ラベンダーフォックス・遠く離れた土地で・第2話冬風 狐作
「えーと…」
「どうした?何か分からない事でも?」
 別部門で採用された彼―東堂史郎は長くいたとしても、この部署には良くて2ヶ月程度。社内の方針故に致し方無いとしても、色々と教えるには短すぎ、対して余りに教えないのは支障を来たす。そんな事情がある中で今回はどうしていこうか、とまずは探っていた数日の中での一コマであった。
「いや、仕事の事とかではなくて…笠間さんって旅行とか趣味だったりしませんか?」
「あっ、ああそうだね。いや、うん結構好きだが…いきなりどうした?」
 東堂からの唐突な質問に私は思わず聞き返してしまう。ちょうど仕事も半ば一休みに近い時間。雑談をしていても咎められる、そうした職場ではないから、そうした問いかけに対して指導役として注意する必要は一切ない。
 ただ逆に言えば、指導する必要がないからこそ、接点の少ない、まだよく知らない相手に対して向けられる言葉は限られてしまうもの。それ故の聞き返しとなったのは否めなかったし、対しての反応がそれに臆したものではなかったのは、幸いであったとしか出来なかった。

 それをきっかけとして私と彼、東堂のやり取りは活発になったものだった。どうして旅行が趣味と気付いたのか、となれば、それは私の雰囲気だと東堂は語った。
 雰囲気、それは便利な言葉だね、と思わず返してしまったのは私が何かを期待していたからかも知れない。ただそれに彼は軽く笑った後、こうつぶやく、何かこう、分かってしまうんですよね、ああこの人って―故に昔から、こうして会話の糸口掴む事が多いのです、との口調には手慣れた具合もあったもので、それは便利だと感心しきってしまったものだった。
 東堂に関しても旅行は趣味、との事だった。最近は、就職したばかりなのもあってそんなに出かけたりはしていないけれども、学生の頃は暇さえ見つけては各地へと歩き回り、例えば、と挙げられた場所に関して私が、ああ、と相槌を返せば、分かりますか、となる。そんな具合で話している内に、互いの家が思ったよりも近所なのも知れる。
「そうか、じゃあ今日は帰りがけに夕飯でもどうだい?何なら一杯入れても良いけれど」
 一杯と付け加えたのは思えば翌日が休みであるから、と浮かんだからだった。今日は金曜日、花の金曜日、との言葉も最近は活きている言葉なのかは分からないが明日に仕事が無いと分かれば気持ちは緩み、また華やいでしまうもの。それだけに投げかけた問いかけに、東堂は少しばかり目を泳がせてから、口元に軽く微笑みを浮かべてまずは無言で首を縦に振ってくる―良いですよ、と。
「そうか、じゃあ…」
「何なら、うちに来ませんか?お酒なら実は僕も好きなので…その日本酒とか焼酎、その辺りがお好きなら美味しいのがあるんですよ」
 誘ったは良いものの、特に考えもなしに投げてしまっただけに少しばかり思案の中に逃げ込もうとした途端、それを食い止めんとばかりに届く東堂の言葉。
 それは誘いに対する、誘いを以っての返し、見事だ、と思わず唸ってしまうばかりの流れに、私はすっかり呑まれてしまっていたのだろう。だから、引っ越したばかりの家に良いのかい?としつつも、実のところ、すっかり感心し切っていた私はもうその時点で行かせてもらうよ、との答えを抱いている以外の何物もなかった。

「へぇ、東堂の家に行ったのか。珍しいなお前がそんな事するなんて」
「何かなぁ、話していたらなりきりでね…中々に悪くなかったよ」
 私が東堂の家に行った、との事はしばらくした頃には同じ部署の面々の間に知れ渡るものになっていた。知られたのは当然、私だとか東堂が、その事を話したからではあるが、周囲からするとそれは大変面白い事であったらしく、大体において特に私に対してその話題が振られる事が多かった。
 そうとなるのも私が、少なくともこの部署に配属されて以来数年もの間、勤務を理由に部署の飲み会を平気で断る様な、そうした調子でずっと来ていたからであって、そんな輩が研修がてら配属された新人の家にいきなり呼ばれて遊びに行く、となるのは真に奇異で、また興味をそそるものであったのだろう。
 一部からは、東堂って女だっけ?お前なぁ、と軽いからかいも向けられたが確かにそれも、そうした考え方を持っている人からすれば当然だろう。
 新人の家に行く、それも男の家に男が行く。それを特異と捉える人がいるのは当然承知していたし、そうと話を向けてくる連中は色々と夜遊びが好きで有名な面々であったから、承知している以上、こちらも真剣に捉える必要は全くなかった。
 東堂に対しても、その事を軽く職場の面々の紹介の後に付け加えて伝えておいたのもあって、わずかにそうした言葉が投げつけられた様だが、自然体で切り抜けてくれたのはある意味幸い。むしろ、そうした事からの情報交換からまた話が盛り上がって仕方なく、二度三度と彼の家に足を運び、とうとう私の家にも招いてしまうまでに至った頃には、私と彼が出会って大体、1ヶ月は経過していた。
 先を見れば、彼がこの私のいる部署に研修で配属されるのも月単位ではなく週単位へとすっかり減じていた。今では、彼自身の覚えの速さも、また、私に対して見せた得意とする「気付き」の良さもあってすっかり、並かそれをやや上回る程度に任された仕事をこなす姿の前には、先に挙げた様な反応もすっかり減っていったもので、同時に私に対しても、どういう指導をしたんだ、と逆にプラスの意味で問われる事が多い。
 それは指導する立場としては気分が良いものであったし、それだけに私はより東堂に仕事の面は任せつつも、次第にそれ以外では距離をより縮めてしまっていたのだろう。

 それだけにある日、東堂の家にまたお邪魔をした時に居合わせた存在の姿にはどこかで当惑してしまった、としか言えない。そして、それはもうひとつの別の気持ちを生み出していた事も、若し、そこに冷静さがあったならわかった事だろう。
 しかし、そうと今更ながら見れたとしても、その時の私にとっては、その気持ちは「モヤモヤ」とした何か説明の着けづらいどこかで逸る気持ちでしかなかったのはまた事実。だから、余計に気持ちを燻らせてしまったとしか言えないだろうし、それを拗らせたからこそ、第三者的な視点になれたとすら出来る。
 だから、今のこの私の姿は対価としては相応しいのかも知れない、いや違いない、としか思えなかった。
 とにかく言えるのは、出会いは何らかの変化をもたらすのは常なもの。それは別れを伴う事もあり、強く有形的にも無形的にも、後に残る形で刻まれる事すらある。私にはその全てが「あの」出会いを機として、またそれ以前の訪問―即ち半島、床夜野半島へのを機として、知らず内に得られていて整えられて、すっかり溜まっていたそれ等が一気に押し寄せたが故に、今、こうなっていると認識する事しか出来ないし、それに何の疑問も持てる余地はない。
「御機嫌よう、今日もお会い出来ましたね」
 上品な具合を漂わせた声、その音色はやや高めで元気さもまた持ち合わせている。ああ、もうこの声を聴くだけで私は幸せとしか、気持ちを染める事は出来なく、他の如何なる感情も持つ気にはならないし、そもそも持つ自由すらいらないほどになってしまっている。
「今日もって、もう毎日会ってるのにそういうなんて本当に君らしいね」
「もう史朗さんったら…あなたも今日も元気そうで何よりですこと」
「ええ、その通りにお返ししますとも、ふふ」
 対する言葉に対しても私は同様な気持ちを抱けてしまえる。ただ私から言葉を発する事は出来ない、少なくとも許しが無い限り、発する事は出来ない。今はただ、直立不動のままに、わずかに耳をぴくっとさせられるだけ。縦にぴんと伸びた「馬」たる耳を、本当わずかに動かせるだけすら、本当は許されていないのかも知れない。
「さぁて、今日のお二方のご予定は?」
「予定も何も、こうしていると言う事はしばらく時間があると言う事。そうですよね?」
 ただ、特に御咎めはないままに愉快そうな声が私に向けられる。これは私に答えなさいとのお声掛け。私は姿勢を正したまま頷きつつ―その通りです、皆様方、とだけ低い声にて微笑みを浮かべて返す。
「なら今日も捗りそうね…さぁ分かっているでしょう?」
「ええ、フロイライン。本日も時間の許す限り、私と我が僕…力を尽くす限りです」
 そう、今の私は「僕」と呼ばれる立場であり、存在であり、それを示す姿をしている。
「そう、ならよろしくね、史朗、そしてケーテ、期待しているわ」
「はい、仰せのままに、励ませて頂きます」
 ケーテ、そう、私はケーテ。史朗様と共にリョッコ様より託された依頼をこなすべく、今日もまたこの大都会の闇の中へと駆け出していく使われる「風」であり「馬」。史朗様が手となるなら、私は足となって、この姿と力を与えて下さった愛しい主人様の、探し求める存在の手掛かりを探すのを―もうそこには、笠間との男の存在は微塵もないのも―私はもう承知していて仕方ないのですから。

(今日も調子が良さそうだねぇ、ふふ)
 もう心の内は嬉しさと緊張が適度に相混じっていて、いななきたくて、仕方ない、そんな牝馬を史朗は微笑ましく見つめてしまう。そして再び視線を戻せば、後ろに組んだ手の内にある鞭を軽く弄びつつ、フロイライン、とリョッコへ声を改めてかけるのであった。


 続
ラベンダーフォックス・遠く離れた土地で・第3話
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