狛犬物語・第1話 上野駅 冬風 狐作
「うう・・・。」
 秋風がすっかり時間に染み込み馴染み込みつつあったある日の夜、一面の田んぼの中に浮かぶ暗い立体の影を落としているのはこの辺りの里山。稲穂と葦混じりの海を一直線に横切る道路から分岐して里山の暗がりの中へと伸びる道の入り口に大きな鳥居が建っており、一定の間隔にて小振りな鳥居がその後に続く。
 道は暗闇に消えると新たな鳥居を潜った先にて、比較的傾斜のきつい階段となりそれなりの段数を経て最後の鳥居の下に終わる。階段の先にあるのは当然ながら1つの神社の拝殿、それに手水舎と1階建の農作業置き場を大きくしたような古びた社務所の姿が灯篭と共に見えた。
 その境内に夜の風が走る、それは静かな音すらしない風だった。しかしどこかで声が聞こえるのは気のせいだろうか?それは木の囁き・・・つまり葉の擦れあう音ではないし秋の虫の声とも違う、そもそもこの地方ではもう涼しさがきつく秋の虫が満足に鳴くには少し厳しすぎるかもしれない。だから基本的に静かな夜の繰り返しなのだが、今聞こえているのはそのどれにも当てはまらない声・・・呻く様な声だった。
「なぁ・・・良いだろう?そうすればお前さんも楽になれる・・・。」
 耳をじっと敏感にさせていればまた新たな声が聞こえた。風に乗って聞こえてくるのだからそれは風上から来ているのだろう、しかしそちらの方角は夜闇にすっかり支配されていてとても普通の神経では気味が悪くて仕方が無い。当然、足を運ぶなどと言う事は億尾にも浮かばずまた抱いて来ても目の当たりとしたところで萎縮して消えてしまうだろう。それほど深い闇に包まれた森の奥からその声は風に乗って聞こえていた。
「い・・・いい、いいんだ・・・帰れ・・・帰れよ・・・ぉっ。」
 その様に聞こえた所で不意に風は強まりそして止んだ。幾ら耳を澄ませても何も聞こえては来ない、それは音の無い風の動きすらない静かな夜。何時の間にか晴れた夜空には無数の星と半月の輝きで青白く染まっていた。

「早朝発生しました高崎線内での沿線火災の影響により、ただいま高崎線、東北本線の運転は大幅に乱れており・・・。」
 東京、上野駅。1日64万人が利用するその駅は今日は朝から大分混乱していた、原因は上野駅を基点として埼玉から群馬にかけて伸びる高崎線の途中駅の線路脇にて発生した火災。始発電車の動き始めてしばらくの時間に唐突に発生したそれにより、一時的に列車の運転が中止されてしまった事によるものだった。間の悪い事にその駅の以北に車両基地が幾つかあり前夜の内に基地に収まり、朝を迎えて順次出発を待っていた多数の通勤電車が基地から出られなくなってしまったのだ。
 それにより発生した車両不足、何よりも区間運休による運用の乱れの影響は高崎線のみならず車両を共通で使用している東北本線を始め直通運転を行っている関係する路線にも広がり、国鉄当局のその場で取れる可能な限りの対応にも関わらず結果として主に首都圏の主要な、特に北部の国鉄線が半ば麻痺に近い状況に陥ってしまった。
 そしてそれは今でも続いていた、既に高崎線の運転が再開されて久しく苛立ちを募らせつつも各駅で待っていた通勤客達を乗せて続々と上野駅に滑り込んで来ているが当然足りない。客を満載した通勤電車が間隔が詰まりすぎて駅の間で立ち往生、一方でその煽りでいきなり次の電車が当分来ない等と言うある意味では正常化へ向けての過渡期らしい新たな混乱を巻くと言う結果になっていたのだった。
「ふう・・・ようやく発車ね・・・。」
 そんな混乱の中、1本の特急列車が上野駅を発車して行った。定刻よりも30分ほど遅れての発車で8割方が埋まった車内ではうとうととしている顔も少なくは無い、何よりも今は朝なのだ。駅は幾らに賑わって街には人が溢れていたとしても大抵の人は皆寝起き、中には電車の中で寝直して駅に着いて目をまた覚ました人だってそう少なくは無い。
 だからこうしたハプニングで時間が出来ると不平を言いつつも、内心ではどこかでありがたがっては瞳を閉じるのだろう。そしてそれは彼女もそうだった、今呟きを放った篠田麻子もこのハプニングに内心では感謝しているそんな1人だった。ただし瞳はつぶらない、じっと時折キヨスクにて買い求めたレモンティーに口をつける以外は過ぎ去って行く車窓に視線を合わせていた。

「はぁ、だから遅れたんだねぇ。どうしたかと心配しましたよ、でも無事に来られて良かった、良かった。」
 麻子が次に姿を見せたのは上野からそのまま揺られる事、3時間余りのひなびた田舎に位置する小さな駅だった。駅の様子からはとても特急が止まる駅とは思えないほどの古さを漂わせているがそれも無理はない。かつては廃線の話があったほどのローカル線にある小駅、当然開通してから歴史こそ比較的長く近傍を走る幹線の迂回線として計画された当時から開業までの間に色々と環境が変化してしまい、特急等と言うものは走る可能性がなくなってしまっていた路線であったのだから。
 そんな普通列車、1両編成の気動車がのんびりと往復する程度の路線がこうも電化され都心からの直通特急が走る様になったのも矢張り環境、特に経済的政治的な要因が変化しての結果であった。とにかくは便利になったのである、そしてこの路線には新たな息吹が吹き込まれたのである。そしてその恩恵を今、麻子は享受していると言うのが今ある現実だった。
 そんな歴史を背負う駅舎を出ると麻子を迎える人影があった、見たところ初老の農夫と言った感じの男。そしてその後ろには如何にも年季の入った、全体として丸みを帯びている愛嬌もふと漂うデザインの軽トラが1台止められていた。そしてその男に麻子は一礼をして一言二言言葉を交わしてから男の開けた扉の中へと足を入れて助手席へと座り込んだ。
「ええ本当、いきなりで無事行けるかな?と思ってしまいましたけど。」
 助手席の扉を閉めてから改めて運転席へと乗り込んだその男と麻子はまた言葉を交わし始めた。親しげと言うほどではないが警戒している素振はない、しかしどこか初対面と言う空気が漂っているその関係・・・何の事はない、簡単に言えば麻子は客つまりは今晩泊まる宿の主人に最寄り駅まで迎えに来てもらっていると言うそれだけだった。
「まぁでも便利になったものですよ、以前は東京出る時となると汽車で行くには乗換えが必要でしたからねぇ・・・今では便利便利、こうして人も良く来るようになったものです。」
「そうなんですか・・・では結構時間がかかったのですか?」
「まぁ、時間の方は20分くらい速くなっただけですがそれでも乗換えなしで行けるのは楽で良いですなぁ。幾ら寝ていても起きれば東京、全く便利なものです。」
 この車中において朝の鉄道トラブルの話はとても良い話の種となった、地元の人間である宿の主人にとってはあの路線の存在は色々と大きいものである事もあり歴史も絡めて色々と語って来てくれるのである。そしてそれを聞く事は麻子にとっては苦痛でなかったのも幸いだっただろう、女の子であるのに幼い頃からどこか男の子と被る様な行動をして有名だった彼女の性向と言うのは三つ子の魂百までもと言う言葉のごとくほぼ変わりはなく、一方では社交的であるので車内には大きな会話の花が咲いていたのは言うまでもなく、それは時間を気にする暇もないほどの大輪の花であった。
 その様に様々な話をしている間に軽トラは駅前の小さな街並みを外れては野を走りそしてトンネルへ入る。入口のポータルには幾つもの車がトンネルと接触した傷を残す軽トラ1台がちょうど良い位の小さなトンネルで、その造りや風格から見ると相当古いトンネルなのだろう。トンネル内には全く照明と言う物が無かった、それでいて長さはかなりある物だから反対側の出口は本当に小さな点としてしか見えていない。
「このトンネルはもう50年も前のトンネルでねぇ、暗いんだよ。電気つけてくれと役場に言うけど予算が無いから無理だ、と言う事で何時もこうなんだなぁ。」
 半ば呟くようにハンドルを操りつつ主人は口を開いた、それに対して彼女は流れには珍しく軽く返事を返しただけだった。一直線のどこまでも広がっているとすら感じられる暗闇、そしてそれを照らすヘッドライト、今の車よりも何処か温かく弱い色合いに照らし出され流れて消えていくその組み合わされた姿に彼女はすっかり気をとられていたからだった。
 トンネル内の模様は見つめれば見つめるほど余計に気が吸い込まれるような錯覚すら覚えてしまう始末。どこか頭がその延々と続く繰り返しの前にぼんやりとすらしながら見つめている内に全てが一瞬色を失った、そして次の瞬間視線を慌てて正面に戻すとそこには朱や黄色と言った秋色に文字通り彩られた色彩溢れる陽光の下の世界が広がっていた。桃源郷と言うには不足しているが少なくともそれは古き良き郷愁誘う日本の田舎、里山の原風景と言えるところだろうか。とにかく何か陽光とは違う温かさに満ち溢れている、そう直感出来る風景だった。
「さぁ、あれがウチです。そろそろですよぉ。」
「あぁあそこ・・・。」
 片手ハンドルになって主人はふとその先を指差す。道路は舗装されていたがアスファルトではなく所々にひび割れの走ったコンクリートであった、軽トラはその上を時折大きく揺れながら通過していく。そして座席の下に入れておいた鞄に手をやろうと麻子が頭を下げている間に次第に風景は流れて行き、いよいよ目的地の民宿へと小さな集落の中に入っていった。


 続
狛犬物語・第2話 田舎道
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