ラベンダーフォックス・第九章紫達 冬風 狐作
「うがあぁぁぁぁ・・・なんで、なんで俺とした事があああああっ。」
「・・・!」
 美根子がいきなり目を覚ましたのはその大きな叫び声だった、慌てて布団から実を出すと床の上に伏せる様にしている物から発せられていた。紫と濃紺のふさふさの長毛に尻尾、垣間見える角の様な先端そして声と軽く震えているその体・・・少なくともその色と角がなければ少しばかり大きめではあるがゴールデンレトリバーと言っても差し支えないだろう。それが唸っている・・・そしてその名前を美根子は知っていた。
「御神・・・さん・・・?」
「・・・む、目を覚まさせちゃったか、いけないいけない・・・っと。」
 彼女の問い掛けに対し急に言葉の勢いを変化させると御神はその四肢を以って起き上がり、向きを変えてその場で軽く座ると、何事も無かったかの様にその肉球をこちらに向けて振っていた。その表情にはほんのりとした微笑すら浮かんでいて先ほどの・・・慟哭と言うよりも恥ずかしさ、そちらに対してと思える勢いでの叫び声を発していた存在。それとは同一とは思えない姿に、ふとあの光景・・・氷室と名乗る白い獣竜が現れた時の事を思い出されるのであった。
 そして思わず片手を自らの首筋に当てる美根子・・・すれすれまでに当てられていたあの巨大な鎌の刃は当然無い、そしてその傷跡は尚更ある訳が無かったが幾度と無く撫でなくては気が済まなかった。
"ふー危ない危ない・・・ひむひむに一本取られちゃったなぁ、うん、今度お礼しなくちゃネ。いろいろな意味で。"
 その仕草を繰り返す美根子を前にして御神は内心でそう思い、気付かれない様に息を吐く。何時の間にか肉球を振るのを止めてはいたが当然、自らの記憶の反映とそれによる首弄りに夢中な彼女が気がつく事は無く、御神は次第に面白い物を見る目に瞳を変えていくのであった。
「ん、紫狐君の方は具合は良いのかい?」
 しかし何時までもそれでいられる筈が無い。しばらくすると彼女もその確認に満足したのか手を止めて、すっかり布団から這い出てベッドに腰を下ろした格好で向き合う。じっとぶつかりあう視線同士にお互いに気まずさを感じたのかほぼ同時に口を開きかけ、中から声が出て来たのは御神が先であった。
「え・・・あ、まぁその・・・お陰様でだけれど・・・御神さんは・・・?」
「ん、俺?」
「そう・・・ほら、あの時顔に私が・・・。」
 きょとんとした様な反応を見せた御神に美根子は更に畳み掛ける、そう自らの手をクリーンヒットさせてしまった際に怪我はしなかったかと。怪我は無くとも傷は負ってはいないかと・・・美根子には、あの血の滲んだ唾液を吐き捨てたあの光景もまた強く印象深く焼き付けられ、そしてそれはあの後の御神の一時的な変貌ぶりと共に大いに懸念させられる事だったのである。
「ああ・・・問題ないよ。うん、問題ない・・・あの時はクラッと一瞬来たけれどね、気にするほどじゃないよ。んふふふ・・・。」
 返って来たのは何時もの、何時もとは言えそう長い付き合いとはまだいえないが彼女の知る陽気な気の良い普段の御神だった。それを見て大いに安堵し気持ちを緩める美根子は、その勢いで大きく両腕を突き上げて息を吐き体の力を抜く・・・そして大いに解すと共に体を元に戻し瞳を開くと、その足元に何時の間にやら移動して来た御神の姿を見るのだった。

「でも・・・ごめんね、本当・・・あと・・・。」
「あと?」
「あの氷室さん・・・て言う白い獣竜にお礼を言いたいんだけれど・・・また会えるかな?」
「・・・ひむひむに、ねぇ〜・・・。」
 その問い掛けに対して急に御神は左手でこめかみを掻き始める、てっきり弱って答えに窮しているのか・・・また何か聞いてはならない事を聞いてしまったのではないかと、一瞬緊張と不安が美根子を貫きそして身構えさせた。そして数拍の間を置いて御神は口を開く。
「まぁ・・・ひむひむは放っておいた方がいいんじゃない?あの性格だもん、お礼言ってる間に殺されたりするかもよ。それにひむひむにお礼言う前にキミの方にこそ正さなきゃならない事があるんじゃないかな?」
  「そ・・・それはそうだけど・・・。」
「何がそうなのさ?」
 急に怯んだ様にか細い声になった美根子に対して御神は鋭く切り込む、分かっているのならその対象は何なのかと。それに対して彼女は抵抗はせずに御神の望む言葉を述べる。
「・・・精霊・・・ね。」
「そうだねぇ、それはひむひむよりずっと重要なことでしょ?その価値は俺やひむひむの比じゃないと思うよ、色々な意味でさ。」
「でも・・・私・・・。」
 しかし美根子もこだわる、そう素直に御神の言葉を飲もうとしないその姿に御神は尻尾を揺らしつつ言葉をぶつけていく。
「でもって言うけどさぁ・・・俺はあくまでもリョッコに頼まれて君のお守りをしているだけなんだよね。つまりリョッコがいなければずっと赤の他人、それは精霊達にも言えるかもだけどさー・・・少なくとも精霊達はキミの一部となっているのだから仲良く・・・とまでは言わないけど良好な関係は築いておくべきなんじゃない? というかそれはキミが紫狐となっている以上の義務なんじゃないの?」
「義務・・・。」
「そ、義務だと俺は思うよ。いや義務以外で相応しい言葉は無いと思う・・・かな。」
 そしてその場はまたも沈む、今度は互いに視線を合わせない。敢えて御神は明後日の方向を向いて今度は右手で米神を掻き、一方で美根子は何かを考え同時にこらえるような気配で視線を足元に落とし、その爪先の指を思い出したかの様に動かしつつ沈黙を保つ。
 時間は静かに経過し機械式ではないアナログ時計の音が、部屋に響くかの様な錯覚すらさせられる時間・・・それをへた美根子はそれこそ不意に。何事かは分からずともとにかく決心が付いたのか顔を上げ、御神にぶつけるのでは無くさも独り言を言う様に美根子は一気に吐露した。そう心の中に溜まっていた何者なのか正体不明な澱を吐き出すかのごとくの勢いで吐き出した。
「義務でも・・・なんでも・・・私は人殺し、人殺しなんだから・・・っ・・・もう罪を重ねたくなんて無いっ!」
「紫狐君・・・ちょっとそれは・・・。」
「私は・・・怪人とか言う存在を倒した、でもあれは元は人なんでしょう?生きる者なんでしょう?だから・・・だから殺したのよ、私は人を。そして拒絶したの・・・私から拒絶しておいて謝るなんて・・・出来ないよぉっ・・・もう嫌!」
 最後は涙混じりの絶叫だった、それが幾ら耐寒で気密性の高い様に作られているが故に、些細な物音などした所で他の部屋には響かない構造の家とてそこまでの絶叫では当然伝わり渡る。そしてそれをただでさえ敏感になっている両親、そして弟と妹が誰一人として気が付かない訳が無いのだ。すぐにドアの外に迫ってくる急ぎの気配に御神が気が付かない訳が無が無かった、軽く舌打すると御神は一瞬シーツを掴んで泣きじゃくる美根子を見るとそのまま消え去った。
「お姉ちゃんどうしたのさっ。」
 駆け込んできたのは弟であった、その年下である弟の問い掛けに姉たる美根子は答える事無くまるで幼子の様に泣き伏せるのだった。そして続いて駆けつけるは帰宅したばかりで先ほど目覚めた際にはいなかった妹に、居間にいた母親・・・父親だけは妹と入れ替わりに外出しており姿は無かった。そして父親が帰宅した時、家の中には混迷が満ちていたと言う。


   続
ラベンダーフォックス・第十章巡思
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