コーシーとバター・中編 冬風 狐作
"・・・ほう、雪だ・・・。"
 ある日の事、僕がふと窓の外に目をやるとそこは一面の雪化粧。そしてその上には尚もちらちらと雪が降り積もっていく光景、道理で今日は何時もより冷えるなと感じた訳である。僕はカーテンを、手馴れた手付きとももう言うまでも無く馴染んだ手で車椅子を転がしてカーテンを閉め、お湯を沸かして珈琲を。この位の事は、わざわざ誰かを呼ぶような事ではない。
 最も最近は僕も今年で成年となったと言う事から、色々と身の回りに変化が起きつつあるのも事実であり、そうかつての様な気軽さは無いと言うのも影響しているだろう。ここ数年の間に幼少の頃から付き添っていてくれた屋敷の人々は、次々に辞めるなどしてここを去り今いるのはわずかなもの。最低限の管理が出来るに近い人員しかいないのだ、この様な状態では誰かにやらせるよりも僕自身でしてしまった方が早い場合が多々あるのである。
 だからこうしている様に、他にも色々としており食事の調理とかそう言う事以外は原則もう全て自分でこなしている。自分でこなす様になってから妙に考えが変わってきたのは気のせいだろうか、どこかで今よりももっと動きたい・・・何か飛躍したい、そう言える気持ちが芽生えていたのだ。とは言えこの様な身が思ったところで早々どうなる訳でもない、ただの思い・・・空想やら妄想に過ぎないのだと言う考えをして考えるのだからそれは気安く軽く、そして多く浮かんでは消えていた。
 時間になり湧けたお湯を注いで珈琲を完成させる、本当はサイフォンでするのが好きなのだが手間がかかるのでこう簡単に済ませている訳だ。だから注げばもう完成、手早いもの・・・そして香りを嗅ぐ。何時もと違うのは当然だろう、少し前に最近僕の世話をする様になった男、一応執事と勝手に中で呼んでいる男が自分の気に入っている豆だと言って持ってきた豆を使っているからだ。
 僕としてはその豆は普通だったが、行為を無碍にする訳にも行かないので早く飲んでしまおうと言う事でこうして消費している。なるほど確かに飲む度に微妙な良さがあるのが分かるが、矢張り完全に全てが僕の好みではない。それでも不満に満ち溢れているのではないから飲んで・・・気分転換に曲をかけようと一気に飲んでから動きかけたその時、僕は軽く顎を上に上げて体を振るわせた。そしてそのままの窮屈な姿勢で固まり、そして固まりが解けると共に大きく息を吐き続けて呻き声を漏らした。
「あ・・・グ・・・ううア・・・ッ。」
 呻きに続けての小刻みの震えの中で僕は一旦思考停止し、ずくに息苦しさによって目覚めて大きく呻きながらバランスを崩して横に倒れた。そして車椅子から半ば放り投げ出される様に横になり苦しみに悶える、全身が中から広げられそして皮膚に当たって押し返されと言う様にかき回される・・・さながら幾つものミキサーによって掻き乱されているかの感覚だった。
 僕はとにかく苦しんでただ苦悶の声を、緩急ありつつも上げ続ける。視野は二重になったり霞んだりを繰り返し舌は突き出されてまるで犬の様に息を吐く、全身の痙攣は止まずその為に次第にまだ車椅子の上に乗っていた体も押し出されてすっかり床の絨毯の上に、その口元から漏れた涎を垂らしつつ悶え苦しんだ。
"誰か・・・だ・・・れか・・・ぁ・・・っ!"
 苦しさの余り言葉は出なかった、何とか振り絞ってもするだけ苦しさが増すばかりで唸るだけ。痙攣は当然収まらない・・・そして助けは皆無、気配すらない・・・いや気が付かれてすらいないのだろう。この世界の全てが僕が普段通りと思っている中で僕はただ1人苦悶し混乱と共に絶望感を食み始めていた、僕は死ぬんだ・・・きっと死ぬんだ、多分あの珈琲の中に仕組まれていたんだ劇薬が・・・殺されるんだ・・・不思議とその羅列だけは何の抵抗も受けず思いを深く巡らす事無くして次から次へと噴出していた。

 だがそれに変化が現れたのはまもなく、不意に痛みが引き出し痙攣も小刻みにそして小さくなり・・・息苦しさも内部が掻き乱されるような不快感もまた落ち着いて消えた。残されたのは疑問と苦しみの間に浮かんだ思いのガラクタだけ、後は物理的には倒れている僕と車椅子、そして大きくぶちまけられてもう吸い込まれて冷えた珈琲とコーヒーカップだけ。
 まるで僕がドジして転んだかのような光景を首だけを動かして確認し、軽く苦笑い・・・そして助けを呼ぼうと這おうとした時に僕は奇異な感覚を覚える。そして浮かぶは驚きでしばし沈黙、そして恐る恐ると動かし・・・驚愕更には懐かしい感覚に呆気にも取られた。そう腰から下の感覚があるという事に、何よりも足が動くと言う事に。這うのに動かした腕に合わせて足が動いた、それは驚かずにはいられない。
「足が・・・動いてる。」
 その一言で僕は大きな何かを強く噛み締め、そして体を手を支えにして持ち上げる。正確には上体を起こしてその際にバランスの良いように足を横にしたまま軽く動かしただけだが、それは足に深閨が通じ意思によって動かせる以外の何者の証明でもなかった。
「動いてる・・・足が・・・治った、どうして・・・。」
 もう一度軽く足を折らせる、意思の如く・・・足は従った。くの字により近い形に動いた足は確かに動いていた、その足を幾度か撫でるとその肘を折り撫でた掌を見つめる。掌には確かに足を撫でた感触がある、それも動いていた足をだ・・・その瞬間僕は歓喜を爆発させる一歩手前まで一気に押し進みそのまま行けば、と言う所でふとした違和感にそれを止める。
 その違和感とは何かが自分の体の下敷きになっており動く度に尾てい骨の付近が引っ張られる・・・と言ったものだった。今までに感じた事の無い違和感に、当然今までに感じた覚えが無いのだから懐かしさの欠片もあろう筈が無い異質の感覚。それが自分と一体の様に感じられるから始末が悪い、だから僕は確かめるべく手を後ろに回し何か太い綱の様な物を掴む。掴んだ感触は手と同時に圧迫として僕は感じていた、だからいよいよ奇妙さだけが募って首を曲げると共に掴んでまま持ち上げて視線の中に入れた次の瞬間は、あの病院で目覚めた記憶よりも痛烈に記憶に残る事だろう。
「これは・・・え・・・。」
 それは太い縞の綱、いや綱にしては芯があり暖かさがあり何よりも綱自体を染めれば済む事なのに、ご丁寧にも綱はふさふさで毛に覆われてあたかも虎縞の・・・橙と黒で構成された文字通り毛皮に包まれた綱。その綱が何処から伸びているかと手を這わせると、途端に強い脳底から脳を揺さぶる刺激が這わせると共に来る。だが耐えつつ・・・と言うまでも無く達したそこにあるのは己の肉体、そう背骨の終端付近・・・尻の割れ目の上。そしてその根元の周辺にも同様にふさふさの毛で埋め尽くされていた。
 僕はそれを突き止めると共に何も思わぬ無意識で空いていた片手を挙げ、ふと手を耳に被せる困った時にする癖をしようとし・・・またも新たな発見をした。耳が消えているということ、そう顔の脇の定位置が平坦で耳の痕跡が跡形も無い事に気がついたのだ。だが音は聞き取れている、むしろ鋭敏に細かな風の流れすらわかる・・・それが風の流れと言う確証は無いから言い切れないが、風の流れだと本能的に察せられるのだから言うしかない。
 そしてそれを感じている場所に、毛髪に覆われた中にあるそこへ手を恐る恐る動かすと薄い毛に包まれた皮があり・・・ラッパの口の様に外を向く格好で、観葉植物の葉の様に丸く開いている物があった。そう耳だった・・・そのままもう片側で同じ事を繰り返し、改めて確認する。耳の異変が起きた事を、尻尾と共に耳が異質な物に変貌した事を知るのだ。


 続
コーシーとバター・後編
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