茶色の誘惑・前編 冬風 狐作
「ふーんこれを飲めば良い訳ね・・・。」
 蝉の鳴き声響く梅雨も終わりの7月の末、本来なら梅雨は既に去っている筈なのであるが今年は例年に無く遅くもう8月もほんの目の前に迫っている今日に至っても居座っているのであった。そんな中いわゆる親父スタイルと呼ばれる白の肌着にパンツ一丁、片手には団扇を持って窓を全開にしそよそよと流れてくる風を少しでも、その場所だけでも強くしようと言うのか分からないが扇風機を回して隣に置いている男の姿があった。
 彼の名前は桐野透、大学一年にて初めての夏休みをつい今日から迎える18歳の若者である。そんな彼が感心した様に呟き前にしてその中身を片手に吊るして見回している物、それが今回彼が応募したバイトで使う代物だった。彼のこの夏するバイト、何でも最近開発されたばかりで未発売の健康ドリンクを一ヶ月間のみ続けモニターをすると言うものだった。
 一ヶ月間飲み続け、飲んだ度毎に感想を書き溜めて30日後に回収に来た際に渡す・・・そんなバイトに支払われるのは5万円。この価格が妥当なのか何なのかは正直言って高校時代まではバイト禁止と言う校則に真面目に従い、校則に従っている様に見せかけてちゃっかりとバイトをして稼いでいた友人達を眺めていた桐野には分からない。
 加えて彼の中でバイトとは憧れであると共に未知の世界であったのもあり、正直給料云々よりも一度はまずはバイトをしてみたいと言うのが本音だった。とは言え始めてであるから成る丈自分に負担にならない物をしたいと、密かに思っていたそんな矢先にふと目に見たのがこのバイトで未経験者でも安心して出切ると言う文句にホッと密かにしていたのは否定すべき事では無かった。
 そして応募から二週間後の今日に届いたのが一抱えもあるダンボール、中にはぎっしりと1日2本と言うノルマ分にあわせた健康ドリンクが瓶詰めにされてぎっしりと入れられており、その他には幾つかの説明書が入っていた。上の無造作に乗っていた説明書類を除けて広がった光景は正に壮観な眺めだった、茶色に白い蓋の頭そして白いラベル・・・ラベルには特に目ぼしい言葉は書かれていない。特に商品名も何も決まってはいないのだろう、ただ一言「試供品」とだけ黒くブロック体で印字されているだけで、それは地下鉄の通路などにある空いた広告スペースを連想させられる物であった。
「効能は疲労回復、滋養強壮に体質改善・・・何だか良い所ばかり集めた見たような気配だなぁ、本当の所はどうなんだろ。まぁ今から我が身を持って嫌でも感じる羽目なのだけれどね・・・。」
 ふとためしに抓んだ1本を傍らに置き説明書をちらちらと読む。半分飛ばし読みだが桐野としてはそうやって何遍も読み返した方が、一気に真面目にじりじりと読んでいくよりも頭に入る・・・そう感じていた。だからじれったく思われるかもしれないが何度も何度も読み返しそして頭に入れて揉む、そしてしばし取り止めの無い気侭な事を考えると外に出しておいたままにしておいた瓶を元通りに戻して冷蔵庫に全てをしまう。
 小さな冷蔵庫の半分がそれで埋まったが元々何も入っていなくてもったいない位に思っていた物だから、それだけで中々に満足に思い明日からの試供の日々にどの様な味であるのかをふと思いつつ扉を閉めてパソコンの前に腰を下ろした。

 そして翌日、テレビはようやく成された梅雨明け宣言を報じる前にて朝食を取った桐野は、早速用意しておいた件の健康ドリンクの瓶を開けて飲んだ。しばらく外に出しておいたせいで朝からの夏本番を思わせる暑さの中にて汗をかいた瓶を一気に空にする。冷蔵庫の中でずっと冷やしておいたのをしばらく出しておいた為に、冷た過ぎず温過ぎずと言う良い塩梅の温度になっていた液体は喉越しも良く味も不味くは無い。
 そう決して美味い訳ではない、とは言えそれは不味くて飲めないと言う代物ではない。何とも言いがたいのだ。恐らく一番適当なのはほんのりとした甘さだろうか、多少の渋みがそれと対称の妙を成しておりそして引き立てている。中々に上手く合わさったものだと感心しつつ何時も通りの日常を送り始めた、少なくともまだ何かしらの効果は実感出来ていなかったのがその時の状態だろう。
 そして夕食前に再び飲む、1日2回。これがノルマであった、飲んで飲んで書く・・・その繰り返しだが味も悪くはなかったのでもう苦になるとは全く考えていなかった。それよりも今日は飲んだせいか、それとも飲んだ事でそう思い込んでいるだけなのかもしれなかったが普段よりも上機嫌で色々と捗ったのは確かだった。
 ずっと放置していた部屋の片づけから洗濯物をきれいに畳み、そしてたまっていた新聞を資源ごみとして出すべく一箇所に纏める・・・これまでどうにも面倒臭がってして来なかった事を淡々とこなせただけですっかり気分は上々で晴れ渡っていたと言えよう。その後その日の感想を書き止めると普段よりも強い眠気を感じたので早めに床に就いた。そして翌日、翌々日と飲み続けていく・・・。

「あっもう終わったの?じゃあこれもしておいて。」
「わかりました。」
 盆も過ぎ冷蔵庫の中も大分空いて来た時期。登録してある派遣先から斡旋された棚卸バイトの為にそこそこ離れた土地にあるバイト先へと複数人で訪れていた桐野はふと気が付くと、それぞれに配分された仕事を次から次へと手際良くこなして行く自分がいる事に気が付いた。例を挙げれば同じ仕事であっても他人が1している間に3はさっと終えてしまうと言う感じか、とにかく倉庫と店舗を行き来して重量と嵩のある物も数多いと言うのに小物でも扱っているかの様に軽くスラスラと成し遂げてしまうのである。そして全く無理は感じていないししてもいない、ただそうだからこそそうしている・・・それだけで全くの自然であった。
"こんなに俺って身が軽くて力持ちだったかな・・・?"
 余りの仕事振りに一緒に参加したバイト仲間、そして派遣先の人々から驚きと感心の目で見られつつ淡々とこなし本来の仕事とは別の事までも時間内に任せられてしまった桐野は、全てが終わり手渡しにて給料をもらって家路に付いた桐野は少し奮発して・・・最も距離がある事もあったがグリーン車に腰を下ろし、鮮やかな夕焼けが今にも消えていくそんな西の空を眺めていた。
"まぁ今更だけれど・・・。"
 グリーン車と言う事もあって、また通勤圏の端に近いと言う事もあってグリーン車の車内に人影は疎らだった。少なくとも周囲5席に人の影の無い事を確認すると彼はまずは力瘤を作り、そして服を持ち上げて腹を直接触り見る。返って来た感触はこれまで長年見知ってきた物ではなかった。
 それはぷにぷにとまでは行かずとも多少のハリを持ちつつ柔らかい腹筋・・・ではなく柔らかさと言うよりもしなやかさ、そして本当軽くではあるが割れ目とメリハリの利いた腹筋がそこにあった。そして腕には確かな力瘤・・・弛みは無い頑強な腕に鳩胸も美しい胸が少なくとも手の感触越しに感じ取れた。そして彼はその場ではただ無言でそっと手を離し服を元に戻して再び車窓に目をやる、折りしも待避線に対比している貨物列車のカラフルなコンテナが流れる様に過ぎ去って行った。

  「ん・・・何かムキムキ・・・?」
 電車内で手の感触越しに感じ取った自らの体。桐野はあの感触を知ってから己の体が気になってならず下車駅の改札を足早に出ると、この頃は暑く夜でもすぐに汗をかくからと敬遠していたのだが久々に目一杯足に力を入れて漕ぐ。夜の盆過ぎの普段よりは若干車も人も少ない夜道、その路肩をそれこそ自転車をぎしぎしと軋ませながら飛ばしていく。
"空気入れとけばよかったな・・・失敗した。"
 飛ばすには少々タイヤの空気が足りずロスが多い。その事を残念に思いつつアパートの駐輪場へと普段よりも若干早く滑り込むと、鍵をかけるのもそこそこに室内に入り汗も拭かずに服を脱ぎ洗面台の鏡に身を写す。そして納得する、あの感触に・・・以前に覚えのある記憶の中の自らの体とは大いに様相を変えている事に。弛みも隙も見られない引き締まった己の肉体、見事な鳩胸に縦割れの腹筋、適度にそして標準以上についた腕の筋肉、太股は太く道理で何時もよりも自転車が飛ばせた訳である。
 そうでなければ5箇所連続している信号を一気に、それも全て青の内に通過出来る筈が無い。これまでは最も良くて4箇所を連続して最後の信号で止まる・・・それも4箇所目は黄色点滅から赤へ変わりかけの時に何とか通過した有様だったから、それを思い返して考えると5つ連続通過全て青と言うのは異常な事態と言う事は水分不足で軽い頭痛の様な物を感じている頭でもすぐに分かる事だった。
 そしてその驚きと共に自らを観察する目で彼は見つめる、引き締まった肉体、それは彼と縁遠い代物だった。かつてそれに憧れて少しは腹筋やらダンベルやらをしてかなりの日数を重ねてようやくわずかについたのを覚えている。しかしそれに浮かれて数日放置しただけで気が付いた時にも元に戻っていた、以後そう言った努力はした事がなくただ憧れその内には憧れすら無くし、考えの範疇の外に置いた逞しい体・・・それが今我が身についているのである。驚き以外の何者でも無いと当時を振り返りつつ思う。
 唯一思い当たったのはあの健康ドリンクのみ、ふと脳裏に最初に目の前にした時に見た体質改善などの文字が過ぎる。だが、今目の前にある体の変容は改善所ではなく大きな変化以外の何者でも無い、そしてその夜も揚々と残り少なくなった健康ドリンクを飲み干すとその効果を手放しで褒める感想を書いて床に就く。  続


茶色の誘惑・後編
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