まずは顔、目に付くのは前に突き出た口とその先端に近い場所にあるヒゲの存在。そもそもヒゲが女性でありながら、その顔にあると言う時点でふとした違和感を抱けたのではないだろうか。だがそれに気付けたのならまだその人は冷静な観察力がある、と言えるだろう。何故ならヒゲはあくまでもその顔、それも人ではない顔の一部分に過ぎないのだから。そして顔の多くは多くの特徴に満ちていて、大抵はヒゲの存在をはるかに上回る存在感を持っている。
その中で見る者の目をまず奪うのが豊富に生えている鬣であるに違いない。水色基調の体の中で最も濃い色合いをしているそれは髪の毛の如く生えてこそいる。しかし実際のところ、首筋に続いているのが見える事を踏まえれば、鬣と言うのがより正確なものであろう。そして鬣の生え際すれすれにあるこめかみの付近からはこれは一対の、先端で複数に分かれている鹿を思わす角の姿が見える。
鬣の下の顔の部分も十分特徴がある。深く彫り込まれたかの様な目蓋と目元の間には深い緑色に輝く瞳が輝いている。そのまま続く鼻と口は上顎で一体化していて、下顎と共に対となってマズル、口吻を作り出している。そしてヒゲはその上顎の先端に近い場所、大きく開いた先端にある2つの鼻腔のやや後ろから生えている物に過ぎず、顔の中で占める割合はその下に垂れる長さを除けばわずかでしかなく、特徴も無い。
だからこそ多くの人はその顔その物に視線を奪われてしまう事だろう、そう龍と呼ばれる存在の顔に全ての視線を向けてしまうはずなのだ。そしてその表面が柔軟かつ微細な鱗に覆われている事、それをより注意深く見つめられた人であるならば表情の変化から見出せるに違いなく、その流れで背中側の腰の辺りより何か太い、そうここも鬣を載せた尻尾が下向きに表側へと先端を曲げ、片足に半ば巻き付く様にしてあるのも目に出来るだろう。
だがそれ等を目にした彼が驚く素振りは全く無かった。その口から語られる言葉に対してようやく反応を示したのみであり、交わされるやり取りを聞いているとこの龍と人の関係は既知の関係であり、同時に何かの取り決めを交わしている関係、と伝わってくる。そして彼がその取り決め、約束に従わなければならない事を承知しているとは言え、決して前向きではないのもありありと伝わってくる。
「とにかく戻りたくて戻ったんじゃないんですから・・・っ」
曰く彼はうんざりしていた、もう幾度とこの言葉を口にすればいいのかと。確かに彼は目の前にいる龍とある取り決めをしていたものだし、だからこそ外に出られたと言う事も承知している。しかし、その結果としての今は全くの不本意でこれこそ何かの間違いであり、決して自分の意思で戻ったのではないと言う想いが、その心の中で渦巻いて仕方ないからこそ、しばらくずっと口を閉ざしていたのであるし、そしてようやく口を開いたのもそれを訴える為でしかなかった。
しかし龍は頑としてそれは誤っていると諭すに近い口調で言う。そして繰り返すのだ、どうしてその様な取り決めをする事になったのか、忘れたのかと。そう言われてしまうとますます彼は言葉に窮した、確かにそれは一理あるのだ。そしてそれは古い言い方であらわすなら恩義に反する、とでも言えてしまえる事を己がしている事以外の何でもなかったのだった。そう龍の正論の前に太刀打出来るほどの屁理屈を言う事が出来なかった。
彼が龍と出会ったのは、そして恩義に報いねばならない関係となったのは極々最近の事だった。日数で言えばそれは半月かその程度、と言う辺りであろう。
きっかけとなったのは矢張り彼である。ふと思い立ってろくな準備もなしに山に踏み込み、慣れない道に迷って数日に渡ってさまよった挙句、とうとう力尽きてしまったのだ。そうなったのはその無計画さ故の自業自得でしかないだろう。しかし彼にはまだそうなっても尚、運があったからこそ今、こうして生きているのである。それは倒れた場所が龍を祀る祠の目の前であった、と言う事だった。
正確に書けばそこに龍が棲んでいた訳ではない、しかし言わば住処に通じる玄関に等しい祠は等しい。だからこそその前に誰かが倒れていると言うのは余り好ましい事ではない。勿論すぐさま知った訳ではないが、それを把握するなり龍はその姿を人にとってまだ受け入れやすいと考えている姿。即ち今の龍の顔と尻尾、そして鱗を持つ人に近しい龍人としての体となって実体となると、表へと現れてその気絶している体をわざわざ住処へと連れ帰って養生させた訳である。
彼が龍の住処にて目を覚ますまでには数日を要した。その間、龍はすっかり衰えていた彼の肉体と精神を復活させる為の行動をしていた。それは言うなれば力を補充する、と言うものだろうか。体の中で枯渇していたエネルギー、言うならば生命力を「満タン」にする、そう言う行為である。
ただそこには問題があった、それは龍と人とでは性質が異なると言う事。比較すればそれは龍の方がより強く、人は弱い。またその力故に龍は人に出来ないことを可能とする、その一例が本来の龍としての姿から、龍人の姿へと姿を変えた事であろう。少なくとも何であれその姿を変えると言うのは容易ではない、人には到底出来得たものではないし、それは自然界とて似た様な物である。
より例えるなら人に出来ない空を飛ぶと言う行為を、鳥がその翼を以ってするのに通じるだろう。鳥の場合、その翼の力によって風を利用すると言う肉体的な構造により、外部の力を活用するものである。一方で龍の場合はそれが内部の力に置き換わるだけであり、その力は内部にあるからこそその肉体を力に見合った姿に変えられる、それも意図して出来るという自在な点を持ち合わせているのだ。
そしてここでようやく話はその問題、龍の生命力を人に注げるのか、へと戻れる。結論から言えばそれは可能であるから龍は彼にそれを施した、しかし副作用がそこにはあった。それは人の体にとって龍の力とは強すぎる為に時として不一致を起こしてしまう事である。
それは龍の生命力が器となっている人の体から溢れようとしてしまう事だった、それは言わば肉体を力に見合ったものに変えてしまおうとする衝動。勿論、龍であればその時々の力の状況によって姿を変える事で、それを制御する事が可能であるから問題はない。しかし人の体は元々その様な、姿が変わる事は想定すらしていない構造である。よってその結果として引き起こされるのは深刻な、つまり肉体の破壊と言う結果なのだ。
だが龍が近くにいればそれは回避出来る、つまり溢れそうになった分だけ龍が人から力を吸い取り制御するのである。しかしそれは遠隔では出来ない、ある程度至近の距離にいなくてはならないのだ。それは龍が人の前に滅多に姿を現さない存在であることを踏まえると、龍が彼についていくのはまず有り得ない。よって彼が龍の元に居続けるのが唯一の選択肢となるのであり、それはもう彼が人の世界に戻れる可能性はゼロに等しい、と言う事を同時に意味しているのだった。
「とにかく、私は言いましたよ?一度だけの機会、もし山から出ない内に倒れたりした場合は私の元に戻ってきてもらう、と」
「でもあれは俺が戻りたくて戻ったんじゃない、ぶつかったから転落したんだ・・・事故だよ」
「いいえ、それでもです。私はとにかく倒れたら、と言う条件を課したまで。ですから倒れた理由による斟酌なんてしません」
声の大きさはそこに秘められた意志の強さと共に龍と彼とでは対照的なものだった。龍はとにかく約束した事は守ってもらわねばならない、それが道理でしょう、と誰が聞いても最もな理屈に基づく言葉を紡ぐ。その声にははっきりとした明快さが含まれていて、それは彼のみならずその場を構成する全ての存在の中へと響き渡る。そう明快さが力となっていたと言えるだろう。
当然それが全うである事は彼も分かっていた。つまり約束は守らなければならない事など、言われるまでも無い当然の事。しかし同時にすんなり納得も出来ない、自分は山の中とは言え人の世界、そう鉄道線路まではたどり着いていたのだ、との記憶と思いが強く現れていたからであって、故にもう一度の機会が欲しい、と浮かんで仕方なく、繰り返しその言葉を呟かなくてはいられなかった。
しかし何時までもそう主張したところで、龍が己の主張を認めるはずが無いのも同時に承知していた。何より彼は約束を破って平気でいられるほど、無神経、あるいは図太い人間ではない。むしろそう主張を続ける事に対して罪悪感を感じては、その重さを半端なく感じてしまう人間である。だからどこでどう主張を引っ込めようか、と主張を繰り返した事でようやく、ある程度は落ち着かせた心の中で探っていたのだ。
そしてそれを分かっていたからこそ、龍も強い態度には出なかった。最終的には約束は果たされる、ただそこに行くまでに少し寄り道をしている、その程度の認識でやり取りを受けていた。だから少し語気を強める以外は常に同じ勢いと趣旨にて諭し続けていたのであり、こうした面倒な過程をたどる事になる、そうなるのが人間を相手にしたものであるとの古くからの認識をまた新たにする、そう言う余裕ある態度でいたのである。
「とにかく・・・いい加減にしなさいよ?今のあなたの立場と言うのを考えなさい、あなたは弱りきって私の祠の前で倒れていた。そして一度だけの機会として人の体が壊れない程度の力だけを注いで帰りたい、と言うあなたの希望を叶えてあげようとしてあげたの。でもあなたは山から完全に出ない内に倒れた、だから今ここにいるんじゃないの、ねぇ?」
彼の心が落ち着いたのを察した所で一言、そう龍は言ってのける。言わばシグナルであろう、ここが落としどころ、と言う助け舟に乗るよう促す合図なのだ。
「そ、それはそうだけど・・・でも帰りたい」
「とにかく帰りたいとかそう言うのは抜きね、あなたの体にさっき注いだ力は普通の状態の人間であればあんなところで倒れるとか、そうなるはずが無いの。なのにあなたが倒れたと言う事は余程、体も精神も弱っている証に他ならないのだから・・・良いわね、今度はしっかりとさせてもらうわ」
彼には果たしてあの力が妥当なのか、つまり前にここから出してもらう時に注いでもらった龍の生命力がそうと言えるのか、それは見当もつかなかった。そして少しばかりの疑念も過ぎらざるを得ないし、そこで一言言う事も出来たであろう。だがもう何を言ったところで無理なのは分かっていた。つまり事実は事実として受け入れねばならないと、ようやく心を受け入れる体制に出来たのを示すべく彼は口を噤むなり、じっと龍の顔を見据えて首を縦に振る。
「そう言うこと、じゃあ本格的な治癒を始めましょうね」
龍の手は彼の肩に置かれていた、そしてその重さを感じるなり彼はすぅっと息を吐くのみだった。もうこの肉体は既に龍の元から離れられなくなっている事を感じずにはいられなかった。