そうして自転車を駆って彼女はとにかくその道が果てる所まで行こうとしていた、来る以前に見た地図や今朝までに民宿の主人と女将さんから仕入れた情報でも本当にここには何も無いのだと言う事は承知していたからこその発想だろう、もし途中で何かあれば・・・例え小さな集落でも、またそれ以外の何かでもあれば行くつもりだったが集落と言うのは民宿の界隈にしか無いと言うし、他は本当田圃と野原、あとは川と雑木林だけなのだ。
実際もう30分近く漕ぎ続けているが延々と同じ光景が繰り返されていく、途中でそのどこまでも広がっている様に見えた田圃の一部が放棄されて荒れた姿が浮島の様に表れたのも見えたが、それを除けば色々とどこに行っても何がしかあるこの日本だとは思えない日本的な光景であるのに日本らしかぬ世界であった。そんな中である変化と言えば手っ取り早いのは雲の流れだろう、しかし自転車であるからそんな事に関心ばかりは向けてはいられない。
とにかく一番関心を、自転車に乗っていて目に入ると言う意味で向けられるのは道路の変化だろうか。この小盆地と外界とを結ぶ唯一の経路であるトンネルの中以来、ずっと続く白亜のコンクリート舗装の道はアスファルトより走り易い反面柔軟性にかけるのか、所々で大きくコンクリートの下の土等が見えるほどにひび割れていたりまた歪んでいる。
そして草の侵出もまた受けていた、まだ青さは残るものの矢張りもう先の短さを感じさせられる色をした草が道路湧きに密集しており、それは脇の側溝を豊かに流れる水の輝きとも相俟ってそこだけを切り取れば夏とも無理を言って見えなくも無い。とにかく長い事それだけであった、対向車も人もいない静かな世界・・・ふとすれば人類が、人類に限らずともその地域の人々が何らかの要因で消えて間もなくの世界とも言えよう。つまり田植えをしある程度手を掛けた後に人類が皆いなくなってしまったのだ、だが健気にも手を掛けられた稲達は無事生育し色を変えて頭を垂らし刈られる時を待つと言う。
だがそれを刈って加工し食す人類はもういないのだ、いや麻子と言う存在はある、しかしどうすれば良いのか麻子は知識としては知っていてもそれをする技術等は満ち合わせていない。加工を待つ物と供給を待つ者だけが生きその仲立ちが滅んだ、皮肉に満ち溢れた救い様の無い世界を黙々と彼女は進み・・・もうこれだけしか無いのだと思ったところで唐突に変化と出くわす展開もまた皮肉なのかも知れない。
「あっ・・・鳥居だ。」
その皮肉と言うのがその単調さの中に不意に現れた鮮やかな朱塗りの鳥居だった。そして何よりもその鳥居を境としての向こう側の道路は石畳の舗装、つまり参道に変わっていた。そしてすぐ近くと言うほどではないがその石畳の先にはこんもりとした緑であっても、その濃さが周囲の植物とは言え草に近しい毎年その命を新たに紡ぎ続ける若々しい色とは対照的な、安定的でどっしりとした濃い緑の塊、明らかな鎮守の森であろうと言う姿が道を飲み込んでいた。
「ふぅん・・・何か面白いわね、ここは・・・凄く立派で最後がこうなんて本当狐に抓まれたみたいな光景と言うところかしら・・・。」
麻子はそう言葉を漏らしつつ持って来た鞄の中から取り出したデジカメでふとその光景を撮影する、何しろこの様な物があるとは誰にも聞いた事は無かったのもあって、どこかで感じる自分だけしか知らないのではないかと言う些細な優越感を持ちつつの事だった。そしてふと気が付く、ここに至るまでの道中一度もデジカメを使う事が頭に上らなかったのを・・・あれほど見事な景色の中だったのにと言う思いと共に。
「折角来たんだし・・・取れる物は焼き付けないとね。」
デジカメをしまうと彼女は自転車に飛び乗った、そしてそのまま漕ぎ出して一回転すると再び今まで走ってきた集落の方向へと向かい始めたのだ。彼女の頭にあったのはとにかく撮って来なかった事を残念がる気持ち・・・そして明後日にはこの土地を離れると言う事情もそれに追い討ちをかけたのだろう。
1日まだ余裕はある、しかし明日が今日と同じく順調だとは限らないし何よりも自分自身も含めて全てが同一ではない。外面もそうだし内面もまた然りだからこそ今、この気持ちの中で存分に感じられる物は感じて巡りたいと言う気持ちがふと芽生えて仕方なかったのだ、本当ならもう少し長くいたい所だが学園祭による休講期間を利用して来れていると言う貴重な機会を逃したくなかったのだ。幸いまだ日は高い、先ほどまで見ていたその光景とほぼ同じ光景はまだしばらくは維持されているだろうからこそまだ見ぬ鳥居の先を最後へと回したのだった。
「考えてみると私って・・・凄く無駄な往復しちゃったのかもなぁ。」
そう呟く彼女の姿があったのはあの鳥居の前だった。体の正面、つまり参道の奥からは強い夕暮れの陽光が突き刺さる様に向かってきて鳥居の後の参道脇に生えている桜並木の作る影が、石畳の白い参道の上に大きなく斜めに奇怪な姿の影を大きく投じている。当然その陽光を受けている彼女と自転車も同様に背後へと影を作っているのだが、少なくとも背後の事だからそれには含まれない。
麻子は影とはならない溜息を吐く。翌々、最も今になって考えてみれば何とも無駄な事をしたものだと・・・確かにあの午前の陽光の下での光景はあの時間帯にしか取れない事は事実であった。しかしそれともう一度同じ行程を往復する手間と労力を考えたら、果たしてそれはそれを対価としてまですべき価値があったのだろうかと言う事なのだ。つまりあの時、せっかく神社の入り口たるこの鳥居まで来ていたのだから、その神社の昼の姿を見つつ付近と共に撮影しながら戻る形で来た道を記録して行った方が得策ではなかったかと思う気持ち、別の言い方をすれば後悔をしていた。
最もそれを思うようになったのはつい先ほどからであって、今の自分から見れば疑問に感じられるその行動の間と言うものは全くそれに疑問を感じずに夢中、否熱中と言うに相応しいほど疲れすら覚えないで文字通り自転車で走り回っていたのだ。その間に見た物は矢張り色々とあり・・・普段見慣れた世界とは違う、原風景とも言うべき光景に大いに魅了されていたものだった。
しかしそれは神社の事について不意に思い出した辺りから変わり始める。最も最初に思い出した時は何であの時に見に行かなかったのだろうと言う物であったが、それは苦笑と言う形が強い自らを悔いる様な性質が殆ど含まれていない類の、見方を変えればやや前向きな悔いの気持ちとも見える。
しかししばらく自転車を漕いで行くとずっとこれまで連れ添っていた太陽が、西の空に向けて行くにつれて目に見えて形を大きく丸くしては色を白から橙へと変えていく。ふと直感されてしまう1日の終わりが間も無くに迫っていると言う事、それから感じ始めた徒労感と言うのが続いての後悔を引き起こしたのだろう。途端に自転車を漕ぐ足の勢いが落ち、これまでその好調な速度を支えていた業務用自転車の特徴であるその重さが急に負担に感じられるようになっていた。
指がふと、自然と普段している様に変速機を弄ろうと動き空気をかき混ぜる。だが業務用自転車には変速機が無いのもまた特徴の1つであると言うのをこの瞬間まで彼女は知らなかった、これだけ今日1日乗っていて気が付いていなかったと言う事だけに今までの気持ちがいかに高揚していたかがわかる話であろう。そしてこの重さを軽減させる術がない事を知った途端、ますます気持ちが削げて行く、平坦な道ですら坂道の様に感じられるその気の重さ、何とも辛くこの場で引き返したくなる気持ちが湧いてくる。
もう今から神社に着いたところですぐに日が暮れてしまうから意味が無いとも、例えまだ太陽があっても逆光と影でろくな写真は撮れないだろうからとも、と色々と思いが過ぎって行く。そしてそれらの無意味ではないかと言う事で一致している気持ちに揉まれる事を経ては、つい先ほどまでの楽しみつつ落ち着いていた心は乱れて果てていく一方だった。
だがそれだからと言って引き返そうと言う決心が付く訳でもない。故に戻ってしまおうかと言う気持ちを抱いたまま惰性で漕ぐ足を進めて、不意に地面に落ちる影に気が付くまで、つまり鳥居の所まで来てしまっているのである。そしてそこであの前述の呟きの場面へと至ったのである、自転車を止め片足を地に着けてからの溜息の後でふと逡巡し心を決める。
「まぁ・・・ここまできたらとにかく行っちゃいましょ、もう仕方ないし・・・さっさと行って完全に冷えない内に帰るに越した事は無いもの。」
麻子は引き換すと言う選択はしなかった。折角来たのだから勿体無い、言い切ってしまえばその前に他の選択をする余地もとい気分は到底無かったのである。つまりここまで来た労力を、幾ら惰性とは言え払ったと言うのにそれを無にするような行動は心情的に許せなかったのだ。だから自転車に跨り踏ん切りがついた故か妙に力を入れて漕ぎ始める、とにかく行くと決めたからには、前述の様に心情もあったとは言え何らかの成果が欲しいのだ。
そうでなければ全ては単なる徒労に帰してしまう。悩んでいた事はもう過去の事、だからこそ神社へ行くと言う選択をした今だからこそ得られる何かを、午前中にこの場所で思った際以上に心は欲していた。そう思ってまず浮かんだのは境内の写真と言うもの、この立地からして人が常駐する社務所等は無いだろうしお守り等を手に入れられるのは例え願っていてもほぼ叶わず無理に思える。そもそも神社たるもの幾ら大きな神社であれ日が暮れる頃には、大抵そう言った場所は閉められてしまうから手に入らなくてある意味当然と出来よう。
よって自然と絞られた目的から考えて、デジカメに境内の写真を収める事だけを考えながらその最初の鳥居の先の桜並木の間に続く連鳥居の中へと行く。参道は意外な事に、神社自体は見たところ丘の上にあると言うのに至るまでは若干の軽い勾配を持っていた。それを利用して加速しては惰性にて急ブレーキとすればそこで道は果てる、自転車が走れる形での道はそれで終わりだった。そこから先はと言えば往々にして苔生しては一方で欠け、一方では丸くなった石段の連なった階段に変わっているのだから。
「何か良い感じね・・・日陰で暗くて、そして西日が漏れてくるそれだけなのだけど良い雰囲気。」
目の前の階段の伝う丘の盛り上がりは最初の鳥居の辺りから見た時は、西日の中でも緑に染まっていたと言うのにこうして間近に見上げると、ただの黒い大きな塊としか見えないのにふあとした面白さを思えてならなかった。そしてそれを一層強調するかのようにその黒さの背後から注ぐ西日が丘の輪郭以上に、その表面を覆い茂っている木々の間を縫う突き刺す、幾筋の金線とも見える出でて来るのは自然とその言葉が漏れてしまう。それは情景と言うに正に値する姿であった。
「カメラに収めたいけど・・・ちょっと厳しいだろうし、まぁとにかく上ろう。」
デジカメを片手に収めて軽く背後を振り返ってから一歩を前へと踏み出す、その石段1段1段は歩き易いと言う点から見ると明らかに歩き難い、1段が普段接している階段から見れば2段はある様な比較的大仰な構造であった。大きく足を上げて踏み上がらなければならないから意外に手強い階段と出来よう、それでいて足をおく面が意外に狭い、少なくとも走ったりして駆け上がろうと言う気にはなれない広さである。
それは逆を言えば下る時に注意しないと踏み外しかねないと言う事なのであり、その大きな段差と共に段の欠け具合が一層そうして注意する事が自然で必須であると根拠としての裏づけを持って強くさせるのだった。最も手摺すらないのだから一口に注意すると言っても考えものだが、気をそうして張るだけで少しは違うものだろう。そうして登り切るまでに数えた限りでは段数はおよそ30段と言うところであったが、あの1段の高さから考えると大体50から60段に相当するものだろう。
そしてその階段の上からは見下ろせる世界は広大な夕暮れに染まりつつある小盆地の姿、近ければ登り口にあった比較的大きい鳥居とその手前の連鳥居にかけた自転車が余程小さく見え、そして一部の金線に自分の影が映っているのもまた目に出来る。
「さてと・・・撮りましょうか、その前にお参りもしておかないと。失礼よ、きっと。」
その光景をさっとデジカメに収めると彼女はさっと境内の中に向かって足を進めた、その瞬間強い木漏れ日が目に入り一瞬目を細めてしまったものの、静かな風の音さえ響いていない境内にその足音は強く伝わる。それは同時に光の中へ向かって自らが歩いている様な思いにふと通じ、先ほどの階段を登りきり見下ろした際に感じた気持ちとも相俟って目を細めた一方で、己の気持ちを高揚させる優越感の一要因ともなっていた。
そして響く鈴の音、拍手・・・音だけでその光景が頭に浮かぶ動作と言うのも意外と他には無いのではなかろうか。そして目をつい今し方、彼女が目を細めた方向へとやると今にも太陽が山と山の合間にその姿を溶かしながら沈んでいく。音あってそれだけで何か分かる動きと音が無いと言うのにあたかもあるかの様にすら見える動き、ある種の2つの対照的な場面においてこの様な事をしていると言う事にふと気が付かされたとも言えよう。そして日は沈む、それは頭を上げたのとまたもほぼ同一の瞬間だった。
頭を元に戻した麻子は目線を上向きにして拝殿の上部に掲げられている神額をふと見つめた後、一礼をしてから背後へと下がり向きを正して石段を降りた。境内の中は目を瞑る以前とは違ってどこか暗さが増していて前述した様な、金色にも近しい輝きとも言える陽光の姿はもう無かった。ただ変わらないのはその静けさだろう、そしてそれを補う様にあるのが黒から濃厚な灰色とも言える幅を持った色合いの闇の気配だけでその中に境内の全てが次第に、一瞬一瞬でどんどん沈んでいる様にすら見える。
「夕方なのに静か・・・まっ夕方だからかもね。」
鳥の声すらしない中でそう漏らして視線を境内に一巡させ、その足で拝殿へと向かう際に見つけていた境内に見える限りで唯一、現代を感じさせられるステンレス製に輝く由緒等を記した看板へと足を運ぶ。今日の太陽がいよいよ沈んでしまったのだなと言う事を見ずに感じられる暗さの中で、この由緒板だけはまだ残るかすかな光の中に光を反射させるその色合いを主張しては書かれている黒い文字を浮かび上がらせていた。
その黒い文字の羅列はまた長くおよそ縦の行にして30近くはあった、読む事自体にそう苦労がある訳ではないしそもそも最近立てられた物だから書体も今のものだし目立った困難はどうにも見当たりはしない。ただあると知ればそれは見えるようで見えない物、そう時間であった。
思い出す限りでは民宿の夕飯は19時からだった、だからまだ時間に余裕は少しはあるが大幅と言うほどではない。時間とはあってないもの・・・とにかくはある程度のテンポの良さと速度がなければとても暗くなる内に読めないと判断したからこそ、一転集中してその一時の全てを読み耽るに回すと全てが不意に静かになった。境内は更なる何者もいないかの様に静けさに落ち、そして密やかな風が靡き出す。
「うう・・・寒い・・・。」
ふと背筋に走る寒さ、麻子は軽く肩を強張らせて咄嗟に目を細めた。