そんな様な事を思いつつ僕は布団の上で寝返りを打った、どうも今日は寝付が悪く目蓋を幾ら閉じても眠気は溢れずにむしろ涙腺が刺激されてかの涙が漏れる始末。どうにも上手く行かないので一旦は消した部屋の明かりを再びつけてこうして思っていたと言う訳だ。
"全く・・・今更ホームシックな訳は無いだろうしなぁ。もう一年経つのだし・・・これが普通なんだから。"
季節は3月、華の季節。白く乾いた季節の残滓を隠さんと言わんばかりに梅桜桃に李と咲き乱れ、緑溢れる稲と新緑の木々の季節の中継ぎでもある。そして繁殖の季節、多く鳥獣にとっては仔を育む季節であってまた植物も花粉を飛ばしあい求め合う。言わばこの一年の活気を生み出す季節とも評せようこの時期は花粉症持ちの僕にとっては中々辛い。幸いに今年は早目から薬を飲んでいたので何とか穏やかではあるが矢張り出る物は出る、ふと鼻をかもうとして街中にてポケットにティッシュが無い事に気が付いて慌てる事もしばしばで風物詩とも言える季節だ。
そして僕にとってはそう行った花粉症に苦しむ季節と言う一方で、昨年から新たな一章がここに書き加えられた。それは生涯初の一人暮らし、大学進学による親元を離れた遠くの土地にて全てが一からの始まりとなる大きな節目でそれを忘れる事は恐らく有り得ない、そこにはこの一年の酸いも甘いも加味されて一層の強い印象として回想されるのだから尚更だろう。
その様な記念すべき季節のある深夜に僕は眠れずゴロゴロとしていた、とにかく前にも書いた様に眠れなかった。一時期、昨年の梅雨の頃に数日もの間と言うもの無性に家が恋しくなって眠れないばかりか何をやるにしても上の空、更には中途半端であったホームシックで苦しい時期もあったが明らかにその時とは違う体そして心。なにかを感じ続けてならない思考。
しかし何よりも眠りたい、そう思う心のある事が最大の違いにして確実な証明であったのだった。だから僕はただゴロゴロとして何時か眠れると信じ、偶然に刺激された涙腺から意図してない涙の漏れるのもどこかで楽しみつつその時が来るのを、眠りにすとんと意識せずに落ちる時を考えが終わってからと言うものずっと待っていた。
そう一旦付けた電気を消して再び布団にもぐりこんでまでして・・・しかし眠気は訪れない、ただ嘲笑うかのような生あくびが漏れて脳が覚醒し妙にさえて邪魔をするのだから始末が悪い事この上なかったと言えよう。数分、十数分と部屋に響くはふとした機会を得て入手したお気に入りの懐中時計の発条の音、チッチッチッチッと静かに微動だにしない。ただ規則正しく刻まれる音は普段なら眠りへと誘う非常に効果的な音なのに今夜ばかりはその音までも僕のささやかな眠りたいと言う思いを挫いている様であった。
「ああ・・・もう、睡眠薬なんて買ってなんてないしさぁ・・・。」
そして僕は今再び布団からその身を起こした、半ば苛立って掛け布団を荒く弾く様に外す。壁とは反対側のコタツの側にずり落ちた羽毛布団はベッドとの間に見事にはまり、まるでそれは谷間を埋め尽くした雪崩の様。それを頭をかきつつ矢張り新たに忌々しく感じながら僕は立ち上がり、特に何も思わずベッドを折りふかふかの新雪よりはずっと性質のいい、最も別物の羽毛布団を踏んづけて横断する。
そして反発によって緩やかに消えていく布団の上の足跡に目をくれる事もせずに、そのまま目の前にある扉を開け・・・じんわりとそして急速に暖房は切ってあるとは言え、まだ暖かい部屋に流れ込んでくる冷気。一寸先は闇ならぬ一寸先の、扉の木切れのただそれだけを挟んだ向こうはそのまま直結している玄関の金属扉の先に満ちた夜の気に犯された空気が満ちていた。
その時にどうしてそう動いたのかは分からない・・・ただ恐らく最も強い推測は先ほどの唐突に練っていた考えに影響されてだろうと思う。そう丑三つ時の鏡に浮かぶと言う死に顔、それを無意識に気にしていたのであろう。そして鏡のある洗面所へと続く廊下への扉、それを開けた先の空気の冷たさは不思議と暗闇にあい、瞳を閉じての暗闇に入れないのをこちらで味わおうとでも言わんばかりに僕は電気も付けずにその暗闇の中に入る。その背後からの電気の明かりは普段は頼もしいのにこんな夜は忌々しい、暗闇を比較的怖がる筈の僕は進んでより濃い暗闇に浸りきろうとその時には半ば意識して足を動かし右手の壁に付いた扉を押す。
押された扉の向こうは完全なら暗闇。少なくともこの扉が押し上げられるまでは暗闇の四角い缶詰であったが開封された今、妙に影の部分だけがその缶詰・・・洗面所の隅に匹敵する暗さをたたえて微笑んでいる。そして顔を軽く上げれば目の前には鏡、そう洗面台の鏡が僕と背後の何とも言えない明かりと闇の混合した色合いを反射して照らし出している。
その鏡からの何とも言えない目に来る反射の光が痛くてたまらなかった、不思議と輝いているように見える鏡に映る自らの瞳も・・・錯覚だろうか、拒む光を双眸として目が放っている様に見えたのは。そして何よりもその顔の形がどこか違和感ある形と見えたのは・・・だがそんなことに気にするまでも無く、小事よりも大事と見えた方を取った僕は光から逃れる事を第一に浮かべ、まだ色濃い洗面所の闇に逃げ込むように扉を閉めて僕は暗闇の缶詰の中に納まったのだった。
大きく息を吐いて僕はその場に腰を下ろした、そこは数時間前に入浴すべく使って以来の場所。風呂場の換気扇の音と矢張りこちらはクオーツ制御の一般的な時計の刻まれる音が交差して響いている中、僕は半ば湿っている足吹きマットを左手に感じつつ扉を背にして軽い息を吐いた。
唸る換気扇、規則正しい時計の針・・・そして唐突な吐息、予測出来る動きと予測出来ない動きを感じつつ瞳を閉じる。余計な明かりは一切ない空間で、目蓋を閉じて完全なる暗闇の中へと自らを誘わんと念じ無心へと行く。
ようやくの悲願達成か、そう言える静かな空気の中次第に僕は脱力していった。疲れが何時もの様に噴出し意識の中で睡魔がようやく形成されそして覆いだす・・・静かに僕を覆ってそして意識は飛びはじめる。確実に思考レベルは低下し覚醒の度合いは下がり行きあとまもなく、重い頭を支えきれなくなった首がかくんと折れてかすかに覚醒するも誤差の内。全ては飲み込まれて一緒くたにようやく染まったのはその数秒も経たない時の事であった。
スースースー・・・
そう寝息もまた規則正しく、洗面所の暗闇の缶詰の一員となって溶け込みそして消えていた。
"は・・・何をこんな所で寝てるんだ・・・。"
僕が目を覚ますと僕は上半身裸の姿勢で明かりが煌々と灯り、風呂場から漏れた湯気に満ちた洗面所の扉に寄りかかる様にして床に腰を据えて居眠りをしていた。足は投げ出されて足拭きマットから外れた部分、つまりフローリングの床の上にかかった足の脹脛が妙に冷えて痺れている様な感触だった。
思うように動かせないのはもどかしいもので何とか宙を手で掻きつつバランスを取って腰を上げ、手をタオルを下げる鉄棒にかけてようやく立ち上がり体を取り戻した。だが若干のじんわりとした痺れはどうにも残り片手だけをそこにかけたまま風呂場を見る、モクモクとあがる湯船からの湯気は洗面所まで流れてくるまでの間にだいぶ冷えたとは言え矢張り肌に触れると気持ちがよかった。
肌が潤い満たされる・・・そう言える感触に頬を緩めて浸ったその直後、僕は顔を逆に振り壁にかけられた時計に視線を向ける。時計の針がさしていたのは午前2時10分と言ったところ、しかしそれを見たと言うのに僕はどこも焦らなかった。むしろ余計に鷹揚になったというか、何時に風呂に入ろうとしたのだったかと言う事すら浮かばない正に無心の状態であったのである。
そして改めて、ようやく完全に足が元通りになったのに気が付くと風呂に入ろうという思いと共にまずは顔を表に向けた。何の事はない、ただ体の向きに顔の向きもあわせようとしただけの事。同時に両手を持ってズボンを下ろそうとズボンに手をかけて力を入れかけたその時に僕はまたも動きを止めた。
そう今度は真正面を、湯気の満つる風呂場でも正確な時を刻む時計でもない真正面の鏡に映る己を視線は見つめていた。まるで何かに吸い寄せられるかのようにしゅんと、呼吸以外の全ての動きを封じてその姿勢のまま写っているのは矢張り己の顔。一日かけてようやく落ち着いたとは言えその名残を残す寝癖の後のある頭髪、そして眼鏡痕の残る眼鏡のない素の顔・・・かけられている筈の眼鏡は鏡の前の台の上におかれていて同じ鏡面に映し出されている。ただ違うのは鏡までの距離だけであとは同じ、その姿をそのままに映し出されてる・・・その筈だった。
"ん・・・?"
一瞬、視界が全て混濁した気配がした。その混濁は瞬時の事に過ぎなかったが不思議とピントがずれてしまったので幾度か目蓋を忙しなく閉じて何とかあわせる。そして正常に見えるようになった視野に移るはこの瞬間に変わる筈の無い洗面所の光景、洗面台に洗濯機、背後の扉にそして己の体と顔・・・顔だった。
「あれ・・・?」
そして口が動き疑問の声が漏れる、しかしそれは鏡に映らなかった。鏡に映っていたのは微動だにしない自らの姿、そしてその顔は・・・暗転した。