丑三つ時の洗面台・後編 冬風 狐作
「は・・・はれ・・・?」
 目覚めればそこは暗闇だった、耳には今の呟きの残響と換気扇に時計の針の音が届き左手には湿った厚手の布の感触・・・洗面所の暗闇の中だった。完全なる暗闇の中で僕は寝ていたのだ、不思議と心が楽であり気持ちは軽いのが何よりの証拠。そしてそれに口元に感じる湿り気の筋がそのことをより確信させる。
「ああ寝てたんだ・・・いや眠れてたんだ、良かった・・・電気付けよ。」
 僕はうわ言みたいに、それでいて確かめる気持ちで一杯になってそう呟き一気に解消させて難なく起き上がり、すっと手を今度こそ躊躇いも無く壁のスイッチに伸ばした。何か夢を見ていたことを思い浮かべつつ、また夢を見る前の事を全く思い出さずにスイッチを入れる。小さな響きに続く暗闇の消滅、暖色系の明かりが全ての暗闇を追い払い暖かな光で満たしたその瞬間だった。一気に夢以前の記憶が再生されたのは。
 夢の再生がもたらしたのは恐怖だった、光に感じていたいきなりの異常なまでのあの恐怖。思わず息を呑むその最中も再生は続き、確実な一撃を僕に与えつつあのぼんやりとしていた夢をも克明に再生を始めた。夢の中でも目覚めた僕は矢張り立ち上がり・・・唯一違うのは元から明かりが点いていて全く恐れていないと言う事であったが、どっちにしろ展開は酷似したものだった。
 ただ夢は結末の直前で途切れそして再生は始まったのと同じように唐突に果てる、夢が途切れた時にその中の僕は鏡を見つめていた。そしてその姿勢と今の僕の姿勢は限りなくまた同じであり、予想するまでも無く顔を上げれば鏡を直視する体勢・・・わずかに夢の切れる一段落前のものであろう。
 顔を上げてはいけない、鏡を直視しては駄目だと僕の意思は急激に猛烈に僕自身へと呼びかけた、しかし神経に伝わる速度は体の慣性の速度よりも遅かった。いやむしろ悪い結果をそれは招いたと言うべきか・・・ようやく伝わった指令はそのままに作用、ようやく体は止まり事無きを得ると言うは夢のまた夢の単なるシナリオに過ぎなかったのだから。そしてかすかに直感として感じつつ言葉として認識するまでに至らせなかった最悪のシナリオ、避けたかったシナリオが現実となってしまったのだ。そう、鏡を直視した姿勢で体を止めてしまうと言う最悪の現実を僕は目の当たりにしていたのだから・・・。
 そして夢には無かった光景を僕は捉える、鏡に写る己の姿・・・否、己でなくして同じ姿勢をした何かの姿を見た。それは獣の姿、正確には獣の顔だった。今恐らく自分がしているようにその獣の顔も鏡を直視した形にて微動だにしていない、その顔はマズルを持ち鼻先は黒く目鼻立ちはすっきりとしている。そして開かれた瞳は細く切れた様な勢いで鋭い、そんな獣の顔だった。
「これが僕の・・・死に顔・・・なのか。」
「死に顔じゃないよ・・・これからの顔だよ。」
 ようやく絞り出せた声、そしてそれに半ば覆いかぶさる様な別の声。口以外は動かせない中で目の前の直視している鏡が不意に溶けた、それこそグニャッと言う表現が似合う様に鏡面のみが回転して微動だにしなかった獣の顔が崩れ変わりに新たな形が出現する。形といってもそれは空洞、鏡面に出来た奥へ続く立体だった。
 そしてその傍らに出来た腰掛の様な形をした半ば下は中空の窪みに何かの動く姿が見える、ゆらゆらと垂らされているのは恐らく尻尾。先端の総は青の毛、そしてその上は上の行くに従って細長い漏斗の様に広がっていく硬質の皮膚に覆われた尻尾・・・蛇腹の白い帯状の内側を取り囲む様にある、青い特に硬質に見える無数に規則正しく重なり合ったそれは電球の光を受けてかすかに輝きを放つ鱗。
 そして腕ぐまれた腕も組まれた脚もそうだった、そこに腰掛けている何者かは明らかに小柄でありながらも尋常では無い気配と姿とをまとった者。青き鱗は全身にあり爪先指先に従えるは鋭い爪、そして大きく頑丈なマズルの顎は何物をも噛み砕いてしまう様な印象があり米神からは鹿の如き角、生やした一対の髭はその中で唯一ゆらゆらと揺れて緊張を解すかの様だったが、この不可解な場にあってはむしろ緊張を増幅させる効果を生んでいた。
「僕の事はどうでも良いよ、ただ迎えに来たと言うか・・・僕自身は君とは何の縁もゆかりも無いけれどご主人様の命令だからね。波長を感じた者を連れて来るようにと言う、そしてその波長に反応したのは君だった・・・。」
 その声に混じるのは威厳と共に若々しさ、僕はそれに対して何かを思う事すらも自発的にはばかっていた。思う事は自由であると言うのに不思議と自らそれを抑制して無心になる様に努めていた、だからこそ意味不明な内容であれども素直に額面どおり能動的に受け入れていたのだろう。
「とにかくだ・・・春は目覚めの季節、それは先ほど君は思っていたから分かっていると思うから多くは言わない。とにかく君はご主人様に選ばれた、眠りに着く前のご主人様に・・・そしてまもなく目覚めるご主人様の元へ君を送るのが僕の使命。さぁ早く、相応しい姿を受け入れなよ。きっと目出度い事なんだから。」
「これは夢・・・。」
 ようやく言葉が出た、そして自らに課していた自制も難なく溶けてまたあの寝付けない布団の中のように思考が溢れ始める。これは夢の続き、いや一度は覚めた筈の夢にいつの間にか戻ってしまった・・・つまりまた眠りに就けたのだと。本当かどうかも分からないと言うのに僕はそれでどこかで喜んでいた、そして何事かと言う目の前にいる相手の言葉はどこか遠い世界の風の音のようだった。

「・・・夢じゃないよ、現実。さぁ・・・新しい君が来た。」
 少しその声が、つまり小さな相手・・・姿からして仔竜と人を掛け合わせたような相手はあきれたような感じに代わっていた。しかし僕の思考、いや混乱した上での妄想は止まらない・・・夢、夢、夢と夢の中と思い続けている視覚の前の洞窟の奥から表れたのは蛍ほどの小さな光。そしてそれはしばらぐるぐると洞窟の入口付近で旋回していたかと思えば、すっと躊躇い無く僕に接近し眉間へ消えていくのが不思議と閉じてもいないのに目蓋の裏に浮かぶ幻覚の様に視覚として見えた。
 スッ・・・と言う音の如く蛍の光は消えた。そして僕は垂直な姿勢になった、いやまるで跳ね上げ椅子の様にばたんと言う格好で姿勢が元に戻ったのだった。体には異変は無い元通りのまま・・・しかし目の前の異変はそのままであの竜と人、竜人の腰掛けたままの姿もあった。
「さぁ始まるよ、終わり次第ここはもう君の世界ではなくなるからね・・・。」
「へ・・・?と言うか誰だ・・・幻覚にしては実感があ・・・うっ!?」
 そっと手をその竜人に伸ばそうとした時、その指先から何とも言えない寒気が全身に駆け巡った。ブルッと来る寒気、体の芯から凍える寒気の中でその腰掛けていた竜人はおもむろに立ち上がり・・・矢張りその小人の様に小さな体を以ってこう尋ねて来た。
「・・・暖かいのがいいでしょう?」
「あ・・・ああ・・・寒い・・・。」
「よしよし・・・では暖めてあげる。」
 そして伸ばされた片手が僕の伸びていた腕の先、右腕の先に触れた途端。あの今浸っている寒気が広がった時の様に暖かさが体を駆け巡った、途端に芯は灼熱化し目が飛び出るかのように思える突き上げが現れる。噴出す汗、そして突き出される舌・・・急激な熱変化に体は狂った様に反応し震え前述した様な反応をそこに加える。
 しかし視線だけはまたも固定されまるで体の異変を知らぬかのように、操作する人間がたとえ瀕死となっても最後にされた操作のままその電源の尽きるまで作用するカメラの様に冷静に指先からの腕の変化を捉えていた。熱の変化の影響か、服は溶けたように消えて跡形も無く痕跡すら残していない。見えるのは強く赤く染まった白い腕、そして先端は黒く焦げ・・・いや焦げたにしては奇妙にもふっさりと頭髪にも通じる柔らかさをたたえていた。
「ふふ・・・よしよし、あと少しの辛抱・・・獣毛が生えてきたね。」
 上の空とは違って頭に妙にこだまする小さな竜人の声、それは何もかもが火焔によって溶かされ行く脳内に静かに降り注ぎ宿る。そしてその声に比例する様に見えている先の腕の変化は進んでいた、黒い箇所、つまり皮膚に沿った黒い獣毛は肘付近までを覆ってそこから先は、鮮やかなある意味美しいともいえる極めて明るいオレンジ色・・・いや俗に言うキツネ色と言われる程よいパンケーキの如き色になっていた。
「ふぅん・・・今回はこれか。」
 皮膚を覆う毛の広がりと共に覆われた箇所は見える限りではどこかすらりと細さが増しているようであった。それはどこか男らしさの無い細さ、言わば異性に通じる気配すらある。
「んぐ・・・ぅぁっ・・・。」
 不意に口から漏れた呻きの頃にはすっかり右腕の変化は終わって胴体、そして全身へと変化は移っていた。心なしか胸が張りそして緩やかに膨らんでいく痛さ・・・そして股間では何かが縮んでいく。そう男として当然あって然るべき器官の辺りからそれは感じられた、風通しの良い様なひんやりとした気配がすーっと伝わってくる。
「んふ・・・ぅぐ・・・は・・・なに・・・。」
「そうかぁ慰み者かな・・・。」
「なぐさ・・・みっ・・・ぃふぁっ・・・。」
 熱は全身を駆け巡り溶かして一段落終えたのか次第に落ち着いていく、しかしどこかほてっているのは否めなかった。また熱とは別に攣るような感触が全身を走っていると感じた次の瞬間、僕は反射的に顎を限界まで上に上げて口から低い呻き声を漏らす。そして顔全体が前面へ向けて硬くなり唇が尖がるとそこが臨界、一気に顎全体が前へ突き出たのだ。そう骨に全てが引きずられるように、辛うじて皮膚が切れる事だけは無くて突き出る。
 それは毛の無い獣の顔、しかしやがて一番後を追う様に首筋へ上り覆い尽くしていた鮮やかな獣毛が、白い内の獣毛と共にその目鼻立ちのすっきりと通った形に変化していた顔を包んだ。口の周囲から下は白く、他は鮮やかなキツネ色に。そして目筋から続く位置に移った耳は三角で、後ろ向きにピンと横になっていたのがオジギソウの葉よろしく起き上がりその見事な三角形を形作る。外側を黒に染めた三角耳を載せた顔になったのだった。

「はぁ・・・ふは・・・。」
 大きく口を開けて僕は荒げた、呼吸を強く深く吸っては吐いて体の変貌以上に呼吸を整えるのに懸命だった。その僕の姿勢はと言えば前屈みで、両手を洗面台についてはぁはぁと口をあけて舌を見せているそれだった。そして顔をひょいとしばらくして上げる、すると今度はその立ち位置を鏡面であった場所に出来た奥へと続く空洞に移した竜人は、その手に何やら大きな物をもっと微笑んでいるかのような口の開け方をして見つめてきていた。
「それは・・・。」
「ああ首輪だよ・・・これで完成さ。」
「そう・・・。」
 自慢げに見せた竜人はその小さな体で浮き上がると僕の背後へと回った。僕はただその姿勢のまま、むしろ付け易い様に首の位置をやや変えてまでしていると異質な感触が毛を介して伝わりそして絞められる。軽い一瞬の窒息感のあとには首に何か巻かれた感触のみ、赤い首輪が巻かれ指で触れるとまるで犬用のよくイメージされる平凡な皮の首輪の様な形状をしていた。
「さて・・・これでいい、君は雌狐になった事だし・・・連れて行ける。」
 いつの間にか手にしていた鎖を首輪に取り付けつつ、小さな竜人は耳にささやきかけてきた。その囁きを聞きつつ僕は・・・何故か体のあちらこちらを首輪に触れた勢いで触っていた。そこにあったのは有り得ない感触そして器官、膨らみその頂点の硬い胸の双球、股間にはあの硬い棒も膨らみも無く滑らかな曲線とその曲線に反する一方で沿う割れ目と若干の盛り上がり。そして全体としての細やかにして柔らかさ基調の全身。
「め・・・ぎつね・・・。」
「そう、君はもうただの雌狐。尻尾を生やした単なる・・・いや人の部分を持った獣に過ぎない。」
「獣・・・人だよ、僕・・・はぁっ!?」
「いや獣だ、わかったね。」
 軽く急に咳き込んだ原因は首輪、そう竜人の小さな手に握られた鎖が引っ張られて軽く気道が詰まったからだ。その瞬間、僕は本能として従順であれと言うことを感じ沈む。沈んだのは自我、そして本能が比例して浮かんできた。
「げほ・・・は・・・い。」
「よし。」
 見つめた先の竜人は満足げに微笑み、そして軽く鎖を引き刺激だけを伝えて緩めた。そして歩き出すのを見て僕は・・・飼い主に付き従う犬の様に忠実に後を追い、前に出る事無く洗面台によじ登る事も無しに飛び跳ねて鏡面の中の洞窟へと飛び込んだ。穴は然程大きいわけでもない、何より背後から閉じていく感覚を敏感に毛と尻尾を通じて感じていた。
 だからこそ駆け足気味になっていたのかもしれない。しかし別段不都合を感じてはいなかったし何よりも屈んでいつの間にか宙を飛びつつ鎖を引く、竜人の後を夢中になって追っているのがその時の僕だった。
「従順に・・・ふふ利口だね。流石ご主人様のお目は高い・・・。」
 そんな僕を軽くチラッと見て竜人は呟いた。
「さぁあと少し・・・君の住まう新たな世界が開けるよ。ご主人様のお目覚めのお相手と言う大役の為の世界がね。」
「キャーンゥッ!」
 そんな僕の口から漏れたのは恭順の意すら込めた同意の人外の言葉、いや鳴声。そう狐の鳴声であった、そしてその目の前に明るい鮮やかな様々な色彩で構成された向こうの世界の様子が目に見えたのもその時であった。

 丑三つ時、全てが寝静まる・・・いや寝静まるべきその時間。人が寝ている間は無防備なのと同じく、その時間は薄くなった壁を乗り越えて異界の者そして波長が最も届きやすい世界として無防備な時であるのかもしれない。そして再び世界が目覚めた時、そこに夢か現実かも分からぬ内に異界へと誘われた僕の姿は無い。


 完
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