ラベンダーフォックス・遠く離れた土地で・第5話冬風 狐作
「最近はどうだい?東堂君は」
「そうですね、大分良い線を行っていると思いますよ」
 月日が過ぎ去るのは早いものだと感じていた、夏が過ぎ、秋の色が深まる中で上長より受けた質問に笠間はそう、明確に前向きな響きを持たせた返事を返した。話は研修後に正式な同僚となって数か月を経た東堂史郎について、となる。
「そうか、それになら良かった。何せねぇ…」
 私からの返事を聞いた上長は引き続き何かを語り続けている、そしてそれを私は耳にしながら内では気持ちの昂りを抑えるのに必死―そう、笠間と共にいるケーテが表に出て来ない様にするのに抑え込んでいた。
 東堂、いや史郎様と出会ったのは春から夏にかけての頃だった。更に「ケーテ」、即ち銀色をした人馬の精霊としての姿に目覚めたのもまたその中の事であった。合わせて出会えた様々な存在、その最たるのがリョッコと氷室であろうが、いずれも人ではない存在であり、故に仕事や人として過ごす時間以外で接するのはおよそ、そうしたヒトではない、即ちヒトが主体ではない世界の出来事であるからこれまで培ってきた価値観が実に浅かった事を毎度思い知らされてならなかった。
 そうした刺激に満ちた時間を過ごした後、こうして人の姿で過ごしている時間とは退屈でもあり、しかし「笠間」としてはとても大事な時間でしかなかった。何故なら、あの銀の精霊として使役様に使役されている時間や感覚は長ければ長いほど余韻が深く、人に戻った時のもどかしさや喪失感が酷い、即ち明らかに元々あった「笠間」の存在を侵食しているのが明らかであったからに他ならない。
 言ってしまえばそれは中々に解決の難しいもの、ヒトであり、かつ精霊である、その2つをどう両立させられるか、更に言えばいつまでそれが可能なのか、との課題以外の何物でもないのだから。
 だから精霊の姿である時にそれがもたらす迷いが動きを鈍らせる事がある。それについて史郎様はそこまで触れる事はなかったが、遠くから私達を見ている氷室がそれとなく気付いて話を振ってくる。そして精霊の姿であっても、ヒトの姿であっても彼には話しかけやすかった、そう獣竜なる、これもまた人のままであったら気付く事も接する事もなかったであろう存在には色々と助けられているのが正直なところだった。
「…なので今後ともよろしく頼むね」
「はい、こちらこそ今後ともお願いします」
 上長とのやり取りをする一方で巡らせるヒトと精霊、その2つの自らである存在の中で巡らせていた想い。去り行く背中が廊下の角を曲がるのを見て、大きく息を吐いてしまったのはそれがもたらす、解消し切れない負担感を幾らかは和らげてくれるのだった。

「ねぇ、貴女がケーテだっけ?」
 日もすっかり暮れ、残暑がもたらす暑さが幾らかまだ漂っている中、得意先との会食を終えて帰宅する私に声をかけて来たのは品の良い雰囲気を纏う女性。年の頃は結構若い、そんな頃合。
「へ…?」
「ほら、とぼけないの。分かってるのよ、銀の精霊さん?」
 幾らかアルコールを摂取した後とは言え、それは夢には思えなかった。いや現実だ、と気づいた瞬間、私は足早にそこを離れようと妙な冷静さを抱いて判断したがそれはい幾らか遅かったらしい。肩をがっしりと掴んでくる、とても見た目には思えぬ強い力を発揮されてしまったばかりに思わず足だけが先に行き、尻餅をついてしまいそうになってしまったほどだった。
「ほーら、男の姿に化けていてもお見通しなのよ?精霊化した、まぁあなたの場合は宿したとも言えるけど、そうしたヒトは私達の目にはすぐ分かってしまうの…急用よ、すぐに従いなさい」
 化けている、ヒトに化けている銀の精霊、その響きを耳にした瞬間、酷く全身の血液が走る感覚がした。脂汗に鳥肌が全身からあふれ、同時に意識出来るのは姿が解けていく、と言うもの。ここは人前、公衆の面前、ここで精霊の姿になるのは不味い、と思えても体が止まらず、そう勝手に変化を帯びだしてしまうのだ。皮膚に銀の筋が走り、それが光となって全身を包んでいく、そしてそれを満面の笑みにて見つめている女の顔を句碑を曲げた先に凝視した時は、もう下半身は大きく横に膨らみ始めて前足の蹄も現れていた。
「史郎には後で話しておくわ、とにかく緊急で貴女の力が必要なの、良いわね?」
 前に後ろにと蹄が整い行く、そして隆々とついていく筋肉、腰から下の馬のボディがそれこそ地面をその時には蹴っていた。そして宙へと私は姿をすっかり改めて、人馬―即ちケンタウロスたるケーテとなって名も知らぬ、しかし主人の名に私の精霊としての姿を知る女を背負ってその指示するままに夜空へと一気に飛び上がっていく。
「見たか、あれだ!」
「あら、もう気付かれたみたいね…流石、優秀な皆さんだこと」
 そのままにぐいぐいと従って高度を稼いでいる内に、どう言う訳か、聞き取れた第三者の声に重なる女のつぶやき。とにかくは私の中で何かが繋がる、そしてそのままに問いかけを発してしまう。
「追われているのです、か?」
「ま、そんなところよ。そうそう、いい機会だから鞍と鐙をプレゼントしてあげる。全く、史郎ったら人馬に跨る事すらしてないのかしら、無作法ねぇ…姉さんに見られたら笑われてしまうじゃない」
   本当にこの、まだ名乗られていもいない誰かは史郎様の事を知っているのだ、と私は今ここにいない主人の事を思った。その内に背中に加わる更なる重み、それが鞍に鐙なのだろう。ただそれを感じるのと合わせて体に伝わる不均等な感覚は和らぎ、かなり飛びやすくなった。
 そして言葉を介さずとも女からの指示が明らかに読み取れる、そう鐙にかけた足を介して伝わってくるそれに、より感覚をケンタウロスとして研ぎ澄まされていく、そんな感覚は次第に実感となっていった。
「さぁ、とにかく夜が明けるまで付き合ってもらうからね!後ろから来ているわよ、本当に」
 鞍にかけられた足から加えられる力も相俟って、私、ケーテは首を縦に振るとそれこそまた加速して夜闇の中を、眼下にきらめく都会の灯りを見つめつつ急降下していった。そして確かに、その動きを追う様に何かが風を切って着いてくる、それもかなり高速で、とまで感じ取りつつ、距離を稼ぐ事に、今、私にしか出来ない事に専念しなくてはと気持ちを集中させるのみだった。


 続

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