「ねぇねぇ、お嬢さん、お嬢さん」
頻りに届いていた波の様なざわめき、その正体がはっきりと聞き取れるとそれは麻子に対して呼びかけて繰る声であった。
「ねぇねぇ、いきなりどうしたんです?飛び込んできて・・・僕驚いちゃいましたよ」
地味な明るさ、そして更には能天気ともうかがえてしまうその声に対して、何かを思うにはわずかな時間を必要とした。何かがあったから時間を要したのではない、何も出来ずにただ空白を作ってしまったと言う具合だったからだ。そしてようやくなせたのは思うのではなく動きだった、閉じていた目蓋を、前頭部にまだ地味に残るじんわりとした痛みに抗しつつ開けては目を細める。閉じられていた事による暗闇から薄暗い中へ、そしてその先に何があるのかを把握する為に。
「あっ反応してくれましたね〜良かった!」
眩しくも無いのに目を細める麻子、つまりどこかで警戒心を抱いているのが明白なそれに対する反応は、底抜けの明るさに満ちていて余りの敵意の無さに思わず目を丸くしてしまう。そして反射的にこちらの警戒していた心を、大いにとまでは行かずともそれなりに解す作用をもたらす。
「ここにこのまま居着かれちゃったらどうしようかな〜なんて思ったりしていましたけど、目を覚ましてくれて凄く嬉しいです!」
地味な勢いと弾み、そして笑いに満ちつつどこかひっかかる所も無いその声、ある種の洗礼と最早言って良いだろう。少なくともこの様な声は今までの記憶の中で聴いた覚えは無く、心当たりも無い。そして今はようやく蘇ってきた前頭部への鈍痛、それによって思い返された記憶もあって、ふとした不快感を催せてしまう。
しかしこの暗さにようやく順応した棹体細胞によってもたらされた、その言葉を発している者の姿の前には言葉に対する感情は小さなものでしかなかった。むしろ許容の範囲、と言うのが実だったのではないだろうか。そして一息飲んでようやく発したのが次の言葉だった。
「何て色・・・」
「ああ酷い!僕のお気に入りの毛色なのですよー!」
ぼそっとした呟きに対する理不尽なまでに大仰で、そして深刻に強く受け止めたと言う気配が見えるもの。だがそれは少なくとも、傍目から見た限りでは面白い印象をむしろ与える物だったと言えるだろう。つまり大いに笑いを誘ったのだ、そして促される様にするっと言葉が続いた。
「だって水色と白の斑の犬・・・?」
「水色なんて失礼な、これは縹色ですっ!」
「縹色?」
「分からないのですか?ああ何と嘆かわしい、その中でも深縹と言うこんな良い色を分かってくれないなんて・・・あのお二方はすぐに分かってくれたと言うのに!」
そう言って頭を抱える仕草をするに至るのはもう狙っているとしか思えなかった、何せその姿は完全に犬なのだから。柴犬をふと思わせる、いやそのまんまなのだから。そんな犬が人と全く大差なく喋り、何時の間にかお座りの姿勢をして前足を頭の上に上げて頭を抱えているのだから。それは全くおかしい光景だった、だが少なくともその場では不審の念は持てなかったばかりか、むしろ面白いとしての笑いをぶつけてしまうのみだった。
「お二方って、あなた以外にも誰かいるの?それに・・・どうして犬が喋ってるのよ、気が付いてみれば」
だがそこで言葉の通り麻子は大きな事実に気が付いた、そう相手が改めて犬と言う事に。前述した通りの柴犬そっくりでいて、それでいて犬らしかぬ妙な色の斑を白の上に有している犬。更に見てみれば何か背中にもあるようだった、言ってみれば何かを載せている、いや縛っている。
とにかくその体自体とは別の何かがその背中ひいては胴体に跨って見られた。だが最後の辺りに気が付いたのは後述する犬が発言し終える直前の事、だからこそ言葉には含まれなかったが注視すると言う事で見極めようと麻子は静かに視線を集中させていた。
「犬!確かに僕は犬です!でも大事なお役目を果たしている犬なんです、とにかく喉が渇きました、お茶にしましょう」
そうすると犬はすっと四つんばい、お座りの姿勢からそれへと変わりくるっとこちらに尻尾を向けてとてとてと奥へ歩き出した。本当に丸い尻尾にその注視していた物の姿、そう背中にあったのは胴体に巻かれる様にして背中の頂点で纏められた注連縄であったのだ。更にはその纏め上げられた所からは四方へ紙垂が垂れており、何かその構造と犬と言う取り合わせが何とも珍妙に見えて仕方ない。
だが犬らしく木の床の上をその四足を忙しなく動かして、更に爪の音を立てて尻尾を振りながら歩いていく様にはそれが邪魔に思っているとかそう言う気配は一顧だに見出す事は出来なかった。むしろ自然と言うか、最早別々の犬の体と括りつけられた注連縄と言う組み合わせではなくそもそも、その注連縄は体の諸器官の1つとして定着している、あるいは元々そうなっているとしか見えない動きの連動の仕方にもふと気が付けてしまったものだった。
「はい、座って下さい」
そんな事をぼんやりと見て考えている間に素早いもので、犬は座布団を2枚加えて戻ってきた。そして1枚をこれまた上手い具合にぽいっと麻子の顔の前に、実はまだ横になっていたその顔の前に置くと自らももう1枚の座布団の上にお座りをしてそう口にするのだ。人であればそれは大変な微笑と共にあっただろうと思える位に目を細め、嬉しさ爆発と言う位に尻尾を振って。最も犬だからこそどう見ても餌とか好物を前にしてねだっている様にしか見えないのが見えないのが肝であるが、それは流石に心の内に飲み込んた麻子だった。
「さあ起きて下さい!話が進みませんよ?」
だが何時までも横になっているのかと犬なりに思ったのだろう、改めてはきはきとした一言を発してそれを促される。ふと心のどこかでムッとしてしまったのは事実だったが、否定したところで確かにこのままでいる訳にもいかないと言う気持ちとなっていた。加えて大体転んだ事による痛みも引いた一方でむしろうつ伏せに横になっている事で、胸やら腹部が地味に苦しく思える様になっていたと言う事情も働いて素直に体を起き上がらせたのであった。
「ああ人間ですねぇ」
そんな麻子の、立ち上がった姿を見てふと犬は呟いた。だがそれを耳にしつつ、いやむしろその言葉にどこかで促されたのかは分からないが麻子はその体を首を曲げて見つめながら軽く両手でなぞっていた。服は着ている、体の実感はある、先ほどまでは鈍い残った痛みも感じていた、また前述して様な圧迫感も感じていた。なのにどう言う事だろうか、見たところ全く体に違和感が無いのである。
最もそう言うには少し語弊がある使い方かもしれない。しかし傷や汚れと言った類が見当たらないと言う事は事実、普通にあの様な転び方をしたのなら服のどこかには土ぼこりは付いているだろうし、木の破片等で破れていても不思議は無い。また足首の痛さも半端ではないだろう、何故なら溝らしき場所に足を突っ込ませて転んだのがそもそもの原因なのだから。
つまりはつま先から足首にかけてが梃子のごとく支点となっていたのだから、良くて捻挫か悪ければ骨折だって懸念されると言うものである。だがこれはどうなのだろうか?痛みが全く無いのだ、先ほどまでの頭の痛みよりも強いであろうと予想される痛みが皆無。これには今更ながら気が付いて多いな驚きを呈さずにはいられないものだった。
「どうしたのですか?」
「どこも・・・転んだ筈なのに」
その反応の具合には流石に気になったと見えて、それまでの軽快さ一辺倒から静けさと疑問を含めた口調へ変えて見つめてきた。それに対して麻子が返すなり、その言葉は納得といった風になって改めて発せられる。
「ああ、それはですね、簡単な事です」
「簡単って・・・」
「ええ簡単です、何故ならお嬢さんは今、あれです。中身だけとなってここにいるのですよ」
「中身だけ?服は着ているわよ」
中身と聞いてまず最初に浮かんだのがある意味では悲しいかな、いやここは麻子の名誉にかけて言えばそこまで普通は想定しない、そもそもその発想はまず真っ先に出ては来ない物の中身と犬が言ったからこそ起こり得たのだ。つまりそれだけその様な事が、それが分離すると言う事が日常的に起きる事ではない、そもそもそう言う事が非日常的にも有り得るのかと人類の、言ってしまえば生命にとって最大にして身近な誰にも必ず言える物の分離について犬は言っていたのだから。
「ああそれにその服は・・・見覚えが無いでしょう?」
「え・・・?」
見覚えが無い服、その言葉を聞いてその視線は下へと向けられた。そして戸惑いの顔は驚き、そしてふと朱を頬に浮かべた物へと変わり、一喝にも近い大きな声が大きく響いた。
「ちょ・・・ちょっと何これ!?」
「ああ、後で説明しますから・・・急ぎましょう!」
だが、この一瞬で彼女が顔色を変えている間に対するその犬の動きと言うのは素晴らしく早いものだった。先ほどまでのやや幼いと言えばそうであろう気配や口調が消える。そこには頼もしさすら浮かべたその言葉と顔を以って、大きくこちらに向かって飛び跳ねてきたのが見えたのだった。