ラベンダーフォックス・第十章巡思 冬風 狐作
「お、瑞姫は寝たのか。」
「ああそうだよ兄貴・・・まぁあれだけ食べれば満腹感で眠くなったんだろうけれどさ。」
「なるほどなぁ・・・まっ後でかわいい寝顔にキスでもしに行くか?ん?」
「え゛・・・それは・・・ちょっと。」
 風呂上りで頭を拭きながら居間に現れた兄とのやり取り、その最後の言葉に弘宗は思わず顔を強張らせた。しかし兄の反応はと言えばその様な弟の様子など、どこか別の世界の事だとでも言わん限りに大きく笑いそして素早く首からタオルを下げてティッシュで鼻をかんでいた。
「ははは・・・本気にするなって、幾らお前の様な愚弟の兄だからってそんな事はしないさ。」
「・・・なんか1つ引っかかる言葉があったのは気のせいか・・・?」
「ああ空耳空耳、気のせいだな・・・で、だ。」
 そこまでどちらかの属性に属していると言えば陽気な方に属していると言えた兄は、急に語調を・・・最もそれは珈琲牛乳を一気飲みしてからと言う前置きがあるとは言え、明らかにトーンを落として静かな極普通の会話と言う様子に変えた。そして目も何処かまともで、むしろ表情と共にどこか真剣さすら漂わせて弘宗と対になる位置の椅子に腰掛け机の上に腕を乗せる。
「瑞姫の事・・・?」
 その気配、そしてその前の話題からすぐに察した弘宗は先手を打って勝利を・・・と言う事は無いだろうが、兄が一体何を話題とするかと示す前に切り出し様子をうかがう。それに一瞬の間も置かずに兄は頷き肯定すると口を開いた。
「そう瑞姫の事だ。・・・率直に言って何かおかしい。」
 それに対して弘宗は敢えて何も今度は言わずに彼なりに真剣な眼差しをぶつけて続きを促す。
「あんなに元気だったか?瑞姫が・・・地区の寄り合いでの話は聞いているだろうし、そもそも家の中でも常に静かで何時も俺達の後を追ってくるそんな感じだったろう?」
「と言うよりも引きこもっている・・・じゃないの?」
「ん、まぁとにかく大人しかったと言うのに・・・あんなに活発に口を開いてあんなに食べるなんて妙過ぎる。特にお前はそう思う筈だ、あんなに帰ってくるまでの間に冷蔵庫が空になるんだからな。」
「ああ・・・そうだね、兄貴も怒ってこないからおかしいとおもってたけどやっぱりそう思ったからだったのか。」
 納得した様に弘宗は首を縦に振り、続けて幾らか振り続ける。確かにまだ彼は、兄の帰る前に冷蔵庫に半ば首を突っ込んで思った様に怒られるとか、何か言われるとか特に行動をまだ起こされてはいなかったからだ。どうしてされないのか不安に思っていたところもあったが、それで改めて納得しての安堵・・・とも言えなくはないだろう。
 そして何時の間にか手を背後に伸ばすとそこに置いておいたペットボトル、中にレモンティーが入っているそれを手に取って蓋を開け軽く一口口をつけた。そして兄の視線を不思議と気にせず姿を元に戻すと、今度は彼の方から兄に対して改めてこの兄不在の時間の瑞姫の事を口にする。
 何時もと違うと感じていた兄も、実際に接していた弘宗の口から紡がれる言葉の一つ一つに様々な反応を見せつつ聞き入り・・・そして溜息をついた。手は自然と額に伸びて片腕で支えられる頭、そして首筋を軽く掻くと小声でそっと呟き立ち上がった。その声量は余りにも小さく、また咄嗟だったのではっきりと聞き取る事は出来ず弘宗は改めて何と言ったのかと問い掛けるが、それに兄が答えることは無かった。
「まぁ・・・とにかく寝よう、瑞姫の事は・・・何とも言えないな。とにかく静観して様子を・・・それじゃお休み。」
「え・・・ああ、お休み兄貴。」
 そう言って一応兄が自室として使っている一間の襖の奥に消えていくのを弘宗は見送り、そして1人残された。どうも落ち着かないその心を宥め様と気を紛らわす為にテレビをつけたが、古いブラウン管の向こうにあるこの雰囲気とは到底あわない馬鹿騒ぎの番組に余計に気分を壊し、そのままテレビを消す。そしてしばらく体から力を適当に抜き、その場に腰掛けたままだれては彼もまた自室・・・それは1つをキャビネットで仕切っただけの妹と共用した部屋にあるベッドにもぐりこむのだった。
"瑞姫が・・・瑞姫じゃないなんてなぁ・・・。"
 居間の電気が消されそしてそちらの部屋に通じる襖の閉まる音を聞きつつ、兄は1人本に埋まった部屋の中で瞳を閉じた。

「ただいま戻りましたよ・・・ふぅ。」
「ああ戻ったのか氷室・・・ふぅん・・・。」
「何ですか?僕はあなたに見つめられるための存在ではないのですよ・・・言いたい事があるなら言って下さい。」
 ゴロンとしつつ氷室は何時も薄暗いものだと感じつつ青年に冷たい視線を向ける。この青年は何かあると自分を見つめてばかり来るのが少しばかりうっとおしくも感じていたが、そう呟いた後は敢えて無視して沈黙する。それに青年は・・・こちらはこちらで慣れた様子で軽く言葉を幾度と無く短くかけるが、氷室は答えるにも足らないと言わんばかりに無視しそして途切れ沈黙に沈む。
「ちょっと出かけてくるな。」
「ああ・・・行ってらっしゃい。」
 そしてようやく立ち上がり戦中の国民服の帽子にも似た帽子を被り、上着を羽織ったところでようやく返された見送りの言葉。続いて光が、ドアの開かれた事による廊下に差し込んでいた陽光の一部が白く部屋に入り氷室の氷の白さを一瞬際立たせる。埃の舞い上がるそれともあわせてまるで酷寒の朝の一幕にも見えたのは青年の目だけだろうか、しかし今度は見惚れる事は無くすぐに扉を閉じて青年は階段を下り外へ出た。
 暖かい陽光の元、自転車の鍵を外し街の中へと漕ぎ出す青年。その姿はとても普通で何も違和感の無いどこにでもいる若者、少しばかり昔風味であるだけであった。そして自転車は街を抜け踏み切りを越えて広い敷地を囲んだ柵の中へ、その中には幾つかの無機質なコンクリート作りの建物とだだっ広い土に白線の痕跡、そしてその隅に幾らかの器具の置かれた場所・・・そう学校へと自転車に乗ったまま何の抵抗も無く入っては職員室へと消える。

「あのー・・・。」
 そして1時間程経った時、1人の女子生徒がとある扉を叩き開く。
「はい、どうしましたか?」
 そしてその中で椅子に腰掛けて迎え入れる人影、その顔はあの青年だった。


 続
ラベンダーフォックス・第十一章遭遇
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