「ああ、それなら大分距離がありますよねぇ」
史朗の口調はまるで何かを知っているかの様、いや知っている内容を再度確かめているかの如くであった。
「そうそう、結構時間かかって…都市間バスで2時間。それ位は空港からかかったね」
「2時間、今は大体そんなものなのですね、懐かしい」
「懐かしい?若しかして、史朗君も行った事があるのかい?」
はっきりと行先を明示していないにも関わらず、何等かの関係や経験がなければ使わない様な言葉に思わず問いかければ、ええ、それはもう、と彼は何の気もなさそうに、手にしているモノへと史朗は視線を落としながら返してくる。そこには私が何を言うかにはそこまで関心を払っているとは見受けられなかった。ただしばらく見つめた後、本当、まさかここでこれを見かけるなんて、全く思ってもいませんでしたよ、と独り言かの様に少しばかり大きな声で続けると、ふっともう一方の手をかけて、あっさりと開いた。
「あぁ、開いてしまってよろしいので…と遅かったですね、これは」
「ん!?」
そこで訪れるすっかりの不意打ちとも言える新たな動き。それに戸惑いの顔を浮かべて辺りを見回す私と対照的な、その声、軽さも含んだ丁寧な口調のそれはどこからともなく響いてくる。
私にとってそれはある種の恐怖でしかなかった。
何故ならここは私の家である、私と史朗以外に誰もいない空間であるはずなのに、その中に響く声。人がいないのに声が、音が響くとなると、例えば何等かの機器から発せられている―ひとつにテレビやラジオ、あるいは何らかのマイクから―のが考えられるが、耳に届くその響きは機械を介してどうしても生じる、無機質さを全く纏っておらず、むしろその場で発せられている生々しさ、あるいは暖かさを強く含んでいるのだから。
加えて、辺りを見回してもそれと思しき姿が見当たらない、と言うのがその「恐怖」を色濃くさせるばかりだった。一体誰が、どこから、そしてどうしてこの場に?との、それ等の複合的な疑問と動揺は、分かれば一瞬で晴れるであろう単純さを帯びたものであるからこそ、早く解決したいとの気持ちが強く無意識に働いて、一気に私の関心の大半をそちらへと向けさせてしまう。
「あーあ、集中していなくて良いのかい?変化と言うのはあっという間なんだよ、分かって当然の年頃だろう?」
そんな私に対して明らかに、その声は向けられていた。どこか呆れ半分、しかし笑い半分と言える具合であって、丁寧さこそベースであるものの軽さはずっと増している。加えて私がそちらか、と向けば、違うと言わんばかりに後ろから響いてくるのにますます翻弄されて、極わずかな短時間であるはずなのに、何だか長時間、ひたすら夢中になって何かをした後に来る虚脱感、それに等しい中でようやく見出せたのは「白」であった。
見出せた、とするよりも現れてくれた、求めていた答えの方が現れてくれた、と出来るだろう。目の前にふっと現れたのは銀色を帯びた白い塊、それが無数の長い毛であり、その全てが強い冷気を纏っていて、当然ながら人ではない存在なのに、その口より紡がれる言葉に私はずっと動揺させられていて、そして今は返しているとの事実は、最早、すっかり理解の閾値を超えていた私の認識が驚きと認めるに値するものではなかった。
「全く、監視していて正解だった…そしてあなたは、申し訳ないが、今の全てを失う事になる。それだけは伝えなくてはいけないね」
それは静かな響きだった、どうにも荒れ、乱れて揺れて熱くすらなっていた私の内心を冷やしてくれる、そんな効果がふと生じつつもその中身までの理解はどうにも、私はどうにも出来ない内に言葉を投げ返してしまう。
「失う、今の全て?」
「そう、全て。今、あなたがあなたたヒトとして確立している、それを全て、捧げる事になる。それはあなた自身が蒔いた種であり、かつ、それを芽吹かせられる存在と出会ってしまった、ある種の必然性のレールの上での出来事に過ぎないから、私は止める事は出来ない。申し遅れたが、私は氷室と呼ばれている、以後よろしく」
氷室と名乗る存在はすらすらと長く、しかしキリが良い言葉をすっと投げかけてくる。ただ一体全体何を言いたいのか、そもそもその姿を人としない存在を見ている私は夢を見ているのではないか、否、実はもう酒を飲んでいて、その途中で酔って何か幻でも見ているのではないか、とすら浮かぶところで理解は更に妨げられる。
ただ同時に目に入る、まだ栓の開けられていない酒瓶の存在が、即座の、これか夢現ではないかとしたい安易な考えに対する明確な否定を返してくるだけに、酔っているが故の、との可能性は即座に潰えてしまい、ますますその言葉に耳を傾けてしまう。
「さぁ、そろそろ集中した方がいいんじゃないかい? 目の前の、彼に」
「え、ああ…って何だ、その姿は!」
だから次にはより早く対応出来たのだろう。氷室、純白にて四足で床を踏んでいる犬とも、また猫とも違う大柄な獣―後から得た知識では獣竜なのだと言う―の人語、言葉に促されて視線を前へと戻した途端、私は大いに叫んでしまった。最初の部分こそは氷室の声に対する相槌としての小声であったとしても、一拍を置いてからの言葉は、目の前の「史朗」に対する叫びであったのだから。
叫ぶからには、また動揺するからには理由がある。理由が無くては行動なぞ生じないからこそ、改めて意識を向けた、しばらくしての史朗の姿には私は驚いて叫び、そして反応を受けたのである。
「なんだ、とは失礼な物言いではないですか?まぁ致し方ないでしょうけど」
史朗の返す言葉にあったのは冷ややかな笑いであった、それも軽蔑と言うよりも、そう叫ばれたのを楽しんでいるかの様な具合ですらある。
実の所、姿自体は史朗のままで変わりはなくも、その周囲に幾らかの光の玉を纏っているのがつい先ほどと異なる点だった。色こそはっきりとは覚えていないがおよそ4色か、その辺り、その色を輝かせた光球と呼べようモノが太陽の周りを巡る惑星の様に、くるくると回っているのは「氷室」の声に惑わされた時以上に、まともに認識出来ず、夢であって欲しいと心から思えてしまったものだった。
「いや、そのそれは…何だそれは、火の玉、か?」
「火の玉、うーん残念です。確かに似ていますが、彼等は意志があり、そして肉を求めている存在ですから、そうした無機物と一緒にするのは失礼な物でしょう」
その言葉にぐるぐると楕円状の軌道を描いて巡っていた光球が、一瞬その軌道を乱したのは、正にうなずくかの様。ふとした説得力を抱かせてくれすらするのは、また面白い光景であった。
最もより言うならばそれは、奇妙な光景とした方が相応しいのかもしれない。しかし、叫びつつも、驚きよりもずっと面白いとしか浮かべられず、表情すら合わせて変に微笑みを浮かべてしまう始末となっていたから、単に面白いな、とそのままに言葉までも受け入れてしまうのが楽で仕方なく、また当然でもあった。
とにかく、そんな私を承知していると言わんばかりの史朗の口調は自信にあふれていた。普段の、職場だとかで見せる姿には仮初の、との言葉を冠したくなるほどであり、今、接している姿こそが彼の、言わば本来の姿ではないのかとの予感が聞けば聞くほどに強まっていく。そして同時に彼が手にしているモノ―それは私が床夜野半島から持ち帰ってきた本こそが、その本来的な彼を、史朗を私に見せているのだとは強く抱けたものだった。
「そうですね、この複数ある色の中で…お好みの色はどれですか?選んで下さい、さぁ」
きわめつけはその一言であったろう、こんなにもはっきりと求められては逆に選びにくい、しかしどうにも選ばねばならないだろう、との予感に私はぼんやりと、しかし必死に巡る光球を見つめる。色は鮮やかで、どれにも心が動く、見れば見るだけ、まるで何事かと囁かれているかの様な、誘われてるかの感覚すら抱けつつ、私は見つめ続け何事かと呟いたのは確かなものだった。
しかし、そこからは記憶がどうも曖昧なままに数日を過ごす事になるとはその時は思ってもいなかった。その場で何事かと史朗とやり取りをし、どの色を選んだのかの明確な覚えがないままにうなずくのを繰り返す。そして、史朗が我が家から帰った後もその状態は久しく続いたのだから。
寝食を繰り返し、職場にも普段通りに出勤してはこなしているのに、どこか認識や記憶と言った一切のものが浮いている、ただ時間だけが経ち、どうにも希薄だと認識出来ているのに、表向きにはちゃんと振る舞い、行動出来ている。そんな奇妙な心地と現実の中で、どうにも出来ない、むしろどうにかしようとの気も起きない内に私は、また史朗と共にその場へと、彼の家へとある日ようやく入る事で脱する事が出来たのだった。