清掃人・前編 冬風 狐作
"ここは・・・どこだ・・・?"
 気が付くと冷たい石と水の感触、視界を開けば辺りは乳白色に包まれて何も見渡せない。ただ音だけは聞こえた・・・それは轟々と言う力強く地の底から響いて来る様な響き、水の流れる音だった。それもただ静かに流れているのではなく大量の水が一気に流れる音、そう意識した瞬間に不思議と様々な感覚が戻ってきたのは気のせいではないだろう。
 体の腹部から下に感じる冷たさ、軽く感じる引っ張られる流される感覚と顔や指先に感じる空気、それに入り混じった濃い多量の湿気そしてわずかな風。色の正体は霧だった、その霧の下には黒々とした無数の大小様々な形をした石が転がっており、そのどれもが黒く染まり濡れていた。
 何が自分に起きたのか。それを彼はようやく思い出した、大雨の降り頻る中を慌てて下山していた事、足元が崩れて身が若干の土塊に石と草を巻き込んだ物と一体となって、空中へ投げ出され落下して行った事を。その時から今、目を覚ますまでに何があったのかは具体的には分からない、ただ途切れた瞬間の記憶が全身に強い激痛と衝撃に加え、硬く柔らかい何かに包み込まれていくのをはっきりと覚えていた。
 その事から考えられるのは・・・と思い至った時、急に痛みが脚のふくらはぎの辺りより生じた。いや気が付いたと言うべきなのだろう、とにかくふくらはぎは水の中であるから、どうやら傷口に水が染み渡っているのは確からしかった。体は鉛の様に重く疲弊していてとても動きたくはない、しかし痛みは刻々と増して疲れとは別に、その痛みから逃れたいとの欲求が募る方が彼は耐えられなかった。
 その感覚に従って痛みで重い体を、水中から岩の上に引き摺り上げて立ち上がる。そして水面から離れた場所に何とか体を持っていくと、立った姿勢を保ったまま歩き始める。足元が悪く思わずよろめいて滑る時もあったが、何とか転ばずに片足を引き摺りながら見つけた崖の岩肌を伝い、ただただ助からなくてはとの思いから水が流れていく方向、つまり下流に向けて足を動かしていった。

「第三閉塞進行、制限65!」
 機関士は口にするなり、マスコンを動かしノッチを上げる。すると後方からモーターの唸る音が高まり、速度計の針もまた時速35キロから時速65キロへ向けて静かに動いて行く。この区間はカーブが連続している為に時速が路線としては95キロの所を65キロに制限されている。加えて今日は線路工事と言う事もあってこれまで一時的に35キロにまで速度制限がかけられており、ようやく工事区間を抜けた事もあって加速し始めたと言う訳だ。
 列車は都市から都市へを結ぶコンテナ貨物列車、この区間は季節もあって山間の彼方に見える空は淡く青くも紅にも見える色合いとなり、ふと心和ませられる光景が広がっているのだが、今日は濃霧の為に、そもそも夜なのだから見る事は叶わない。
 とは言えつい先日の昼に通過した際に見かけたばかりであるから、霧と夜の帳の向こうの姿は記憶の中の姿と大差ないのだろう。むしろ気になるのは目の前の濃霧と言えようか、この山越えの区間、特にこの今差し掛かっている深い谷間にかかる鉄橋の付近はその地形が故に霧が一度出始めると、それこそ濃くなってたまり込んでしまう。
 故にしょっちゅう運転見合わせになると言う難儀な区間だった。今のところはまだ基準内、だからこそこうして運転を継続しているのだが、それでもこれ以上酷くなったら恐らくそうなるだろう、と予測出来るからこそ、入ってしまえばそれから何とか解放されるトンネルに一刻でも早く入りたく、気持ちがどうしても焦ってしまうが、そこは抑えてハンドルを掴む手に力を入れて慎重に前を見つめる。
 マスコンハンドルを通じて伝わってくる重さは、機関車とその後に連結されているコンテナ貨車20両分。それがひしひしと伝わってくるのを感じながら、何時も以上に前方を注視して機関士はハンドルを注意深く操作する。霧の中から見えてきたのは緩やかなカーブの始まり、そしてこれまでの勾配の一旦の目安としてしている線路脇の標識だった。これが来るとトンネルまで、そして鉄橋ももう間もなくと浮かべる間もなく、鉄路の先にぼんやりと鉄橋が見えて来たのを認めると、機関士は何時もの様に標識に従って警笛を鳴らした。
"また霧が濃くなってきたな・・・気をつけないと。"
 あと少しなのだから、とも同時に念じて。

 もう幾時間経過したのかはわからない。時間の観念は痛みと疲労の前に完全に消散し、ただ何とか助かりたいの一心で岩肌に伝って下流へと向かっている、そんな有様だった。そして何時の頃からか、耳に聞こえてくる水の流れが変わってきた気がしてならない。具体的に言えばこれまでの力強さや荒れ狂うと言ったせめぎ合いや抵抗、と言った言葉を連想させる音の代わりに素直さと言った言葉に代表出来るスムーズな流れを示す音へと変化している。
 加えて速さも増している様だ、何よりも大きな変化は足元と岩肌だろう。何と何の前触れもなしに全てがコンクリート・・・それは表面がぼこぼこで老朽化し、所々には苔が生え継ぎ目からは草が生えていると言う年代物だったが、少なくとも人の世界に近づいたと言う事は断定出来よう。彼の心の中に一縷の望みが生まれた事は否定する由が無い、彼はその望みの日は更にこれから強く燃え上がり自分を結果的に助ける狼煙火となる・・・そんな事をふと思いながら懸命に歯を食い縛って水の音とは別に響いてくる音を耳にて捕らえて進む。
 そして数分後、コンクリートの壁が途絶えた。歩みを止めて先を見渡すとそこには明らかな人工物以外の何者でもない物体、多少薄くなったとは言えまだ濃い霧の中に浮かぶは等間隔で並べられた枕木、二条の輝きを放つレール、そしてそれらを載せる金属の枠組み・・・鉄橋と左手の霧の彼方にぼんやりと見える青い光、信号の明かりだった。
 その途端、彼が大きく胸を撫で下ろした事は言うまでも無い。幾らここが崖縁で傍らでは先程浸かっていた沢が滝となって谷底へ落ちていようとも、目の前には彼のいるべき場所へと繋がる鉄路が目の前にあるのだから、もう死の恐怖に脅える理由は何処にも無かった。
 言うなればもう自然に囚われてはいないのだ。目の前には確かな場所と未来へ続く道が確実に伸びている・・・そう思うと彼はようやく、意識的に慎重になると鉄橋との隙間を乗り越え柵をよじ登り、鉄橋脇の保守通路へと大きくよろめいて倒れこんだのだった。左手は柵にかけたままと言う変則的な姿勢でしばらく横たわる彼には、ひんやりとし微妙に波打つその表面に滑り止めの加工の施された鉄板の感触が伝わってくる。
 その無機質な冷たさがこれほど心地良い物だとは全く思いもしなかった反動からか、彼はしばらくそのまま横たわってしまった。そしてむっくりと、脇の柵にかけてあったままにしていた左手を軸に起き上がるまで・・・更に数分ほど時間が経過した。

 鉄橋の上はこれこそこれまでに無いほど濃密な霧に折りしも包まれていた。それこそ乳白色一色でこの世ならざる気配すら感じられる中で、彼は柵を伝いつつ鉄橋を渡り始めた。しかし次第に掴まる事を億劫に感じて手を放すなり、急に湧き出てきた極度の疲労から来る焦燥感と安堵によって彼の内も外も大いに動揺し始める。
 それでも歩みが止まる事は無かった、しかし着実に歩は進むもののバランスは矢張り覚束ない。時として柵にぶつかったと思ったら次は枕木につまずき掛けたり、と言うそんな具合で歩く足元からは、轟々とした音が響いてくる。それは鉄橋の下の川を流れる濁流が発しているのだろう、そして先ほどまでその縁にいたことがまるで嘘であるかの様にぼんやりと彼の中で浮かぶ。
 その流れが橋脚にぶつかっているからだろうか、微かなそれでいて持続的な振動が鉄橋に起きていた。ふとした不気味さこそあるが最も流されないだけは、そもそも流されないように作られているのだから当然なのだが、鉄橋が今にも倒れそうではないのだから甘受すべき物なのかも知れない。むしろ今の彼にとって、それをこうして感じるのはある意味では生還した証なのだから。だがそれ以上に大きな振動が、正確に言えばその振動を発せさせる、この鉄橋の主が背後に迫っている事には彼は全く気が付いていなかった。そうそれは間も無く差し掛かる、と言う事を。

「この霧の濃さは・・・こんなのは珍しいな、おい。」
 鉄橋にもう進入しかけると言う地点で機関士は我が目を疑った、硝子の先の目の前には薄くなった霧とその中に浮かぶ架線と線路の姿が見えていた。ところがそれはほんの少し行った先で全てが見えなくなっていた、正確に言えば霧以外の何もかもが見えなくなっていたと言うべきだろう。何故ならそれこそきれいにその地点にはまるで乳白色の壁の如き濃い霧がそびえ、機関車の前照灯から発せられる光がモルタルの壁に向かって照らしている時と全く同じに丸く浮かび上がっているのである。
 この有様は余りにも異常な光景で幾ら谷間に霧が集まるとは言え、ここまで酷いものは初めての事だった。思わず一瞬だけ唖然と注目してしまった機関士は、機関車を止める事も運転指令に連絡を取る事も忘れてそのまま濃い霧の壁の中へと突入しそこで気付くなり、ノッチを下げてブレーキを入れる。
 減速はそれこそ慎重に・・・そして運転指令に連絡を入れようとしたその時、いきなり強い衝撃と音を感じ思わず体が前へとつんのめった。そのまま急ブレーキをかけたので車輪からは火花が散り列車自体が大きく悲鳴を上げる。レールの表面に大量の水分が付着していたので止まった時にはもう鉄橋の中心を通り過ぎ、反対側の端の間近、つまりぽっかりと口を開けたトンネルの入口に迫る所にまで到達していた。その辺りでは霧は本当に薄く、橋の中央よりこちらからすると後側の区間の霧の濃さが異常だと言う事が良く分かった。
「何だ今のは・・・何にぶつかったんだっ」
 機関士は慌てて運転台で呟き機関車から飛び降りた、懐中電灯片手に機関車の正面を照らすとはっきりとではないが何かのぶつかった痕跡らしき物が見て取れる。
 しかし車体の下などを点検しても何も見つからない、唯一確認されたのは衝突したと思しき地点の線路上に落ちていた片方だけの登山靴、そう衝突した相手を示唆する物のみ。とにかく巻き込んでいない事を再度確認した機関士は、衝突した旨の連絡をしてから無線機を片手に再び外を眺めた。そして無言のまま首を回す、柵越しに見渡せる鉄橋の下は濃い霧に覆われ橋脚がその中へ消えていく様が見て取れる以外、ただ轟々とした響きがこだまするだけだった。

 霧の下に隠れ渦巻く濁流、その轟音を放つ圧倒的な流れる力の前では何物もほぼ無力と言えよう。例え数十メートルも上から落ちてきた流体であれ固体であれ、何れであったとしても何も変わりは無い。最もまた流体の方がすっかり溶け込めてしまうから幸いなのかもしれない、何よりも時速40キロ余りにまで減速していた機関車に跳ね飛ばされる、と言うのも流体では有り得ない。
 全てがそのまま跳ね飛ばされると言うのは、固体特有の事例に過ぎないのだから。よって彼は、一体何が起きたのか殆ど把握出来ぬ内に錐揉み状に落下し、一瞬うねり狂う茶色の濁流を薄くなった霧越しに目にしただけで、そのままうねりの中へ飲み込まれた。
 その瞬間、強い力に固体たる全身は襲われた。その様は幼い子供が人形を掴んでは弄り回す、そんな感じであっただろう。言うなれば目に見えない、そして何時果てるとも知れない無数の手に次から次へと受け渡されて揉み砕かれてはまた・・・その繰り返しの中で意識は徐々に薄れていく、それは息苦しさと比例する様に。そして何も見えず何も感じられず、消え入る様に全ては果てた。

 数日後、鉄橋よりもしばらく下流にあるダム湖にてある物が発見された。それは男物の上着、すっかり水に使っていて酷い有様になっていたが、それまでに判明している内容からこの上着が、鉄橋に残された登山靴に書かれていた名前の男の着ていた物である事はすぐに判明した。つまり鉄道会社からの通報を受けて展開されていた、鉄橋上で列車と衝突したと思しき行方不明者の捜索をするにあたっての大きなキーとなり、どう言う形であっても解決は間近であると言う期待を関わっていた誰しもが浮かべたのは当然の事だろう。
 だが全てはそれっきり。上着が発見された後には、それを根拠としてダム湖の中に男の体もあるのではないか、と複数回に渡ってダム湖の底の捜索もされたが、何も出て来ない。ただ徒労だけが繰返されていく内に捜索の規模と関心は次第に縮小し、恐らくダム湖の底の泥の中に埋もれてしまったのではないか、と言う推論が大手を振るう頃には、過去にそう言う事があったと言う記録に成り果て、発見された品々は箱に詰められて倉庫の片隅に放置されるのみになって忘れられていく。
 そして捜索に関わった人々とは別にしばらく後に当事者となる人々も、その様な事を全くその時点では浮かべていなかった。まるでそれまでの時間と言うのは、推論によって付けられた一定の結論はあくまでも推測でしかないと、真実が嘲笑い楽しむ為に用意した準備の時間に過ぎなかったと言う事を、誰も思いもしなかったのだった。


 続
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