検問所、そこは駅から歩く事1時間、との具合の場所であった。駅から線路に沿って進む道路は必要最低限の整備がされているだけの片側1車線の道、淡い灰色を浮かべる程度になったアスファルトの道は隣にて草に埋もれている線路と共に、今の現状を朝霧の中に呈していたものであって、濃密な霧を幸いとばかりに歩く身にとっては、土地勘のないこの土地において足下にある道が無ければ、きっと遭難してしまうであろうと思えることしばしであった。
検問所に至るまでの間、その距離は前述した時間の通りに比較的長い。しかしその間、誰ともすれ違う事はなかったばかりか、肝心の検問所にたどり着いたらそこには誰もいないのである。ただ検問所と分かる施設が道路と線路を囲む様に設けられているだけであって、人の背丈の倍ほどもある柵が地図の上では農地とされている、周辺の土地を割く様にして検問所から左右に広がっているのみでしかない。
(突破出来てしまうかも、いや、今しているのか…)
あっけなさ、それは本当に全てを包んでいた。遮断竿は下げられていて「許可証呈示」と対処された看板が幾分古びた具合に吊るされている中を、今、私は易々と越えていた。何か警告音でもなるのか、つまり自動化されているのか、との考えも浮かんだのだが何の音も光も発せられる事は無いままに私はその境界を超えて、散々立ち入れられないとの情報にあふれ、またそうと聞かされていた区域の中へと足を踏み込んでいたのだった。
その出来事、つまり、法により立ち入りが規制されている床夜野半島の区域に入れてしまった事に私は、霧が晴れた中でもどこか夢現の様な心地であった。
霧はすっかり晴れていた、そうして現れたのはすっかり自然に戻った空間、としか言えない。道路は何とか姿を残している、荒れている具合は相変わらずだが車が通行出来る様には手入れされており、時折離れつつも基本的には並行してある鉄道線路も最低限鉄道車両が走れる様にはなっていて、そのレールの踏面にはうっすらとした薄い赤錆が乗っている程度で、それは長期間使われないままに放置されていたのでは現れない、何よりもの証。
だがそれ以外となるとすっかり自然に帰っている。最もただ「帰っている」との表現の通りなのではないのもまた明らかで、そうした中には半壊した家々や通う人も車も無くて雑木や雑草に覆われ尽くしている脇道だとかが無数に転がっていて、少なくとも人の手が絶えた後に自然がそこを支配している、と評せられるだろう。
そんな具合であるから、先ほどの検問所の様子と合わせて本当に大丈夫なのか、との不安と共にふとした自信がこみ上げてくる。このままずっと行けてしまえるのではないか、この先にある物を全て見れてしまうのではないか、との思いにどこか足取りも早まってくる。
実際のところはこの床夜野半島、かなり大きい。仮にこのまま南下したとしても海辺に至るには山を超えなくてはならない、今は平たんな道のりとは言え、その山越えの道は伝わる話を聞く限りでは整備はされつつあったとは言え、元々が険路であったから走り難かったとあり、事故も多発していたと言う。
今の、正直なところ検問所を前にして戻るに違いない、との予感に基づいた軽装ではとても困難だろう。平地であったこの付近でこれだけ、沿道が自然に復してるのだから、山となればそれこそ強さを増しているだろうし、道もここほどの手入れがされているとは限らない。
そうなってくるともうひとつ頭を過りだしたのは、どこかで引き返さねばならないとの見切りをどこで着けるか、との観点だった。恐らく、何かこれと言った目ぼしい物と思える何かと遭遇さえ出来ればそれは容易な事だろう、しかし実際のところそれが見出せる可能性はこの調子では低い。手元にある閉鎖前の地図を見てもこの辺りは特に何かある訳ではない、先ほどは駅の跡を目にしたが、プラットホームだけが残っている様な具合であって列車の通過に支障がない程度には手が入れられているのが分かる以外は、これで満足、と言える様なものは見当たらなかったし気持ちにもなれなかった。
何よりも、より根源に返ればどうしてここにいるのか、との話になる。
それはあくまでも現状がどうなっているのか、との興味から始まった事、それに立ち返らないといけないだろう。しかし、具体的に何か、となればそれは難しい、元々漠然とした感覚からの興味であったのに加えて、数日間過ごした街での人々の反応にどこかで満足してしまった、立ち入ってはいけない場所なのだ、との認識を改めて浮かべて満足してしまい、どこか興味が薄れてしまったから、とも出来るだろう。
更にその時は検問所で追い返されるに違いない、との半ば確信に近いものもあったから、それ等が易々と突破されたからこそいられるこの、閉鎖区域内にいざ入ってからはどうにも分からなくなってしまっている。
本当に私はここに入って何をしたかったんだろう。まるで「自分探し」にいそしむ思春期の様な思いと共に、ただ辺りを見ながら足だけを動かしている内に、奥へ奥へと、人の歩みながらも足は入り込んでいくのだけは確実なものだった。
結局、私が得たものは何だったのかは正直、良く分からないままに数か月後の今を遠く離れた都市で過ごしている。まるでそこも行きついた場所かの様に取れるかもしれないが、その土地こそは私が生活の基盤を置く場所、とても床夜野半島とは異なった人工的なものに覆い尽くされ、無数の人が日夜活動している複数の都市が集まる、私の生まれ育った場所で、生きる場所、とも言えるかもしれない。
そんな中で私はもう、あの床夜野半島の中を歩いた事なぞすっかり意識の外に置いて仕事に没頭していた。時期はすっかり冬になり、行き交う人の姿も暖かさを目的としたものに変わっている。そんな中で仰せつかったのは別の部署で採用され、他部門での研修の一環として一時的にこちらに配属される新人の指導役。
「えーっと名前は…」
「はい、東堂史郎、と申します」
「そうそう、東堂史郎、か。まぁそう長くは、だけどよろしくお願いね」
「はい、こちらこそ、先輩よろしくお願い致します!」
その見るからに元気さにあふれた新人が、まさか数か月前の床夜野半島との結びつきをもたらすとは、その時には夢にも思わなかったもの。ただ何時も通りの業務の中で、久々に刺激のある時間を過ごせるな、との思いしか抱けていない中での出会いであった。