茶色の誘惑・後編 冬風 狐作
 それからまたしばらく日にちが経過したある日の朝、冷蔵庫の前にて膝を付く姿勢となって桐野は中を覗きこんでいた。ほぼ一月前にはこげ茶色の小瓶で埋め尽くされていた白い中身は今やすっかり元通り、広い箇所の方が多くこげ茶色はほんの片隅に固まっているだけであった。
「はぁ、もうこんなに飲んだのか・・・飲み終えたらどうなるんだろこの体、また元に戻ってしまうのかなぁ・・・。」
   そう中身を見ながら桐野はふと感じる、あれほどまでに冷蔵庫の中を埋め尽くしていたこげ茶色の瓶が無くなる代償であるかの様に自らの体は筋肉が付き逞しくなった。心なしか背が伸びた様にも感じられ体も軽く、顔には壮観さを漂わせているらしい。そう数日前にふとした用事で大学へ赴いた際に、教務課にて顔見知りの中の良い職員に言われ、傍らにいた別の女性職員からはとある人気アイドルグループのメンバーの顔みたいだとされる始末。
 自らとしては変わった意識等更々無いのだが、そう言われるからには何がしかの変化があったと見て良いのだろう。周りから見る人の目から見て変わったと言われるのは嬉しい反面、どこかではふとした恐さと漠然とした不安を・・・知らぬ内に、己が気が付かぬ内に変わり周りは認知しているのに自らは認知していない・・・そして乖離する。そんな事を一抹にふと抱かずにはいられなかった。
 その様にしばし思いを馳せつつ、冷蔵庫の扉を開けて同じ姿勢のまま茶色の残りと対峙する。後数日にて尽きるこれらとの別れが何だか惜しくてたまらなかった、こう一ヶ月も幾ら試供品でバイト故だからとは言え1日2本欠かさず飲み続けて来た結果、それは最早日常に必ずある姿となり日々の習慣の一部ともなっている。言って見れば心を通わせる仲と言うのは言い過ぎであろうとも、それに劣らぬ一身同体としての関係であると見る事も出来よう。
 そんな訳だから彼が次に取った行動はある意味ではその感傷の気持ちを抑えたいが故の、彼なりに無意識の内にふと考え付いたものだったのかもしれない。直前、しばし思いに耽った桐野はいきなり手を冷蔵庫の中に突っ込んだ。そして残っていた瓶を全て手に取り外に出し、背後にあったステンレスの調理台の上に並べそれらの封を全て切る。
 封を切ったその手は冷蔵庫に並んで置かれていた数段程度しかない食器置き場に伸び、中から通常の物と比べてやや大きめなコップを取り出し中身を全てその中に注ぎ込んだ。液体の色は淡い琥珀色、一見するとどこぞの上質な酒の様に見える健康ドリンクの中身数日分に口を付け彼は一気に流し込み始める。
 それは全く持って一気飲みと言う言葉に相応しい豪快な、そして一思いに全てが済んだ飲み方だった。見る見る間に中身を減らして自らの中に納めた桐野は、全て空になったコップを口から外し強く握って大きな息を、次いでげっぷを吐くと瓶と共にコップを投げ出す様にその場に放置した。
「ウッ・・・ウクッ・・・カハッ・・・ハァッ・・・。」
 そして鼻息を荒くし興奮した様になりつつ、どこか瞳も妖しく輝かせて薄暗い台所の隅の角をしばし見つめる桐野。次の瞬間にはそれこそ短距離走の選手の如く床を蹴りそのまま台所から生活スペースである居間に飛んだ、そしてベッドのシーツの上に大の字になって横たわる。その後はしばらくのた打ち回る様に掛け布団相手に格闘を1人展開すると今度は螺子の切れた人形の如くぱたりと動かなくなり、静まり返った部屋の中静かな寝息を立て始める。
 まるでそれまでの一騒動が嘘であったかのように穏やかな光景だった。しかし唯一痕跡として掛け布団を抱え丸め込むように手にした格好で安眠に沈んでいるのが、寝相の良い桐野にしては珍しい光景としてこの場しか知らぬ者の目に映らせつつ彼は安眠を貪る。ただそれが束の間の貴重な休息の時と言う事を、何よりも彼自身があの様な行動に出た事を、の両方を知らぬ内に夢の無い黒い限りの睡眠を目覚めまで摂り続けるのだった。

「・・・ふぁぁ・・・朝か・・・。」
 翌朝、目を擦りつつ生あくびを噛み締めながら桐野は目覚めた。ぼんやり・・・とは不思議とせず一度生あくびをした後はどこかすっきりしており、それは徹夜明けにて感じる感覚と酷似していた。
「何か今日は目覚めが良いな・・・珍しい・・・っとそうだゴミ捨て・・・?」
 ぶつぶつと呟きながらベッドの上で立ち上がった姿勢より続けてカーペットの上へと片足を先に下ろす。軽く飛ぶ様に残った片足を外した次の瞬間、軽い痺れがその外したばかりの上に当たる足から全身に響いた。余りに前触れの無い唐突な事であったから、桐野は何が起きたのか把握出来ぬ内に軽い思考停止を起こして何をする暇なくバランスを逸し、先に下ろした片足を付きヤジロベエの様な姿勢からそのままカーペットの上へと倒れた。
 膝が当たり胴体が落ち顔がぶつかる・・・脳天には前頭葉からの目眩にも似た衝撃が走り視界が混乱する、そしてそのまま起き上がる事は無かった。不思議と痛みではなく衝撃だけが走り抜けた後、横たわった肉体の至る所から沸き起こったむず痒さがその代わりとなって彼を苛んだのだから。苛むむず痒さは表面のみならず、骨格と言った体を構成する内部からも同時に起こりどれが表面からでどれが内部からなのか区分けを明確につける術は無い。
 ただ一体となったむず痒さはある種の快楽・・・気持ち良さとして彼の神経を犯し脳を犯した。快楽は時に人を狂わせると言う、実際つぼにはまった落語での笑いなどは正に抱腹絶倒と言うもので楽しいのだけれど何処か苦しい。酷い時にはその辺りをのた打ち回って笑いがようやく終わった時には、異常なまでの消耗を感じている経験は誰しもが持つものだ。
 それは痛み等の苦痛とされる他の感覚には無い特有の物だ。痛みならただ痛いだけだが笑いは楽しいと言う快楽と共に、体力の消耗や焦燥感と言ったものをも伴う場合が往々にして見られるのは否定出来ない。そしてむず痒い時には思わずその箇所を掻いて痒さを余計拡散させるのが生き物の性、耐えられないむず痒さの転化した快楽は恐らくこの世に存在する如何なる麻薬よりも甘美で危険な物なのだろう。
 何故なら楽しみと苦痛が同時に来るのだから。そしてそれに犯され苛まれた桐野がどうなるかは想像するまでも無い、彼は笑い声こそ立てはしなかったが息も絶え絶えに荒くなりのた打ち回る。余りに強い快楽は、ベッドや机の脚に彼の体が当たった際の痛みや衝撃すらも吸い込んで同化し快楽としか感じさせない。そんな末期症状とでも言う感に置かれた桐野は、もう何にも気を払う余裕は一分たりとも持ち合わせていなかった。

 桐野は自分の体が何処までで何処からが外なのかすらも理解出来ない位に狂っていた、今の彼に体の限界は存在しなかった。周りにある何処までもが自分であり自分ではなかったのだから、だからこそその体に起きつつある変化に気が付く筈が無い。外から見れば断続的に激しい発作の如く痙攣を繰り返す桐野の体はその時点でもう異様だった、一応現時点ではその外貌は人を保っており何とか見てくれはなっている。
 しかし翌々見ればその体表はあの小麦色ではなくなっており<それとは違う色に染まり質感も何処かおかしい。色が違う事も然る事ながらその色が肌の色という感じがしないのだ、肌からやや浮いた様な質感と言えばいいのだろう。こんもりとしていると言うのが一番的確なのかもしれないそんな体表、それは白と青の2色で構成されている。それもただ無造作にではなくある種の規則性・・・滑らかな均整の取れた模様となってそこにあった。今や全身は何時の間にやら息を付かせる間も無く覆い尽くされると、幾らその色の柄が模様としての規則性を持っているとは言え人の体の形には酷く不釣合いで似合っていない。
 明らかに違和感のあるのを察してかは分からないが桐野の体は能動的に、それは決して桐野がそうする様にと思ったのではなく本能的とも言える体の判断によって形を変え始めた。長い手足は短くなり新たな節を得て屈折する、縮小し切った掌に足の甲の裏側には柔らかく黒い固まりが浮き上がって肉球になる。そして殆ど痕跡に近くなった指の先端には、短くなった指をわずかでも代替しようかとでも言うかのごとく長く鋭い爪が姿を現し完全なる獣の手足へと変貌する。
 手足の変容、あわせて他の部位もまた変化する。胴体は痙攣と共にまずは内臓が、そしてその後の小刻みな動きにあわせて新たにあるべき位置へと収まる。それは下腹部・・・彼に出来ていた分厚く均整な形となっていた腹筋を下から押し上げる様に奇妙に膨らませ、それに応じる様に結果として腹筋が分散する事で収拾がつけられた。薄くなった腹筋の膨らみ、一見するとビール腹の様になった下腹部ではあるがそれも一時の経過の見せる仮の姿に過ぎない。次いで胴が変容・・・これは首の変化に合わせて変わった後には全く自然に治まって姿を見せていたのだから。
 そして頭・・・正確には首が消えた。鼻面を頂点として盛り上がった顔はその先端の穴付近を黒く湿らせて止まると鼻面に沿い眉間そして額にかけて青の、それ以外は白に染まり毛で包まれる。盛り上がった鼻はすっかり突き出た所で動きを止めてマズルとなり口は頬へ向けて大きく開き扁平な、形の似通った歯は鋭さを得た牙へと変わりその間に長い舌がずっと昔からあった様に居座り横になっている。
 マズル、そしてだらっと涎の筋を漏らす獣の口・・・なだらかな曲線を持った傾斜となった額。顔全体が前に伸びるのに骨格を肉を提供したかの様にあわせて急速に首は短くなり、胴と頭とが接触し違和感なくそのままつながり癒着する。閉じられた瞳は黒くその存在を白い獣毛の中にて主張し耳は三角にぴんと2つ立ち小刻みに震えていた。締めくくるは尾てい骨、軽く背筋が震えたかと思うと尻尾の痕跡としての尾てい骨の付近の獣毛の海の中から何かが・・・尻尾となる物が突き出てきた。
 瞬く間に伸びたそれは一定の長さとなって落ち着くと尻尾を生やす。青いフサッとしつつも狐とは違ってどこか落ち着いた印象のある尻尾の流れに沿った獣毛、それを身に纏った尻尾はダランと垂れて床に転がったのだった。それで全ては終わった、眼鏡をマズルの前に落とした格好で・・・その様に大切な眼鏡を無碍にする事が無かった桐野はもう姿は無かった。そこにあるのは青に白と言う毛並みをした一匹の獣、今はまだ静かに寝る狼なのだから・・・。

 そして翌朝、カーテンを閉めた筈の部屋に残暑の朝日に蝉の声が風に乗って流れ込む。それは破れたカーテンと窓ガラスより部屋に入り込んでいた。後日、桐野のモニターしていた新開発との触れ込みであった健康ドリンクが発売されたと言う話は聞かれていない。そしてそれは桐野の行方にも言える事であった。


 完
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