ラベンダーフォックス・第十三章疾風 冬風 狐作
「そうかなるほどなぁ・・・そうか。」
 青年はそう口にすると軽く腕を組んだ。しかし顔に厳しさは無い、むしろ微笑がたたえられて自分に対して机を挟んで離しかけてくる少年・・・史朗に向けていた。
「そうなんです、そして先生・・・。」
 話は弾んでいた、そう先ほどまでのどこか余所余所しくてそして沈んでいた空気はどこへやらと思えるほどに打ち解けた和やかな空気にその相談室の中は染まっていた。いまや話題はどうして中庭にいたのか、あの一団との関係は何かと言う当初の話題は過ぎ去って別の全く関係の無い・・・例えば学校は楽しいかと言うことから普段どの様な遊びをしているのか、ゲームをしているならどんなのが好きなのかととにかく様々な事柄に及んでいた。
 既に書いた様に青年の知識の守備範囲は相当な厚みと広さを持っている。それだけのものであるのだから当然その中にサブカルチャーつまり趣味の類にはかなり含まれており、テレビゲーム等のゲームの類も当然好むところでかなりの物はクソゲーと呼ばれる物から、大ヒットとしてロングランする事になったソフトまであらかたはしてその内容もまた覚えている。だから実践、つまり経験も交えて応じる事が出来る訳で、先日史朗が手に入れたゲームの内容にて今は・・・お互いに夢中になって盛り上がっていたと言う訳である。
 青年は相手が自分の狙っている存在"東堂美根子"の妹と言う事を思わず忘れ、史朗は相手が史朗達からすれば先生とそう変わりは無いカウンセラーと言う事を忘れて、そしてお互いに時間の経過と言うものを忘れ・・・青年はカウンセラーとして中学に行く事を、史朗は児童として授業を受けている時間であるのにそれすら忘れるほど2人は打ち解けてしまっていたのだ。思わず大きな笑い声が漏れるほどに、そう廊下へと。そしてその笑い声が誰にも聞かれないでいると言う事は有り得なかった。
 ドンドンドン!
「西先生、まだいらっしゃるのですか?」
 響いてきたのは甲高い女声、その声を聞いて軽く史朗が表情を変えたのを青年は見逃さなかった。
「あっちょっと忘れ物しまして、ええ。」
「そうですか、そろそろ中学校での相談時間に入るのでは無いですか・・・あと笑い声の様な物もしましたけれど誰かいますの?」
「いやいや・・・ちょっと机の下から物を拾っていたら頭をぶつけてしまったので、何でもないですから。」
「あら気を付けて下さいね、それじゃあ私は行きますから。」
「ええご心配かけました、はい。」
    そして去っていく足音、安堵の表情を思わず見せ合った2人は噛み締めた様な笑みを浮かべて息を吐く。
「今のは史朗のクラスの担任の緒方先生だろう?」
「あっそうです、よく分かりましたね。」
「まぁ声で分かるさ・・・しかしこんな時間か、今日は40分短縮授業・・・ああだからこんな時間に通ったんだな。」
 決して表情でわかったとは口にせずに流して来る時に見た職員室の掲示と時刻とを照らし合わせる。そう普段は45分であるのに今日は職員会議がある為に5分短縮の40分短縮授業で5時間目で終わる日、だからこの時間帯に教員が通りかかった訳である。時間からして恐らくかえりの会が終わった時間、今から人通りがこの相談室の前の廊下にて激しくなる事だろう、それを考えると迂闊に午後の5時間目を史朗はサボってしまった訳であるから早々気軽に出す訳には行かない。
"どうしたものかな・・・。"
 ふとどうこの場を対処するか青年、西は考えた。西にしてももうそろそろ中学校のカウンセリングの時間になるから人気が無くなるまでここで付き合っている訳にもいかない、かと言ってここでさっと放り出すのもどこか具合が悪かった・・・何よりも史朗はクラスの友人達と昼休みの件で1つあるのだから余計に悪い。
「先生・・・それじゃあ、僕は・・・。」
「あ・・・ちょっと待ってくれ。」
「あっはい。」
 立ち上がって外に出ると口にしようとした史朗を制止する西、そして動きを止めたのを見たのに続けて・・・西はその踵と踵とをぶつけて軽く音を立てる。そうスニーカーにしては澄んだ金属的な音を1つ、静かな空間に響くそれはどこか奇妙で次の瞬間、部屋の中の空間の一部が歪んだ。
「3号・・・その子の荷物を今すぐここに持って来い、それとこの子をちゃんと家の近くまで送ってやってくれ。」
「了解致しました。」
「確か・・・5年1組の東堂史朗だ、いいな?」
「はっそれでは。」
 そう言うとその歪みは消え一方で史朗は表情を強張らせていた。そのやり取りそう自分に対して向けていた声とは違う西の冷たい気配の漂った声に反応してしまったのと、何よりもその異質な気配に感じ入ってしまったからであろう。強張って目を丸くしている。対して西は軽く一つ事をしたと言う様に息を吐くと、それと共に気軽な表情に戻って再び史朗の方へと顔を向けていた。
「驚かせてすまないね・・・まぁほら今から教室に出たりすると気まずいだろう?」
「あ・・・は、はい。そうですね・・・今から行ったら授業もサボっちゃったし・・・。」
「ああ、だからね・・・まぁ休んだ事は上手く処理しておくから、そうだ今から僕の家に来るかい?」
「えっ良いのですか・・・?」
「ああ良いとも、何折角の短縮授業だ。それにこうなったのも何かの縁、どうせなら・・・ほら君がしたいと言っていたゲームもあるしね。好きにしていいぞ。」
 硬軟織り交ぜと言うべきか、この短い間に冷たい声と暖かい声とを使い分けて史朗の気持ちをそれこそ自らの一部であるかのように西は操っていた。怖れさせたかと思えば次にはそれを消して元通りにして・・・と、そして巧みに誘導しその気にさせていく。それにすんなり乗っていく史朗も単純すぎるのかもしれないが、授業をサボってしまった事と昼休みの件と2つもあるのだからどこかで心は不安に包まれているし安定してはいない。
 その様なそれは1人ではどうしようもない事をこの人・・・つまり西と居れば和らいで忘れられて楽しめるし何よりも休んだ事も無しに、上手くという言葉をそう勝手に解釈していた史朗はそれに載る下地を作られていたし何よりもそれを受け入れる要素を彼は自ら整えていたのだ。だからそう考えると西の勧めに載ったのは至極最もな反応でありそしてその説明に聞き入る。驚くかも知れないが怖がる事は無いと言う事、先に家に着いたら好きに過ごしていて良いと言う事を丁寧に噛み砕いて分かりやすく伝えそれを飲ませているその間に再び空間が歪んだ。
「わ・・・。」
「よしご苦労、ちゃんと持ってきているか確認してくれないかい史朗君?」
 歪んだ後に現れたのは西にとっては見慣れていて史朗にとっては初めて見る姿の者・・・ネコ科特有の鋭い眼光を持つ薄茶色のかかった白基調の余裕もありながら短く濃い毛に覆われ、横に対してやや斜めに伸びた三角耳、何よりも腰の背後から尻尾を垂らした姿の存在、3号が持ってきて机の上に並べたのは明らかに史朗の持ち物であった。
 それを促されるままに確認し・・・言い含められていたのもあってか強い恐怖とか怖れは感じずに、ただ若干のぎこちなさを以ってちゃんと物があるかを見てある事を伝えると西は満足げに口を開く。
「それじゃあ史朗君、荷物を背負うなりして持ってくれ。」
「はい。」
 素直に答え普段通りに鞄を背負い手提げ袋を手に提げる、するとその支度が整ったのを見て西が頷くと背後からその異形なる者が近付きそして史朗をその手中に軽々と収めて抱え込む。驚きの余り体を軽く動かして抵抗する感じを見せたが西はそれに何ら気を止める事無く指示を続けた。
「よし、3号史朗君を家に連れて行け。事がすみ次第追って戻る。」
「はっ御意。」
 そして軽く跳ねると次の瞬間にはその者と抱えられた史朗の姿は消えていた、そして何時の間にか空けられたのか窓が開き外の新鮮な空気が流れ込んでくる。その光景をしばし見つめていた西は口元を奇妙に歪ませると踵を返して相談室から出て行った、そして鍵を閉めて中学校校舎へと向かう最中もその口元の歪みは消えなかった。

「おーい瑞姫起きろー。」
 朝、レースカーテン越しに差し込んでくる白くどこか薄暗い今に立って弘宗はドアをノックする様に襖を叩いていた。叩く襖の先は自室にしてシェアルーム、そう妹瑞姫とキャビネットによって単純に仕切っただけの部屋である。その部屋につい2時間ほど前まで弘宗はいた、いたと言うよりも自らの"部屋"とされている区画で横になって寝ていた。
 だが目を覚まし日課の仕事・・・早朝の新聞配達へ行くべく、すっかり目覚ましも無しに起きれる体にて普段通りの時刻に目を覚ましそれこそ静かに忍び足にて襖を開けて今へ抜け出し一息。そして洗面所にて着替える、空が白みつつある眠りただかすかに遠くの操車場に到着した貨物列車のブレーキの響く音だけが街中に響くのを、矢張り何時も通りに耳にしつつ自転車を街の中心部へと漕ぎ進めていった。
 そしてつい先程帰って来て、その足で起こしにかかっていたと言う訳だった。彼の背後ではやかんが火にかけられてグツグツと密かな音を立てている、そしてこの様に起こすのもまた日課。瑞姫の寝起きの悪さは兄と共にしょっちゅう語り草にしているほど悪質と言うに相応しいレベルで、寝ぼけての瑞姫の武勇伝はそれこそ一晩の酒のつまみとしてはこれを置いて他には無いと言えるほどのもの。何よりも武勇伝抜きでも瑞姫はそのまま寝させていたら・・・恐らく完全に惰眠を貪りすぎるまで、早めに夜に寝ても10時頃にならないと目を覚まさない、それほど眠りが深く眠りを愛していると言えるだろう。そして酒の話としても軽くうってつけではあった。
 しかし唯一の欠点としてはそれは兄弟の間でしか基本的に通じず、何よりも瑞姫自身に記憶が無くて強く否定しているので余り言い過ぎると瑞姫を傷つけかねないからそう表立って言う事が出来ないという事だろう。これが瑞姫が弟、つまり男であればまた別であったかも知れない。しかし瑞姫その名の通り妹で・・・女である、だからその繊細さは男が思う以上に複雑なものであるからそう出来ないのを少々残念に弘宗は常々思っていたのだった。
 そうしてそう思う彼が、日々一番の早起きであり勤務シフトによって時間が不定な兄の代わりに家の中を仕切り、こうして瑞姫を起こす役目を負っていると言う訳である。ちなみに今日は兄は今日から明後日まで休み、だからまだ起こす必要は無い・・・と言うよりも兄は目覚まし時計で起きるから余程の事が無い限りお越しに行った記憶は無かった。

 しかしこの瑞姫を起こす日課もここ数日は中断していた、何故ならそれは既に見て来た様に一時行方不明となって見つかって以来それまでの瑞姫では無いかの様に彼女は・・・強くなっていた。言葉に目の輝きに皆覇気が宿り食欲は旺盛で、何よりも朝が違っていた。そう自ら目を覚ましていたのである、それも寝ぼけるという事の片鱗は皆無のまま朝から高いテンションにて活発に動きを見せていた。
 ただ唯一、外に出るのだけを妙に嫌がっていたので学校にはしばらく風邪と言って休む旨の連絡を出していたものの、実際は元気そのものまるではちきれんばかりで逆に兄と共に当惑しながら見つめていたと言うのが実際のところであった。
"流石にスタミナ切れかな・・・まぁむしろこの方がこちらとしては落ち着くけどな。"
 だが今日は起きてこない、自分を起こすまでしていたというのに今日はまだ寝ているのだろう全く以って静かで何の音沙汰も見られない。それは今思ったように起こす側としてはようやく普段通りに戻ったかと思わせられた瞬間、ほっと一息・・・また手がかかるのだろうがそれでも日頃の常識へと立ち返った事による慣れの回復の方が今この場では心地良かった。
 手を止めて軽く火にかけてあるやかんの方に視線を送って確認する、そしてちょっとした微笑を浮かべて襖を開けた。擦る様な音と共に若干滑りが悪く上下に揺れて音を立てつつも全開にしてまず見えるのは自分の区画。そしてキャビネットと壁の間に渡されたカーテンの仕切りを前に立ち手をかけて広げると共に首を突っ込ませる、数日振りの日常として寝ている妹の・・・布団を目茶目茶にして大の字で寝ている姿を見た・・・いや見える筈だった。
「へ・・・?あっ・・・。」
 次の瞬間、一陣の突風が部屋の中に同心円状に吹き荒れた。襖は外れて机の上にある軽い物も飛び去り・・・兄の部屋の襖は外れることこそしなかったものの、大きく揺れ響きその安眠を妨げたのだった。
「なんだぁ・・・ねむ・・・こんな早いじゃねぇか・・・。」
 欠伸をしつつ兄は起き上がり自ら襖を、そして荒れた居間と台所の惨状を目の当たりにして驚きの顔を見せた次の瞬間・・・先程よりも弱いとは言えまたも突風が家の中に伝わる。軽く窓ガラスが窓枠ごと揺れてまた静まり、そして何の気配も無くなった。ガスコンロの火すら消えてただ床に落ちたやかんから熱せられた水が漏れ、静かに床に広がり一部が絨毯に吸い込まれている以外は何の動きも見当たらなかった。
「っと・・・何だ今のは・・・驚くなぁ。」
 ちょうどその時、その部屋から程近い外にある駐輪場より自転車を漕ぎ始めたばかりの人が、無風の中で起きた急な辻風でバランスを崩したのとの関連は定かではない。部屋の中を、2人を襲い部屋の中から動く者を消し去った同心円状の・・・衝撃波との関連はわからない。少なくともそのバランスを崩した人にはわからないであろうしそう記憶に残る事でも無いだろう、ただし例外は何事にもある様にこの事を記憶する者もまたいた。それは山の向こう、街の外れの屋根裏にいた・・・異様な気配を感じ取るという形で知られ印象深く記憶に刻まれていた。


 続
ラベンダーフォックス・遠く離れた土地で・第1話
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