無気力さ募りゆく心地の内にも史朗が手にした定規とも言える、私が持参して渡した棒は振れば振る度に伸びていく。そうした眺めは単に評するならば不可思議なものでしかない。
よって、その都度書き加えられていく記憶においては、またおかしなものを見ているとして処理されるのみであるから、無気力さも加勢してくれて何かしらの動揺は最早気持ちの内にしか生じない。それは無気力が転じた無関心でもあったろうし、どこかではそれ自体を受け入れ尽くした気持の反映であるのは恐らく間違いないだろう。
そこまで私は思えたからこそ、ああ、これでいよいよ仕上がるのだ、と無性にまだ無傷な領域で確信にも近い思いを描いていく。
一体、今日がどうした意味であるのか?当然ながら不明で、分からぬままに、とうとうその日なのだとだけ強く、ただ強く。そしてそれは不意に転化する、生じたのは湧いてくる勢いを伴った記憶の渦であった。そしてその中に「私」が認識として沈んでいくのを合わせて感じながら、史朗の手中にあった短いものが、今や50センチ程度はあろう長さに伸びたのを認めてしまう。
「これが何かわかる?そう、鞭だよ」
「鞭…一本鞭?」
「そう、一本鞭。まぁ正確には馬上鞭なんだけど…これから君はこれに従うんだ、分かる?先に選んだものへと、相応しくね」
「それに従う…相応しく変わる…」
私の反応の度に史朗の口調が変わって行く、何より、私を示す言葉が君へと変わった途端に私は猛烈にびくっと動揺してしまった。合わせてその際、強い記憶の渦の中に強い火花が散る。それは彼が手にしていた馬上鞭が私の肉体に振り下ろされたから、と気付けたものの、対して抗議するとか、そうした考えは全く浮かばない、肉体的な反射反応としても現れない。
ただ、生じたのは色だった。記憶の渦が火花一閃、その色一色に染まった事だろう。彼の手の内で「馬上鞭」となった、私が持参した床夜野半島から持ち帰ってきた代物の変化を見始めて以来、すっかり受動的になって、様々な記憶が私の認識の中を縦横無尽に走って生じつつあった強い渦は、今や、全てが一閃からの一色となり、全てが統合されていく動的な流れを得始める。
ただそれは即時に、ではなかった。特に渦巻く記憶は様々、大変に昔のものから最近のものまで、その全てが解き放たれて動き回り生じた渦。もし内面を観測する者がいたならば記憶の中に今の私が呑まれていく、私の一部であったはずの記憶に私が翻弄されている様が見えたであろうが、それですらある程度のスパンを抱いて見れば、たった今の一閃の後、ただの一色、即ち銀色に全てが染まりきって行き、その中で個々の輪郭を失いつつある過程の一部分でしかない。
敢えてその中で触れたものを取り上げるならば、記憶として輪郭を失いつつある中にあった床夜野半島での思い出せなかった出来事があるだろう
つい先ほどの一閃の直前まで、あれほど求めていたにも関わらず、これまでどうしても明確に思い出せなかったその一部分。それが、この今になってはっきりと蘇ってくるのはある種の皮肉、かつどこかでは卑怯とすら評せるかもしれないその眺めの中、私ははっきりと認めた。
そう、史朗が強い関心を持ち、そして今、手にするなり馬上鞭に転じさせて、その物として私に振るった、その元となる代物に、確かに私が手を出していた事を思い出せたのだ。
更にそれは単なる断片ではなかった、明確な一連の流れとして第三者的な観点すらひとつの流れとして含まれたものだった。されたのは床夜野半島のとある建物の中であるのも間違いない。そして前述の観点とはそこには全く心当たりのなかった、即ち、史郎からも言及されなかった光景が含まれている。そう、それはその一部始終を見つめている「女」の姿であろう。そしてそれに気付き、声を私の方からかけてすらいたと言う記憶が示す「事実」の展開には驚き以外の何物も抱けなかった。
そんな私の中にありながら、この今まで全く思い出せなかった「記憶」を強く認識したところで、今度は私、笠間が、もう私は私ではなくなるのが始まるのだと、新たに加えられた一閃にて悟る。
それは記憶を含めた認識の全てが銀一色に染まりつつある中での事。床夜野半島での「事実」を知った途端、大変に巨大な渦へと一層変わりゆく中、その中心にいたはずの私、笠間の「認識」は今や千切れ千切れて、そう渦が生み出す遠心力によりどんどんもがれていく。
既に銀色となった記憶やらの中にどんどん取れこんでいき、取り込まれた途端に、もう元が何であったかの判別は一切出来なくなって行く。最も仮に取り出せたところで、その強力な銀のコーティングにより元に戻すと言うのは不可能であろう。だから私はどんどんもがれるに任せていく、そしてそれがすっかり極まって、もう認識の欠片に出した所で散った一閃は新たな結合を促し始める。
言うなればそれは砕け散った惑星が、新たな星へと生まれ変わるに等しかったろう。一閃による刺激の後、極めて均質的かつ高速に回転していた渦は次第に波打ち始めて、その安定性を欠いていく。渦の随所に斑が生じて、それは次第に波となり、波が波を取り込んで塊となり、塊は塊同士で衝突しあってより大きな個体へと変わって行く。
もう私は、その観測者でしかなかった。その自らであったモノが変わり、新たな形を得ていくのをただ見ているだけの存在に過ぎなかった。同時に私は予感、もとい知っていた。この変化は肉体にも及んでいるだろう、と。だからこれはある意味では私がこれからあるべき姿、器の形成過程を見ているのだと、ふっと隣に感じる強烈な、しかし覚えのある「母性」と共に見つめていた。
今や、大きな銀色の塊となったそれは表面を随所でぶよぶよとさせて行き、次第に意味ある形へとなって行く。まず分かったのは脚だった、そう足ではなく脚が二対生じて、その空間を漕げば次々に輪郭が整っていく。
まず1つ漕げば、胴体が現れた、それは一定の楕円形にも近いものであった。次に1つ漕がれたら、その楕円形に近い形状は骨と肉の存在が分かる胴体へと変わった、そして脚自体も先端に目立つ大きな塊、蹄を明確にした。そしてその蹄が3度目、4度目を漕げば余った部位は新たな胴体となった、それはヒトの体だった、ただそこには大きな乳房があるメスの胴体である。
先に出来た脚の生えたる胴体、そして次いで出来たるそこより生えたるヒトメスの胴体、では残りは?それは顔である、中々に彫の深い目鼻立ちくっきりとした女性の顔が5度目、6度目と漕ぎたる蹄の勢いの内に整うと、たなびく長い尻尾と共にそれは私へと一気に突っ込んできた。
(ケーテ!ええ、ケーテよ!)
それは質量を伴うものだった、突っ込んできたのは私を勢いにより取り込み、観察者の地位を奪う為だったのは明白だろう。
そしてその時に不意に響いた声が隣り合っている、と不意に浮かべた「母性」の内から発せられたものであり、それこそが先にあらわとされた記憶の中で私が話しかけた事すら忘れていた、床夜野半島で出会った女の声であり、何よりその女と私は床夜野半島に限らず、この都市で出会っている事、それ等を合わせて把握したところで、銀色のコーティングを纏った女体たる人馬に私の全てが取り込まれたのだった。
それは完全に「私」が滅した、もとい「私」から脱する過程の終わりを告げるものであった。そう、精神的な観測者で居続ける事すら許されず、ただの肉体的な抜け殻ですらいられなくなる「転換」が明確に完成し、私がヒトの身から銀の精霊たる人馬「ケーテ」となった瞬間であった。