らかの衝撃を食らったと言うのは秋の様子を見ていれば間違いなかった。その肌理の細かい整った腕に残ったあざの色合いからして明らかに内出血が起きていた、この短時間で見えるほどになっているから余程の物であったと言うしかないだろう。それでは一体何がこの様な傷を負わせたのか?それはしばらく眺めてからリリーが気が付いたある変化、祠の中に見られる以前に見た時との差異によってすぐに分かった。
「しまった・・・」
そして漏らされる悔しそうな、軽い舌打ちと共に吐き出された言葉。事実を認識しての動揺を何とか押さえ込みつつ、キッと目に力を込めて首を回す、そう背後に感じた気配の方向へと。一体何が起きたのか、それはもうこの時点で明白に取っていたからこそ、リリーはその様に咄嗟の行動へと移ったのだった。
犬が飛び込んできた、それは大きく跳ねてと言う光景をはっきりと麻子は見ていた。避けないのか、と言う自分の疑問の声に応える事無くそのまま立ち尽くし、そして衝撃もないままに気が付けばいなくなっていると言う展開に戸惑いつつ、その流れで視線が動き、ふとした推測を立てる。
そうどこに行ったのかと。そして恐らくあの放物線の軌跡からすると、ここであろうと思しき自らの鳩尾の付近に目をやった途端、不意に視界が眩暈を覚えてぶれて意識を失う。
だがそれは一瞬の停電に等しいもので、次に気が付いた時はそこは自然な風の吹く月明かりの下だった。一瞬、改めてどこにいるのかと混乱したものの、ふと視線を動かした先に見えた見覚えのある神社の本殿の姿に安堵しつつ、どうしてこの様に横たわっているのか、と言う心当たりの無い事にふと心が捉えられた。覚えている限りでは祠に突っ込み、更にはつい今ほどまでと言う物は夢かと思える場所と体験の中にいた。それが真新しく、そして正しい記憶。だからこそ何だか不思議な心地のまま、ぼんやりとただつらつらと姿勢を変える事無くその光景を眺めていた。
(さて・・・戻りましたよ、中身があるべき場所に)
まるで待ちかねていたかの様にあの犬の声が脳裏に響いたのはその続きだった。
(ああ声は出さないで下さいね・・・思って下さればやりとり出来ますから)
思わず口を動かしかけたのを制されたのもその流れだった。何を、との感情がふと持ち上がりかけたが敢えて出さずに、咄嗟に判断で堪えて息を深く飲み込む。そしてほんの少しの沈黙を経ると、再び犬の方から話しかけてきた。
(さっきは驚いてましたねぇ、良い服装でしょう?)
(服装・・・って何よあの服・・・・驚かない方が不思議・・・)
(でも犬が喋るよりは自然ですよね?僕が喋っているの見てあそこまで落ち着いていたのはあなただけです)
(そ・・・それはそうだけど、とにかく驚いたんだからっ)
(そうですか、でも安心しました・・・あなたなら大丈夫だって。さぁ早速始まりますよ。立ち上がって下さい、慣れないでしょうが僕の言う通りにしてくれれば大丈夫です)
一体何が慣れないのか、何を言う通りにするのか、そもそも一体全体、先ほどまでの事を含めて何が起こっていて何が始まるのか、整理とは程遠い状況に麻子の認識はあった。しかしその犬の口調と言えば、まるでもう全てを承知しているとするかの様な具合で全く合致していない。本心ではこれまでに堪えた気持ちと共に色々と尋ねたい気持ちで一杯で仕方ない、しかし反駁しようにもするだけの材料すらまだないのだから、それは無理な話であった。だからこそここもまた従う、後でしっかりと問い詰めようと言う気持ちだけは明確なものにして、その脳裏に響く声に従う。
起き上がる時にふと見た自分の服装が朝に、自ら着込んだそれと同じ濃い色のジーパンにブラウスと言った井出達に戻っているのにふと気が付いた。
(あれ・・・服が)
少なくともそれは、つい先ほど犬と相対していた時に身に纏っていた見慣れぬ衣服ではなかった。そう慣れ親しんで、ごく普通のいつもどおりの服装に戻っていたのに思わず気が向いてしまう。
(良いですから・・・気は抜かないで)
だが犬の、少しばかり筋の入った言葉でその気持ちは遮られる。だから麻子もそこでそれについて考えるのを止めた、とにかく今は従わなければいけないと、そして気が付かないほどの小さな喪失感を心の中に、共に秘めながらある一点を見つめる。
麻子がいる場所からは記憶に新しい、自らが転んだ拍子に突っ込んだ祠を下に見下ろせた。少なくとも壊れているのを除けば、転がる前に見下ろしたのと位置がやや違うとは言えそう変わりは見当たらない、と言うのが正直なところであったと言えよう。
しかし無かった訳ではない、それは祠の前の動く人影。そうリリーと秋の存在が麻子の記憶には無かった、当然、その2人が今、麻子が立っている木の根元へとその体を移した事は知る由が無い。そしてしばらく見つめていると、その内の1人がこちらに気がついたのかこちらに向き直る。そして視線が一瞬重なり合う。
(逃げますよ・・・っ!)
麻子はまだ相手の名前なぞ知らない。ただ最初に振り返った人影、そうリリー。麻子の認識を書くなら髪をポニーテール状に縛っている側、それと前述の様に対峙した上にこちらに向かって片足を踏み出すのを見て、言われるまでも無く1歩後ずさりをしてしまう。
そして続け様に飛んだ犬からの指示には、もう何の異論も挟まずに従った。足は駆ける、向きを変えた時に一瞬足が絡んで躊躇してしまったが、すぐに解くと後はもう一目散に本殿の脇の空間目指して、大きく飛び出したのだった。